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カテゴリー ダメダメ土曜講座(トピック編)
配信日 09年8月15日 (10年8月4日 記述を追加)
タイトル いい子としての日本
ダメダメ家庭は発想が減点法であり、減点のない「いい子」になりたがる・・・
このことは、このメールマガジンで頻繁に触れております。
周囲の人の行動に合わせ、その人たちに配慮し、嫌われないようにする・・・
そんな「いい子」になりたがるわけ。

嫌われたくない」と思っているので、「語られた被害に対しては過剰に食いつく」ことになる。
「ああ!ボクは、あの人たちに被害を与えているのか!」と、そんな事態が発生すると過激に反応し、ヘタをするとパニックになってしまうわけ。
いわば「加害者認定に対しての耐性が低い」わけ。

人から嫌われないように・・・という名目で、「人に合わせてばかり」なので、逆に言うと、自分では考えなくてもいい。
「いい人」というものは、ある種の自堕落さと繋がっているもの。「自己逃避」の一種なんですね。
自分で何かを達成したいとは考えていない。むしろ、消費者の立ち位置に徹している。

それこそ、以前に「満足できない」という言葉を取り上げました。
当事者意識がなく、消費者に徹している自堕落なダメダメ人間は、他人の業績を取り上げ「こんなものでは満足できない」と言い放ち、「こんな程度では満足できないオレって、なんて立派な人間なんだ?!」と自画自賛するわけ。

しかし、逆方向の自堕落さもあるわけです。
どんな程度でも満足し、許容してしまうわけ。
それこそ、相手のダメダメなところを暖かく受け入れることになる。
つまり、相手の減点なり不都合な点を許す自分という形で、自分の包容度をアピールするわけ。
「こんなダメな人間にも満足できるオレって、なんていい人なんだ?!」となるわけです。

そんな人は、たとえば、韓国を好きでしょ?
そんな人の心の中では「こんなダメダメな韓国を好きなオレって、なんていい人なんだ?!」と絶賛の境地となっているわけです。
まあ、韓国以外にも、ダメダメなものに対して、妙に「理解がある」人もいますよね?
それこそ「彼らにも事情があって・・・」なんてエクスキューズをすぐに言い出し、「他人弁護」に走る人もいるでしょ?

結局は、「人々の事情に理解があるボクって、なんていい人なんだ?!」「キミたちもそう思うだろう?」
と、いい子ちゃんアピールをしているわけです。
自分の減点面をなくすという「いい子ちゃん」のパターンだけでなく、「他人の減点を許す」いい子ちゃんのパターンもあるわけ。
許容するマイナスの幅の大きさは、逆に言うと、どの程度までやり取りの相手のマイナス面を許容するのかを自分で判断し、峻別することからの逃避なんですね。

判断することから逃避してばかりだから、ますます人に合わせるようになる。
そして目の前の「リスクから逃避」して、「問題を先送り」してばかり。
逆に言うと、リスクも認識しないし、あるいは、何とかして成し遂げたいという目標もないので、手を汚すこともなく、まさに「いい人」でいられることになる。

さて、ダメダメというのは、まさに個人レヴェルで発現したり、あるいはこのメールマガジンで集中的に考えております家庭レヴェルのダメダメもある。
あるいは、やっぱりこのメールマガジンで頻繁に言及しておりますが、韓国や中国はいわば国家レヴェルでのダメダメ。中国も韓国も、ダメダメ家庭の基本的なメンタリティを、国家レヴェルにまで拡大した・・・そう認識すると、彼らの言動も、実に見通しがよくなるものです。

じゃあ、日本は?

日本にお住まいの方は、そんな疑問を持たれるでしょう。

韓国や中国が、いわば被害者意識を爆発させて、会話不全で問答無用の・・・いわばクレーマータイプの強圧的なダメダメなのに対し、日本の場合は、「いい子」志向のダメダメが顕著に進行していると言えるでしょう。
「いい子」という視点を取り入れると、現在の日本の問題も見えてくるんですね。

前にも書きましたが、「いい子」というものは、周囲に配慮して、欠点がなく、嫌われない・・・そんな子供は、周囲からの要求には「合わせる」ことになる。
周囲からの要求に合わせればいいだけなので、逆に言うと、自分たちで考えなくてもいい。
自分で考えない習慣ができてしまうので、言語能力も落ちてくる。言語は会話の道具であり、思考の道具でしょ?

つまり、人に合わせていればいいだけの状態だと、「思考力」も落ちてきてしまう。
だから、いざという時に、自分たち自身で判断することもできない。
だからこそ、周囲からの要求がたとえ不適切なものであっても、それに対処しようとしてしまう。相手からの要求を分別する思考力や判断力がなくなってきてしまう。
ヘタに自分たちで判断しようとすると、自分たちで事態を認識しないといけない。
それは抑圧的な人間にしてみれば、恐怖につながるもの

しかし、当然のこととして、そんなことをしているとひずみが発生する。
語られる被害に対しては過剰に反応するダメダメ人間は、逆に言うと、「被害を語ることができない弱い立場の人間は無視」することになる。

社会において被害を語ることができない立場となると、何も昨今話題の派遣労働者とかではありません。
それは子供なんですね。子供は自分たちの要求を言うことはできませんよ。選挙権がないどころか、まだ生まれていない場合もある。だから語られた被害にしか対応しないようになると、子供の意向などは聞かなくなってしまうし、想定しようとしない。

大人が「いい子」であるためのひずみが、子供に対して集約してしまう。
そして、「ボクたちはこの家庭に生まれて幸せだ!」「ワタシたちは日本に生まれて幸せだ!」と子供に言わせるようにするわけ。
困難を語らせない状況」を作ってしまう。

家庭でも国家でも、今のところは基本的にうまく行っていても、某かの要求もあるはずでしょ?
それを適宜、汲み取っていく努力をする必要があるのでは?
しかし、要求を言わせないように持って行ってしまう。
大人たちの事情に配慮した「いい子」であることを、子供たちに対して要求するわけ。

「いい子」というものは、人に合わせているだけなので、意外にも言語能力が低いもの。
説明能力が低いというよりも、常に人に合わせてばかりなので、そもそも説明したいものがない。あるいは、本当の意味では人の話を聞いていなく、読解力のようなものもない。
いわば、何も顕著な欠点がないという「二重否定」の存在。

いわゆる「いい子」が発した言葉で印象に残っているものはありますか?
「いい子」というものは当たり障りのない言葉しか言えないものでしょ?
周囲の人間にしてみれば、「いい子」というものは、ただ「その子供は、『いい子』だった。」ということしか、記憶に残らないもの。
言葉で認識し、思考するわけではなく、情緒を優先させる・・・それが、いわゆる「いい子」というものでしょ?

だからそんな人の行動は、言葉で記述すると、実にトンチンカンなもの。たとえば日本近海で迷った瀕死のクジラは必死で救出しようとするのに、南太平洋まで捕鯨に出かける始末。
言葉で記述すると、バカそのものですよ。
しかし、情緒で対応するので、そのようなことが起こってしまうわけ。
とりあえず、自分の目の前が「つつがなく」あればそれでいい。自分たちの気分が害されなければそれでいい。
自分の目の前の状態を重視しているからこそ、まさに目の前の存在ではない子供にひずみが集中することになってしまう。

打ち上げられた断末魔のクジラを必死に救助しようとするのに、遠くの海にいるクジラは捕獲に出かける・・・そんな日本の光景は、先がない年老いた人間を必死に保護しようとするのに、将来ある子供の未来をつみ取っている現在の日本の姿と同じでしょ?
常に目の前の情緒のことだけに配慮しているわけ。

「いい子」というのは、先がない存在でしょ?
まさに「こじんまりとしたまとまり」の状態。未来への発展性がないわけ。
そのような先のなさを、まさに子供が背負ってしまっている。
これでは少子化になるのも当然ですよ。

見えていない存在のことを考えるには、情緒ではなく言語が必要になってくる。
だから、言語能力が低くなってしまうと、見えていない存在について認識することからして困難になってしまう。
もともと、情緒優先の日本では、言語能力が低いことが多い。
以心伝心を旨とする日本社会では、ノーマルな日本人は日本語があまり上手ではない。
上手に日本語を使える人は、一般的な日本人とは別の感性を持っている。そんな人の言葉は、一般の日本人にしてみれば情緒的に受け付ない場合が多いんですね。

現在の日本の立ち位置としては、クラスの中の「いい子」が、クラスをまとめようと、乱暴者の言うことを必死で聞いているのはいいとして、そのストレスをため込んでしまって、どうにもならない状態に近い。
たまにあるでしょ?そんな状態。

事件を起こした子供がよく言う「いい子でいるのに疲れた・・・」が、そのまま今の日本と重なるでしょ?その「いい子」でいる疲労感が、まさに未来ある子供に集約してしまっているわけです。
日本の少子化の進行に対して、「あんなにリッチな国がどうして?」なんて疑念があったりするようですが、そんな疑念は、子供の事件があった後での「あんなに『いい子』がどうしてこんなことを?」というお約束のコメントとほとんど同じでしょ?

さて、じゃあ、「日本に将来はあるのか?」という大きな問題が出て来るでしょう。
私が考えるに・・・現実的には悲観的でしょうね。
何回も書いていますが、目の前にいない存在について考えるには、情緒ではなく言語が必要になってくる。
現在の日本は言語能力が低い人が多い。これは知的に欠陥があるというよりも、情緒で処理が可能だからという面から来ています。「言わなくてもわかる。」ことが美点となっている社会なんですね。

それに甘えていたので、結果的に言語能力が低下して、思考力も判断力も低下してしまったわけ。そこから脱却するためには、言語能力を向上させる必要があるわけですが、今となっては手遅れでしょう。
言語能力が低いということを自覚するためには、かなりの言語能力が必要になってくる。
別の言い方をすると、認識能力が低くなってしまったので、自分の認識能力の低下が認識できない状態。
まさに、「オレは酔っていないぞぉ〜」と叫ぶ酔っ払いさんの状態。

たとえば、最近の日本の政治家の言葉で印象に残っている言葉ってありますか?
小泉さんは、政治的な主張の是非はともかく、それなりに言葉が残っている。
しかし、それ以外の政治家では、残っている言葉は失言だけでしょ?
ヘンな話になりますが、オバマさんの言葉の方が印象に残っているくらい。

ただ、日本人もDNA的に言語能力が低いわけではないでしょう。それこそ江戸時代の初期の文章などは、力がある。芭蕉にせよ、近松にせよ、あるいは「葉隠」のような文章にせよ・・・
江戸時代の前の戦国時代は、誰かを自分の味方に引き入れるために、手紙が飛び交いましたよね?目的を達成するためには言語力が必要だったわけですし、それを読解する力も必要だったわけ。それがないと死んでしまう。
「殺すか?殺されるか?」そんな状況になると、それなりに言葉の能力が向上し、それが未来に繋がることになる。

言語力はそのまま認識力なり思考力なり表現力になる。
逆に言うと、言語力の停滞は、あらゆる知的な活動の停滞と直結している。
言語力が必要ではない社会は、それなりにいいところもあるわけですが、そのツケが未来に集約されてしまっている・・・それが現在の日本なんでしょうね。

(終了)
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発信後記

言語というものは、問題点を顕在化する力を持っています。
逆に言うと、言語によって、問題を「見させられて」しまうことになる。
言語力が低下すると、それゆえに、「我々はうまく行っている!」と言えてしまう。

しかし、問題から目を背けることができないくらいに大きなものになってしまった場合には、情緒では対応できない。
事態を認識し、解決方法を考察し、行動するためには言語が必要になるわけ。

アメリカの大統領選挙で、熾烈な戦いを繰り広げた、オバマさんやヒラリーさんや、マケインさんは、戦いが終わった後は、一緒にやっている。
もちろん、彼らだって情緒的には色々とあるでしょうが、言語による戦いは、言語によって、修復することができるもの。
情緒の戦いは、情緒では修復不可能ですよ。
情緒ができるのは、「見ない」という対処だけ。それは修復ではなく、逃避。
たまには、そんな方法もいいわけですが、やっぱり無理がどこかに集約してしまうんですね。
R.10/12/27