トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る | |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ | 事件系のチョイス |
カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない体験,境遇 | |
配信日 | 03年10月3日 (10年7月28日に大幅に記述を追加) | |
タイトル | コミュニケーションの訓練 | |
先日の長崎の事件(03年に中学生が幼児を突き落とした事件)で、加害者の少年は、「発達障害」でしたか・・・人とのコミュニケーションを取る能力の『発達』が遅れている・・・なる診断書が出たとか・・・ しかし、コミュニケーション能力の不足は、別に病気と言うものではなく、日頃の練習の成果でしょ? 人間というものは、赤ちゃんの頃から立派な伝達能力を元々持っていて、何もしないでいると、その能力が順調に発達するものなの?その発達ができないのが、「発達障害」という病気なの? 何もしないでいると、順調に発達するのなら、生まれたすぐに地下牢に一人で放り込まれた子供は、「いつのまにか」見事な表現能力を持っているはずですよね? しかし、そんなことにはならないでしょ? 適切な訓練をするからこそ、コミュニケーションの能力も身につくのでしょ? 人間というのは、単に可能性を持っているだけで、その可能性を伸ばすか伸ばせないかは、周囲の環境要因に影響されるのでは? それこそ、狼によって育てられた人間の子供は、人間としてのコミュニケーション能力があるの? 狼によって育てられた子供が、人間との間で適切なコミュニケーション能力がない状態になってしまうと「発達障害」という病気として診断されるの? 医者も警察も、そんなことを考えて「発達障害」という診断をしたの? 同じようなコミュニケーションの訓練を受けても、その習得度合いにおいて顕著な差が発生したら、確かに「発達障害」という病気といえるでしょうが、そもそもコミュニケーションの訓練を受けていなかったら、当人の病気とは言えないのでは? では、コミュニケーションの訓練とは? 別に、しゃちこばって「コミュニケーションの訓練」と言うと身構えてしまうかもしれませんが、子供の「表現」に対し、ちゃんと『反応』することでしょ? 例えば例の長崎の家庭では、このような感じだったと思うんです。 あくまで予想ですが、大きくは外れてはいないでしょう。 子供「お母さん、飴買ってよ!飴!」 母「・・・」 子供「お母さん、頼むから飴買ってよ!ボクおなかが空いたんだ!」 母「・・・・」 子供「あ〜あ・・・、昨日のイチゴ味の飴おいしかったなぁ・・今日はパイン味が食べたいなぁ・・・」 母「・・・・」 子供「Would you please buy candies for me?please!」 母「・・・」 子供「オイ!クソばばぁ!飴買えよ!飴!」 母「ジャマだ!あっちへ行け!」 このような「会話?」の場合には、子供としても、どのように自分の意向を表現しても、対象者の反応は同じですので、どのように自分の気持ちを伝えるのかについて練習ができない。まあ、今時「飴」など欲しがる子供もいないでしょうが・・・ゲーム機でも、服でも同じことですね? これが親の側でちゃんと反応すると、「会話」が進行するわけです。 子供「お母さん、飴買ってよ!飴!」 母「オマエ!昨日も買ってあげたじゃないの?甘いものばかり食べていたらダメだよ!昨日の残りはないの?」 子供「もう全部食べちゃった!けど、昨日の飴、本当においしかったんだ!今日は別の飴を食べたいな!」 母「昨日はどの味の飴だったの?」 子供「昨日はイチゴ味。だから今日はパイン味を食べたいんだ!」 母「昨日に買った飴は、もう全部食べちゃったの?少しずつ食べるようにして、それに最初から色々な味の入った飴を買えばいいじゃないの?今回はダメ!」 子供「うーん・・・」 まあ、上記のような会話だったら、結果は同じでも子供も納得できるわけです。それに自分の表現に対象者が「反応」しているので、次はどのような表現を使ったら、目的が達成されるかについて、無意識的に練習できるわけですね? これこそが、コミュニケーションの訓練でしょ? どのようなアクションをしても、対象者のリアクションが全部同じだったら、どのような表現を使ったらいいのかについて訓練ができるわけありませんよ。そんな状態になってしまった後になって、自分の意思を伝える能力が著しく発達が遅れている・・・と医者から診断されても困るわけです。だって、そのような家庭においては、表現能力が高かろうが、低かろうが結果は同じだったんですからね。 水族館でイルカに芸を仕込むのだって同じことでしょ? うまくジャンプできたら、エサを上げる。 失敗したら、エサを上げない。 芸を仕込む人間がちゃんと「反応」するから、イルカの側もどのように行動や表現すればいいのかを理解することができるわけです。 ちゃんと仕込んでいないイルカが、全く芸をしなかったって、それは病気とは言えないでしょ? まあ、水の中にいるイルカの場合はともかく、人間の子供の場合は、学校とかの、家庭以外の世界があるために、もっと混乱することになる。 学校ではそれなりに、自分の表現の違いに対する「反応」の違いが出て来るわけです。 ということで、子供は家庭の中での「反応(・・無反応ですが・・・)」と学校での「反応」のギャップに困惑してしまう。 自分が育った家庭は、反応におけるベースのようなものでしょ? そのベースそのものがないのに、多くの情報を処理しようとしても、無理ですよ。 しかし、イルカと違って、人間には確実に自分の意向を実現される必要でてくる場合もある。子供だって、相手にどうしても対処してほしいケースもある。 そのようになってくると、子供の側の表現が「込み入ったもの」になってきます。 子供「お母さん、飴を買ってよ!」 母「・・・」 子供「昨日、ヒロシ君のお母さんはヒロシ君に20個の飴を買って上げていた。タカシ君のお母さんはタカシ君に15個の飴を買って上げていた。ジュンコちゃんのお母さんはジュンコちゃんに25個の飴を買って上げていたよ。」 母「へえ・・・そうなの?」 子供「ご近所の人が、お母さんはケチンボだって言っているよ!」 母「じゃあ、飴を15個買いなさい。」 このように自分の意向を直接伝えるのではなく、相手の損得勘定を指摘するようになって来るんですね。だってそうしないと自分の意向が実現されないんだからしょうがない。 勿論、このような表現手法は必要な時もあります。 しかし、常にこのような相手の損得勘定を指摘する表現だと、自分の家庭以外では通用しませんよ。 誰だって、やり取りの相手側からいきなり我が身の損得勘定を指摘されたらイヤでしょ? 「ナンなんだ・・・コイツ・・・失礼なことを言いやがって・・・」と一般的には思っちゃいますよ。 しかし、ダメダメ家庭の子供としては、子供の表現に対し常に無反応であることが日常化しているんだから、コミュニケーションの練習ができないわけです。 ですから、自分の意向を実現させるためには、暴力等の身体的な表現に頼ったり(長崎のケース)、いきなり相手側の利害を説明したりするようになってしまうのは必然なんですね。 コミュニケーションというか、メッセージを発信する際の基本は、「どんな人に対して、どのようなことを分ってもらうのか?」と言うことでしょ? まずは「相手に対して分ってほしいこと」について、ちゃんと自覚することが必要でしょ? 「分ってほしいこと」が明確になっていれば、対象者についても、ある種の制限が発生するでしょ?「分かろうとする意欲」がない人間に対して、何を言ってもムダですよ。 しかし、ダメダメ家庭においては、そもそも、親の側が「分ろうとする意欲」などは持っていない。ダメダメな親の基本認識は「親である自分は、子育てという面倒を背負わされたかわいそうな被害者」という自己認識なんですからね。 だから、自分に子育てという面倒を背負わせた側である、つまり加害者の側である子供の意向などは聞く必要がないと考えている。 子供としては、そんな人に対しては、どんな表現手段でも結果的に同じとなり、「自分が言った」という事実は残っても、「相手が理解してくれた」という認識には至らない。 そうなってしまうと「言いたいこと」と「わかってほしいこと」の区別ができなくなってしまう。 まさに自分の思いを一方的に伝えることはできても、相手の状況なりリアクションなどは無視することになる。 そもそも、やり取りにおいて、相手の側が「話を聞ける状態」であることは必要なことでしょ?目が回るくらいの忙しい時に、話を持ちかけてもムダですよ。 そして、状態としては、何とかなっても、テンポラリーで都合が悪い時もあるでしょ? 食事中の会話だって、ご飯を口に入れている時には、話を聞くことはできても、それに対して答えることはできませんよ。 それに、話しかける相手が、自分の話を理解できる知的能力があるかどうかも、やっぱり重要でしょ?聖アントニウスじゃないんだから、魚に話しかけてもねぇ・・・ 魚は話の内容を理解できないんじゃないの? そのようなことは、自分の話を聞いた相手のリアクションを見ればわかることでしょ? 話を聞いても、聞く前とまったく同じだったら、「分ってもらっていない」ということ・・・それは、小学生でも分るくらいの簡単な論理ですよ。 話を聞く前と聞いた後での違いから、「どの程度まで、自分の話が理解されたのか?」を判断するなんてことは、ダメダメ家庭に限らず、一般社会の当然の発想ですよ。 しかし、ダメダメ家庭の人間は、そんな状況判断ができない。 「言いたいこと」はあっても「わかってほしいこと」はない。 だから、「言ってしまえば」それでオシマイとなってしまう。 相手の反応を認識し、そこから判断する心理的な枠組みを持っていない。 「合意を取った」という「肯定的な」判断ができないので、逆に言うと「反論を受けなかった」という二重否定的な状況を作ろうとする。 相手を強圧的に抑え込み、何も言わせないようにしてしまう。 まさに「つるし上げ」のようなことに邁進することになる。相手をつるし上げれば、確かに反論は受けないでしょ? しかし、それで合意されたとは言えないでしょ? しかし、「合意を取る」ことと「反論を受けない」こととの違いを認識する心理的なベースを持っていないので、反論を受けない方向に進むことになるし、もっと端的にいうと、何も反応がない状況を求めてしまう。 反論される可能性自体を摘み取ろうとしてしまう。 そして、「言い放し」が通用する世界に安住することになる。 それこそ、インターネットの掲示板に入れ込んで、「言い放し」ばかりになり、たまに反論されると、逆上することになる。 あるいは、市民運動のように、気に入らない相手をつるし上げて、反論されることから逃避する。あるいは、ボランティアのように「上の立場」から「恵んでアゲル」というスタンスでやり取りを行う。いわば命令と服従の関係性を作ろうとする。 「分ってほしい」という発想が基本なら、やり取りの相手からのリアクションは肯定的に受け止めることになる。 それこそ、自分が説明した考えに対し、相手から否定的な見解が返ってきても、その否定的なリアクションを踏まえて、説明をより充実させる方向で対処したり、あるいは、そんな人とはやり取りをしない・・・そんな対処になるわけでしょ? しかし、ダメダメ人間は、相手からのリアクションそのものを否定的に見ている。 だからこそ、一方通行で片がつく「やり取り」を求めてしまう。 あるいは、反論されにくい、権威筋認定のご高説を連呼することになる。 権威筋認定のご高説だったら、それを「言った」としても、相手から「それがどうしていいの?」とは返ってこないものでしょ? だから、その手の人間は「人権」とか「平和」とかのご高説が大好き。 このような環境で育った人間は、まさに犯罪を起したり、家庭内暴力(ドメスティック・ヴァイオレンス)の加害者になってしまうわけです。だって、自分の意向を身体で伝える訓練を受けて育ってきたんですからね。 親は子供からの表現に反応しなければならない・・・と法律で規定されているわけではありません。まさに長崎の事件のように、法律違反は子供の側が担うことになってしまう。 そして、子供のトラブルに際し、ダメダメな親は「どうして、こんなことに?!」と大仰に嘆くことになる。 そんな親は、子供から受けた自分の被害に対しては反応しても、子供の意向には何も反応しない。 そんな状況で、コミュニケーションの訓練ができるわけがないでしょ? 本番第3回目終了 ****************************************************** 発信後記 前回配信の「私は普通の家庭を築きたいだけ!」というお題に、不快感を覚えられた方も多いと思います。実際によくある例ですし・・・ 我が子に暴力を振るっている、私が知っている母親も「普通になりたいだけ!」って言ってましたねぇ・・・・ |
||
R.11/2/3 |