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カテゴリー | ダメダメ家庭の雰囲気 | |
配信日 | 04年2月4日 (10年11月18日 記述を追加) | |
タイトル | 子供の前でイライラを爆発させる | |
昨今は親による子供への虐待問題がよく遡上に登ったりします。 最近も、例の大阪の事件を契機に、いつものように「とりあえず」騒がれているようです。 そのような虐待事件への対応として、様々な法律も整備されてきました。 このような法律は、ないよりもあった方がいいのは勿論ですが、結局は効果がないんですね。実際にこのような事件は減っていないでしょ? 法律というものは、子供が死んでしまった後になって、罪状を当てはめるには便利なんでしょうが、事件が起こらないように、あるいは、子供が死ぬのを防止する効果は期待できません。 そもそも家庭内に弁護士や警察が常駐しているわけでないんですから、たとえ、家庭内で法律に違反した行為があったとしても、その都度判断して、処置をするわけにはいかないでしょ? つまり、事後には有効であっても、事前の対策にはあまり効果がないわけ。 そのように、法律というものは予防のための方法論として役に立たないだけでなく、法律が持つ客観性という制約ゆえに、子供の虐待の問題を法律で対処することが難しいわけです。 法律というものは「誰が見ても問題である。」ことしか対応しないことを、その特性としています。 強制力があるものなので、厳密な客観性が必要とされるわけ。 しかし、そのような客観性が必要とされるがゆえに、子供の精神への影響という、心情的な問題にはタッチできないわけ。 そもそも、人間の心情を客観的なスタイルで議論するのは、難しいものでしょ? それに大人の心理ですら扱うのが難しいのに、子供の心理はもっと難しいものですよ。 20世紀の哲学においては、様々なマージナル(境界)な領域に思考を進めましたが、一番扱うことが難しかったのが「子供」というマージナルな領域だったことはご存知の方も多いでしょう。 それに、虐待の問題であれば、当事者の子供は、特に、本音を言わない。 親に配慮して意識して言わないケースだけでなく、子供自身が自分で自分を騙すようなことをしていたりする。そうでないと、そもそも虐待家庭では生きてはいけませんよ。 つまり、子供が語る言葉は、その子供の心理状態を正確に語っているとは言えないわけ。 自分で自分を騙すための言葉だったり、親の機嫌を損ねないように配慮した言葉だったりする。それに、もともと家庭内で会話があるわけではないので、そんな環境の子供としてはもともとの説明能力が低い。 そんな状況なので、親からの虐待による子供の心への影響というマターは、客観を重視した態度では、認識も理解も対処もできるものではないわけです。もっと、主観的で突っ込んだ考察が必要になってくるわけ。 たとえばこのような事例を考えて見ましょう。 「あ〜あ、イライラする!」と言って、親が自分の子供を蹴飛ばした場合。 このような場合は問答無用で、法律のご厄介になりますよね? 子供の体を傷つけたのだから、誰が見ても明らかです。 では、このような場合には? 「あ〜あ、イライラする!」と言って、自分の子供の前で、ぬいぐるみを蹴飛ばした場合。 このような場合に法律は適用できるでしょうか? 「ぬいぐるみ虐待罪?」まさかね? 法律的には問題はありませんよね? 対象を「ぬいぐるみ」のケースだけでなく、食器なり、おもちゃなり、あるいは、子供の前で服を破ったり、あるいは子供の好きな本を破り捨てたり・・・と、イライラを爆発させるのに使う道具は色々とありますよ。 法律的には問題がなくても、「イライラする!」という言葉と、子供の目の前というシチュエーションと、ぬいぐるみを蹴飛ばしてイライラを爆発させている姿・・・という3つが重なると、子供の心に対して明確に効果を持つことになりますよね? 子供の体は傷つかないでしょうけど、精神はズタズタでしょう? そのような、いわばモンタージュ表現になってしまうと、法律では扱えないでしょ?子供に対して大きな影響があることは常識的には誰でも理解できても、法律においては範疇外になってしまうわけ。 また、そのぬいぐるみが蹴り上げられている瞬間だけではありません。 ぬいぐるみが無残な扱いを受けているのを、目の前に見た子供は、「親のイライラが自分に向いたら大変!」と絶対に考えますよね? そうなると、家庭の中でビクビクとすることになる。 家庭の中で精神の休まる時間なんてなくなってしまうわけです。 そんな子供時代を送ったら、その子供の将来がどうなってしまうのかなんて火を見るより明らかでしょ? 確かにダメダメ家庭では、自分たちの思い通りに行かないことが多い。 親として、イライラも溜まることも多い。 おまけに子供に対しては、親として色々と世話をしなくてはならず、それがストレスとなってしまっている。 だから、そのイライラを子供の前で爆発させてしまう。 そのような光景を見て育った子供が、常日頃のストレスから問題行動を起こして、親に対して更なるイライラの種を与える。そして親はますますイライラを爆発させる。 ダメダメ家庭のダメダメ振りはこうやってスパイラルのように進行していくわけです。 虐待問題について考え、そして対処するためには、客観性だけにこだわり、政治の問題にしてしまうと、議論のための議論になるばかり。 子供の前でイライラを爆発させるような事例ばかりではなく、たとえば、1年の間に子供の名前を一回も呼んでいないようなダメダメ家庭もポピュラーでしょ?しかし、子供の名前を呼ばないことは、法律違反ではない。客観的な観点では、「問題がない」ことになってしまう。 しかし、そんな家庭で育ったら子供がどうなってしまうのか? それについては、客観とまではいかなくても、衆目が一致する見解があるものでしょ? 逆に言うと、家庭の問題を政治や法律によって解決しようと議論している人は、このようなダメダメ家庭の問題を本気で解決する気がないわけ。 ただ、「かわいそうな子供に同情するワタシ」と「いい子ちゃん」をアピールしているだけ。 だからこそ、このようなダメダメ家庭のトラブルが改善されてしまうと、「いい子ちゃんアピール」をする場がなくなってしまうので、困ってしまう。 だからこそ、解決につながらないような議論のための議論を続けて、「かわいそうな子供について、同情心を持って議論するワタシ」という立ち居地を維持しようとする。 別のところで取り上げております、マルグリット・デュラスの作品である「ラ・マン」には、こんな記述があります。 『個人の問題を、政治による解決を信じるということに存する同じ迷信』 スグに政治を持ち出してくることは、まさに判断の虚弱さであり、現状認識の虚弱さであり、「絶対に解決していくんだ!」という覚悟の虚弱さなんですね。 自分で見たくないし、自分で考えたくないがゆえに、外部的な体系である法律などを持ち出しているわけ。 現実的には、このように「ぬいぐるみ?」が被害にあっているうちに対応することが必要なんですが、前述のように、法律という方法論ではそれが無理となる。 法律では対応できないということで、人の知恵を頼ることになる。 それこそ、「善意」の人間による相談という機会もあったりします。 そんな場において、その「善意」の大人に、子供が相談したらどうなるでしょうか? 前にも書きましたが、家庭内で困っている子供が、相談の場において、相手側から言われてしまう言葉はこのようなもの。 「子供を愛さない親はいないものだから、家庭でじっくり相談したら?」 と、結局は門前払いを食わされちゃうんですね。 そして子供が死んでしまってから、以前より整備してあった法律が、やっとのことで役に立つわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 まあ、大阪の事件は悲惨ですが、子供にも精神はありますからね。 肉体的に傷つかないと対応しないのでは、意味ないのですが・・・ |
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R.10/11/18 |