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カテゴリー | 認識からの逃避 | |
配信日 | 05年4月18日 (10年11月21日 記述を追加) | |
タイトル | 反対意見が言えない環境 | |
なんでも、日本映画の「デヴィルマン」という作品が、文芸春秋の選ぶ「きいちご賞」を受賞したとのこと。 その「きいちご賞」は、その年の一番ヒドイ・・・つまりトホホな映画を決める賞なんだそうです。 私は日本映画はほとんどみませんし、批評家の鑑識眼など全くあてにしない人間です。 その評論家たちが選定した賞など、「いい方」にも、「悪い方」にも、信じるに当たらない。 しかし、その「デヴィルマン」は、レンタルヴィデオショップで予告編を無料でレンタルできました。「無料」という言葉に無上の感興を感じた私は、その無料予告編を借りて家で見てみました。 イヤ〜すごい! 予告編なので、細かなストーリー展開はわかりませんが、俳優の演技力は、サスガに、印象に残りました。 「高校生離れした演技」と言うべきか・・・ 俳優さんが、実際の高校生なのかは別として、演技力は高校生離れしているでしょう。 どっちの方向に「離れて」いるのかは別として・・・ どんな芸術家にも、結構トホホな作品があったりするものです。 往々にして、その芸術家の過渡期の作品と言えるもの。 作っているうちに、「これも入れよう!あれも入れよう!こんなこともやってみたい!」と、ゴチャゴチャしてしまった挙句、作っている本人自身が何がなんだかわからなくなってしまう。 そうしてトホホな作品が出来てしまうわけ。 しかし、そのようなトホホな作品は、芸術家なりの真剣な試行錯誤の結果であるわけです。 しかし、あの「デヴィルマン」は、そんな真剣な試行錯誤とは無縁ですよね? あの演技力を真剣な試行錯誤の結果とは言えないでしょう。 まあ、多くの観客から総スカンなのも、当然かな?とも思います。 しかし、一般の観客が「ダメだ、こりゃ!」と呆れてしまうような作品だって、映画会社のスタッフが集まって作った作品でしょ?映画のプロである制作スタッフは何をやっていたの? 「オイオイ!こりゃマズイよ!最初からやり直そうよ!」と言わなかったの? つまり、あの「デヴィルマン」という作品の問題は、俳優の演技が高校生離れしていることではなくて、それなりの見識を持っているはずのプロといえる制作スタッフが、何も意見を言えないということなんですね。 「これって、ちょっとおかしいんじゃないの?」って、当たり前の感覚の意見が言えない。だからこそダメダメな結果になるわけ。 あんな素人同然である子供の俳優に原因を押し付けてもしょうないでしょ?プロである周囲の大人がしっかりすることが第一じゃないの? 大人の世界は、色々としがらみがあったりします。言いたいことも言えないことが多くありますよね? しかし、誰かが言わなくてはならないこともあるわけ。 昨年(04年)の長崎県の小学6年生の事件ですが、マトモな感性を持っていれば、「被害者の少女の父親」にも、かなりの問題があることくらいスグにわかるわけでしょ? しかし、アンタッチャブル状態。 結局は、原因を社会全体の問題に広げてしまっているわけ。 そうして、時代が悪いとか、インターネットが悪いとかの話にしてしまう。 しかし、ある人が風邪を引いているからといって、その対策として、日本人全員が風邪薬を飲むことがマトモなの? 一つ一つの具体的な問題に、真剣に対処していくことが必要でしょ? そして、一つの具体的な事例から、普遍的な真実も見えてくるものでしょ? しかし、現実社会においては、マトモな感性を持っていると周囲に配慮して何も言えず、被害者意識の強いダメダメな人が、自分自身の被害を声高に語ることになる。 さながら北朝鮮が、ガミガミ言っているような感じなんですね。 しかし、声高に自分の被害を語っている人間こそが、往々にしてダメダメな結果の本当の原因なんですね。 そんな状況を許していると、マトモな感性が社会からなくなってしまう。 そうなると、もう日本の社会も、北朝鮮のようなものになってしまっているわけです。 現在、日本で未成年の事件が多発しているのも、日本社会の北朝鮮化という事態があるわけです。被害を声高に語る人間に対して配慮しても、厳しい状況にあって、その苦境を語ることもできない人間には何もサポートしない状況でしょ? それこそ、子育てによる苦労を声高に語る親に対しては、援助などはするわけですが、子育てによる被害を常日頃から主張する親の元で育つはめになっている子供のことは無視してしまう。 本来は、そんな子供に対してのサポートが必要でしょ? それに、子供としては、「そんなに子育てを苦労だと思っているのなら、子供なんて作るなよ!」と、自分の親を見て思っているものなんですね。 しかし、子供の側の、そのような当然の感情は無視されてしまって、被害を語るだけの人間に対してサポートすることになる。 だから、事態がますます悪くなってしまう。 トホホな映画って、そんな感じで結構考えさせてくれる効果もあるわけ。結果としての作品がトホホというより、現場の雰囲気がメチャクチャということなんでしょうね。 ちなみに、今現在(05年)大騒ぎになってします、中国の反日問題ですが・・・ 中国人だって、全員があの程度というわけでは、勿論、ないでしょう。 しかし、マトモな中国人が、そのマトモな意見を言えない・・・そんな環境だと、そのダメダメがスパイラルのように進行することになってしまうわけ。 それこそマトモな感性が残っている中国人は、そんな環境からさっさと出て行ってしまいますからね。 残っている、カスのような中国人が、まさに被害者意識で盛り上がって、ワイワイやることになる。 そのような状況は、別に中国だけの問題ではなく、日本でも見られる光景でしょ?それこそ映画「デヴィルマン」の制作だって、その映画の制作の前に優秀なスタッフがその会社からいなくなっていたのでしょうね。だからあんなダメダメな映画ができてしまう。 ヘタにマトモな意見を言ったりすると、逆上している周囲から、次なるターゲットにされてしまう・・・60年代に中国で起こった文化大革命だって、そんな感じで進行したのでしょうね。 こうなると、もう「行くところまで行く」しかないわけです。 被害者意識が強いダメダメ人間は、ちょっとでも自分と違った見解に接すると、「自分こそが被害者である。」というアイデンティティを否定されたように感じ逆上するわけ。「オレこそが一番かわいそうなんだから、恵まれているオマエが言う資格はないっ!」という思いを持って、別の見解を押さえつけようとするもの。結局は反対意見が根絶されてしまうことになる。 そんな光景は、ダメダメ家庭の中とか、あるいは、その周辺にあるクレーマーとか市民運動などに顕著でしょ? 自分で考えたくないダメダメ人間は、自分とは別の見解を「見たくない」んですね。 異論を認めた上で判断するのではなく、発生段階で抑えようとするわけ。 考えないで済む状況を維持しようとする。 だって、自分で考えてしまったら、その結果責任が発生するでしょ? そうなったら、被害者としての立場がとれなくなってしまうじゃないの? 被害者という立ち位置を守るためには、自分で認識し、判断するわけにはいかないわけ。 いったん、自分の考えとは違った見解が出てくると、その見解とどのように対処するのかについて自分で考えなくてはならない。しかし、抑圧的な人間は、自分で考えることに心理的な恐怖感を持っている。 それこそ、ダメダメ人間というものは、「こんにゃくゼリー」を買わないという判断すらできないんだから、それなりに説得力がある異論との接し方なんてわかるわけがありませんよ。 だからこそ、そんな異論が出てこないようにしたいわけ。 だから、異論に対しては、過激に対応することになる。まさに根絶を目指すわけ。 そんな環境になってしまうと、客観的な事実を、論理的に組み立てた見解を提示しても、逆切れをくらうだけ。ヘンな話になりますが、その異論が的確であるがゆえに、逆上を受けやすいわけ。 説明が的確であれば、それだけ、思考停止状態に辿りつくための儀式も大掛かりなものになってしまう。だから、客観的な説明による反論が、その周囲から消失してしまうわけ。 そんな事態が常態化している環境なんだから、反論にあたっても、否定的な感情を断片的に提示するだけで、自分なりの見解を客観的に説明することはしないし、できない。 そして、否定的な感情を表明することと、客観的な説明による反論の区別もできなくなってしまう。だって、いまだかつて、客観的な説明による反論なんてしたことも、見たこともないわけですからね。 反対意見そのものは、結構なことじゃないの? ただ、その方法論が重要でしょ? たとえば、この私の文章に対して、違和感なり否定的な見解をお持ちになる方もいらっしゃるでしょう。それはそれで結構なこと。人の考えはすべてが同じではありませんし、その必要もないでしょう。 しかし、だからこそ、客観的な説明による反論が必要でしょ? 何も、ここで、この私がやっている以上の、論理的な構築力までは求めませんが、単なる否定的な感情をぶつけられても、どうしようもないじゃないの? 自分の考えに自信なり責任感があるなら、なおのこと、しっかりした文章にまとめないとね。しかし、断片的な感情を投げつけるだけの抗議が多いので、「どうしてこうなっているのかな?」とも思ったりしたのですが、その手の人は、否定的な感情を投げつけることと、客観的な説明によって異論を提示することの違いが心理的にわからないでしょうね。 まあ、わからないんだから、しょうがないわけですが、そんな人が子供を持ったりしたらどうなるの?子供が自分と違った見解を出してきたら、どのように対処するの? しかし、そんな家庭の子供は、反論を言わせない自分の親に順応してしまい、自分を抑圧し、「人に合わせるだけ」になってしまう。そんな家庭を、周囲の人は何と言うの? そう! 「問題のない、ふつうの家庭」と言ったりするものですよね? (終了) *************************************************** 発信後記 かなり以前に配信した内容で、ダメダメ家庭では「若い頃の苦労は買ってでもしろ!」というありがたい言葉を利用して、子供に苦労させることに抵抗がない・・・というお題がありました。 しかし、苦労を重ねると「心が頑な」になってしまうんですね。 なんでも韓国のノ・ムヒョン大統領は、若い頃に大変な苦労をなさったそうです。彼がダメな人間になってしまったのは、その若い頃の苦労のせいもあるでしょう。 日本の総理をなさった田中角栄氏も小学校までしか卒業しなかったのに、総理になりました。それはそれで結構なことなんですが、「幸福だったか?」というと全く別でしょ? 田中角栄氏は、とある名門ゴルフ場の会員になりたくて、色々と圧力をかけても、そのゴルフ場は田中角栄氏を会員にしなかったそう。 ゴルフ場会員のことは私にはわかりませんが、田中角栄氏もそのゴルフ場でゴルフをしたいだけだったら、何も自分自身が会員になる必要はないでしょ?会員の知り合いに予約を取ってもらえばいいだけですからね。 無理して圧力までかけるからイヤがられてしまうわけでしょ?学歴云々の問題ではないわけです。 ノ・ムヒョン氏もわざわざドイツに出かけて、日本のクレームを言っているそう。 クレームのためなら、自分自身を犠牲にすることを厭わないのが、まさに典型的なクレーマーのメンタリティ。そんな人は自分自身の問題から逃げているだけなんですね。 そんな心が頑なな人が、子供を育てることになったら? そんな人は、「人の話を聞けない」わけですので、子供としては典型的に不幸な境遇にならざるを得ないわけ。ノ・ムヒョン氏にお子さんがいらっしゃるかは知りませんが、もしいらっしゃるとしたら、将来は立派なクレーマーになるんでしょうね。 |
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R.10/11/21 |