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カテゴリー 敵と味方
配信日 05年7月25日 (10年9月30日,11年2月16日 記述を追加)
タイトル 友達付き合いに疲れる
ダメダメ家庭は会話が不全の家庭といえます。そんなダメダメ家庭で育った人間は、やっぱり会話の能力が欠如することになる。そのことについては、当人が好き好んでそうなったわけではないので、そのような会話の能力の欠如について、当人を責めてもどうしようもない。

会話のできないダメダメ家庭出身の大人は、基本的には、周囲から「放って」おかれるだけです。しかし、ダメダメ家庭に現在在籍中と言える子供の場合だと、周囲から注意なり指導がある場合もありますよね?
「自分の考えを相手にも分かるように言いなさい!」
「相手の話を最後まで聞きなさい!」
そんなお説教もあったりするでしょ?

しかし、ヘタに周囲がダメダメ家庭の子供を指導するから、子供としては、家庭内で親から色々とグチ言われ、家庭外でも色々と言われ・・・と言ったダブルバイン的な出口のない状態に陥ることになる。これでは、ますますストレスも溜まってしまいますよ。まあ、事件も起きるわけですよ。

会話の能力が欠如しているので、子供同士の会話だって、簡単には行かない。
会話のスキルの面での欠如だけでなく、ダメダメ家庭の子供は、「各方面に配慮しながら」「表現について色々と考えながら」他の子供と話をする必要がある。
子供同士の間でトラブルになった場合にも、ダメダメ家庭の親は自分の子供をサポートしない。いざトラブルが発生してしまったら、親はまったく頼りにならないだけでなく、ヘタをすれば、「いったい、いつになったら、親に面倒をかけないで済むようになるんだ?!」と怒りだし、子供にとってのプレッシャーの要因になってしまう。
だから、ダメダメ家庭の子供としては、トラブルにならないように最大限に気を使う必要がある。

これでは子供だって疲れてしまいますよね?
子供の友達同士のおしゃべりなんて、お気軽なものと思われている方もいらっしゃるでしょが、ダメダメ家庭の子供にとっては、緊張感の漂うものになってしまっている。
「親に面倒を掛けないように、何とかうまく切り抜けないと!」
そのように極度の緊張を持ちながら、他の子供と話をしている。

別のところで書いていますが、ダメダメ家庭の子供は甘える体験ができない。
やり取りの相手に対して、どの程度まで甘えていいのか?あるいは、相手をどの程度まで甘えさせる必要があるのか?そんなことがフィーリング的に分からない。
いわば「なあ、なあ」の加減が分からない。
会話にせよ、おしゃべりにせよ、そんな「なあ、なあ」の加減が分からなければ、やり取りのしようがありませんよ。
それに、自分が言ったことを、相手が理解してくれている・・・そのように認識し、判断することも、広い意味での甘えと言えるでしょ?

相手方の感情や認識なんて、本質的には分からないわけだから、相手が自分の言葉に合意しているという判断は、甘えなしには成立しないものなんですね。
そんな自然な甘えがないから、やり取りにおける合意なり同意なり共感という発想そのものが分からない。だから、やり取りが、支配・被支配の構図に近くなってしまう。
有無を言わせないという二重否定的な状況に持って行ってしまう。
合意とか共感という肯定方向の結果ではなく、「反論を受けなかった。」という二重否定状態しか認識できない。逆に言うと、「反論を言わせない」やり取りをすることになる。
だから、ちょっとしたやり取りにおいても、緊張感が漂うものになってしまう。

そんな緊張感の漂う子供とおしゃべりしても、他の子供も楽しくありませんよね?
それに話の内容も、各方面に配慮した毒にも薬にもならないようなもの。
これでは聞いていてつまらないだけですよ。
おまけにダメダメ家庭の人間は「人に合わせすぎる傾向」があります。人の話を真剣に聞きもせず、「私もそう思ったわ!」などと「て・き・と・う」に相槌を打ったりすることも多い。相手の言葉を聴覚的に「聴く」だけで、内容的には「聞いて」いない。だから、相互理解につながるような本当の意味での会話には発展しない。

ダメダメ家庭の人間は減点法であり、何かを達成したとか、やり取りにおいてこの点について合意したという加点法的には物事を見ない。むしろ、「トラブルを起こしたくない。」「誤解されたくない。」そして、「相手から嫌われたくない。」という減点面に視点が向かっている。「嫌われたくない」と思っているからこそ、相手に過剰に配慮して、「あーでもない、こーでもない」という物言いになってしまって、結局は、その相手から嫌われてしまう。

人というものは、「嫌われてもやり通す」強い信念を持っている人を、嫌ったりはしないもの。その信念が自分のものと相容れないものだったら、嫌うのではなく距離を置くだけ。
「嫌われなくない」という思いから「あーでもない、こーでもない」というあいまいな物言いばかりなので、やり取りをしていても距離感がつかめず、誤解が誤解を呼び、結果的に嫌うことになってしまうんでしょ?

「嫌われたくない」と思っていて、人に合わせすぎる人とのやり取りは、とりあえず、「やり取りの形」は成立しているかもしれませんが、自分の意見を言って、相手の意見を聞く・・・という内容のある会話にはなっていない。
この点については、自分の家庭がそんな状態なので、当人にはどうしようもない。
これがダメダメ家庭の中だったら、それがいつものこと。

しかし、ダメダメ家庭の外では許されないことでしょ?
そんなことをしていると「自分で考えもせずに、適当に相槌を打っているんじゃないわよ!」と、周囲の人からますます怒られてしまうことになる。
と言うことで、ますます友達付き合いにも疲れてしまい、おしゃべりもますます緊張感の漂うものに・・・と、よく書くスパイラル進行してしまう。

こうなってしまって、「ああ、自分はダメダメ家庭の人間なんだから、しょうがないかぁ・・・」と自覚できたのなら、まだ問題も少ないといえます。その自覚を踏まえて、後は少しずつ改善していくだけですからね。
しかし、自分の家庭のダメダメさを自覚しないままだと、問題が大きくなってしまう。

それこそ、自分と同じように友達付き合いに疲れる類の人間と出会ったらどうなってしまうでしょうか?
「私と同じこと言う人に初めて出会ったわ!」「こんなに気持ちが通じ合えるのは初めて!」と、まさに「入れ込み」「入れ込まれ」状態になり、お決まりの修羅場になってしまう。

前にも書きましたが、前提となる環境が違っていると、考え方も全然違っている
「子供同士の楽しい語らいを通じて、子供を育成させよう!」などと、立派なご高説は結構ですが、楽しい語らいのシーンを周囲・・・特に自分の親に見せるために、極度の緊張状態にある子供も現実にいるわけです。

まず持って、子供の本音を聞き出すことが第一なんですね。
しかし、「人に合わせすぎる傾向」のあるダメダメ家庭の人間から、本音を聞きだすことは至難のわざであることは論理的に当然のこと。周囲の大人としては、「ドアを開けておく」ことくらいしかできないわけです。あまり子供の心に積極的に介入してしまうと、それこそ「て・き・と・う」に相槌を打たれて、「その方面にも気を使うようになって」、形の上では改善することになる。しかし、本当の解決は何もなされていないままで、問題が潜在化しただけ。そして周囲が勝手に納得しているだけになってしまう。
そんな状態って、実によくあるでしょ?
まずは当人に自覚させることが第一なんですね。周囲の人間が、回答を強制的に与えてしまうと、本当の解決からは、むしろ遠くなってしまうものなんですね。

ただ、頻繁に書いておりますが、ダメダメ家庭というものは、自分たちのダメダメさが目立たないダメダメな環境を求めるもの。
そもそも、周辺環境からして問題があったりする。

そんな環境なので、ダメダメ家庭の子供としては、自分のダメダメな親の問題が自覚できないばかりではなく、周辺にも参考となるようなマトモな人もいない。
そんな環境なので、子供はやり取りの見本と接することができない。
自分の親がダメダメであり、親に友達がいなくても、周辺に見本となる友人関係があれば、それを参考にすればいいわけですが、現実的には、周辺環境としても、支配・被支配の構図であり、同格の間柄での友人関係が、やっぱり存在しなかったりする。

支配・被支配の構図を基本としている環境なんだから、ちょっとしたやり取りにおいても、そのような観点で見てしまう。「アイツに支配されないようにしよう!」と身構えてしまう。そんなスタンスは、それこそインターネットの掲示板に入れ込んでいる連中などに典型的に見られたりするものでしょ?
しかし、そんな身構えたスタンスなんだから、友達付き合いに疲れるのは当然のこと。

支配・被支配の構図の観点からだけでなく、周囲に対する過剰な配慮や、もともとのコミュニケーション・スキルの不全など、ダメダメ家庭の人間にとっては、友達付き合いというのは敷居が高いものなんですね。

(終了)
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発信後記

土曜日の地震には驚きました。
しかし、お亡くなりになられた方もいらっしゃらないようなので、とりあえずはヨカッタということですね。
大都市はそれほど「がけ」がないので、よっぽどの大地震でないとお亡くなりになる方は出ないんでしょうね。
よっぽどの大地震になったら、大都会なんて、悲惨でしょうが。

「地震というものは起こるものだ」という前提を持っていれば、「それなり」に対応できる・・・地震に限らず、そんなもの。すべてうまく行くのが当然という前提だと、問題への対応ができないものです。
R.11/2/16