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カテゴリー | 判断と選択 | |
配信日 | 08年11月14日 | |
タイトル | 誰でもいい・スパイラル | |
ダメダメ家庭の人間は自己逃避である。 このことは、このメールマガジンで頻繁に書いています。 そもそも、当事者意識がないんだから、自分自身なり自分自身が直面している問題を見たりはしないわけ。何事においても、「やらされている」という、常に受身の状態。 受身の姿勢だからこそ、あらゆることを、自分がこうむった被害と捉え、不都合な事態になると、何かを加害者認定して、その加害者を恨むだけ。 逆に言えば、他人を恨むだけでいいわけだから、精神的にはラクなものなんですね。 自分自身なり自分が直面している問題から逃避しているので、そもそも「選択」というシチュエーションが嫌い。自分が判断するというシチュエーションを不快に感じてしまう。 まさに、選択という場に対しても「選択をやらされている」という受け身のスタンスになってしまうわけです。 だから選択が不要になるように、「根絶」なんてことを言い出すことになる。 このことは、先日配信いたしました。 それこそ「ドメスティック・ヴァイオレンスを根絶しよう!」 なんて格好のいい物言いになってしまう。 ドメスティック・ヴァイオレンス(=家庭内暴力)が根絶されれば結構なことですが、まずは、マトモなオトコを選べばいいじゃないの?世の中の男性の全員が、女性に暴力を振るっているの? そんなわけないでしょ? 女性に暴力を振るう男性の方が少数派でしょ? だから、そんなマトモな男性を選択すればいいだけですよ。 そんなことも出来ないような女性は、たとえドメスティック・ヴァイオレンスではコケなくても、別の箇所でコケますよ。まずは、人を見る目をつけて、ちゃんと選択するようにできるのが先ですし、それが苦手なら、誰かのサポートを得るようにすればいいだけでしょ? しかし、自己逃避のダメダメ人間は、選択すること自体に抵抗がある。 だから何も考えずに「てきとう」に結婚しても、暴力を振るわれないようにしたいわけ。だからこそ、根絶でないと困ってしまう。 選択の問題だったら、マトモなオトコを自分で選ぶという当人の問題ですが、根絶だったら「暴力を振るうオトコをどう処置するのか?」という「他者」の問題になるでしょ? 現実的には、自分の行動はともかく、他人の行動まで、とやかく言えませんよ。 しかし、逆に言うと、「根絶」を持ち出してくることによって、自分自身の問題を、他人の行動の問題にしてしまうわけです。 適切な選択をすればいいだけなのに、選択から逃避するがゆえに、すべて他者の問題になってしまう。 このように、選択から逃避する人間がよく言うのが、「誰でもいい」とか「どこでもいい」という言葉です。 それこそ結婚相手についても、「女なら誰でもいいよ!」なんて聞いたことがある人もいるのでは?そんな人は、結局は、自分で選択したくないわけ。 考えること自体から逃避しているんですね。 あるいは、このヴァリエーションとして、「こんなワタシでいいの?じゃあ、結婚してアゲル!」なる決定?方法となる。 そのような「言い回し」はマトモな人間でもする時がありますが、「じゃあ、自分としてはこの人と一緒になってもいいのか?」という本人の判断がその前段階において必要でしょ? 相手の判断にすべて任せてしまってはダメでしょ? 自分で「この人と一緒にやっていきたい。」と、自分の心の中でOKを出した上で、「このワタシでいいの?」と言うのならアリでしょう。 しかし、ダメダメ人間は、文字通りに「こんなワタシでいいの?じゃあ、結婚してアゲル!」なんですね。だからこそ、その結婚生活がうまく行かないと、「あの人は、ワタシでいいと言ったのに・・・だから結婚してあげたのに・・・うまく行かないのは全部あの人のせいだ!」と論理展開することになる。 まあ、「女なら誰でいい。」「男なら誰でいい。」となるとストライクゾーンが広すぎる。 ということで、抑圧系の女性がよく言ったりするのが、「定期的な収入がある男性なら誰でもいい。」とか「公務員とかサラリーマンだったら誰でもいい。」という言葉です。 まあ、「オトコなら誰でもいい。」よりも、多少は「基準」はあるとは言え、その基本は「誰でもいい」でしょ? そんな「誰でもいい」同士の夫婦も、そのうち子供を持ったりする。 そもそも子供を持つ段になっても、「どんな時期に欲しいのか?」そんな判断から逃避するのがダメダメ人間というもの。まさに「いつだっていいや!」と「て・き・と・う」に妊娠して出産となる。 子供が生まれるとなると、住む場所なり学校の問題も発生してくる。あるいは、名前の問題もありますよね? しかし、判断から逃避するダメダメ人間は、「子供の名前?うーん・・・面白そうな名前だったら、なんでもいいや!」となったり、「住む場所?どこだっていいや!」とお気軽なもの。そして子供が通う学校も「近くにあって、オレたちに面倒がかからなければどこだっていいや!」となるわけ。 このような発想の流れは、「流れ」としては、実に当たり前の流れでしょ? そんな判断から逃避する家庭で育った子供が就職する段になったら、どんなことを言うのか? 「えーとぉ・・・ボクは特にやりたいことなんてないから、就職する会社なんてどこでもいいや!」そうなるのは当然のことですよね?会社に就職する以外だと、父親がやっている商売を自分も継ぐ・・・なんてことを言ったりするもの。 まあ、かなり以前にあった長崎県で中学生が小学生を突き落とした事件がありましたが、その加害者の中学生が、「父親のラーメン屋さんを継ぐ。」とか言っていました。 それって、要は自分で考えたくないわけ。希望を捨てているわけです。 「是非ともラーメン屋さんをやりたい。」のではなく、「どーでもいいや!」「流れには逆らってもムダ。」「なるようにしかならないよ!」「自分で考えることが鬱陶しいから、何も考えずに流れに乗っかるものでいい。」という投げやりな心境なんですね。 ラーメン屋さんを肯定しているのではなく、「それ以外について考えるのはめんどくさい。」という二重否定となっているわけです。 そんな中学生だから事件を起こすわけですよ。 「どこでもいい」学校に進学したり、「どこでもいい」会社に就職しても、現実的にはうまくいくわけもない。だってそもそも、事前に何も考えていないんだから、うまくいくわけがないじゃないの?そんな日々が続くと、結局は自暴自棄になる。 自暴自棄になった人がやることといえば、 「誰でいいから殺したかった!」と言いながら凶行に走る通り魔。 まさに「自由からの逃走」の中でエーリッヒ・フロムが書くように「破壊性は、生きられない生命の爆発である。」そのものとなってしまう。 そんな事件があったりすると、その犯人の親が出てきたりするものですが、実はその犯人の姿も、親の鏡だったりするわけ。 犯人自身も、その親も、選択から逃避しているもの同士なんですね。 結局は、当人が一番よく知っている人物について考えることから逃避しているわけ。 「オンナなら誰でもいい。」という男性は、その人が一番よく知っている女性・・・つまり母親が嫌いなんですね。「就職する会社はどこでもいい」なんて言っている人は、その人が一番よく知っている「働いている人」、つまり父親が嫌い。 せめてそのことをよく考えればいいわけですが、そんな思考から逃避して、「ここじゃなければどこでもいい!」「誰でもいいからボクを助けて!」と絶叫することになる。 「誰でいいから殺したかった!」と言いながら凶行に走る通り魔は、自分が一番殺したい人間について考えることから逃避しているわけ。往々にしてそれは自分の父親なり母親であるもの。本来は、自分が一番憎い自分の親を殺せばいい話ですが、そんな思考を抑圧しているので、「誰でもいい」となってしまう。 これについても以前に配信しております。 そんな姿は悲劇的なものですが、その人の親を見ていると、似たようなことをやっているもの。「誰でもいい」とか「どこでもいい」とか「いつでもいい」とか、どんな場面でも思考停止なんですね。ちゃんと自分自身をみつめて、そして自分の親を観察し、自分で思考すれば、そんな事態にならなくて済むわけ。 現実的には、「誰でもいい」というのは、実に領域が狭いもの。 だって、そんなことを言うような人は、マトモな人は相手にしませんよ。 それこそ、「就職する会社はどこでもいい。」なんてことを言うような人は、結局は、親の稼業を引き継いだり、あるいは、専業主婦以外はできない状態。 だから、思考停止の「誰でもいい」と言うもの同士が結びつき、グチで共鳴して、ますますドツボにはまってしまう。 そんな光景を実際に見た方も多いでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 今回取り上げた「誰でいいから殺したかった!」という言葉は、先日起こった千葉県での事件で登場いたしました。なんでも自動車でひき殺したとかの事件がありましたよね?あるいは、以前に起こった東京の品川での通り魔事件において、この言葉が登場したので、それに関連して、このメールマガジンで取り上げております。 今回の千葉県の事件の報道に接して、「そういえば、あのメールマガジンでその言葉を取り上げていたなぁ・・・」と思い出した人もいたかも? まあ、典型的な事件といえます。その事件に対して、いつもの「識者」がどんなコメントを出したのかは知りませんが、「誰でもいい」という言葉は、一番重要な対象について考えることからの逃避であることがわかっていないとトンチンカンなものになってしまう。 まあ、「識者」程度の思考力では難しいかもね? 何も殺す対象の問題ばかりではなく、結婚の対象においても、その精神は共通しているわけ。逆に言うと、「誰でもいい」とか「いつでもいい」とか「どこでもいい」という言葉を使う人は、ちょっと状況がシビアーになると、「誰でいいから殺したかった!」となってしまうことになる。 ダメダメ家庭の事件は、ちょっと注意すれば、防ぐことが可能ですが、そこがまさにダメダメ家庭のダメダメな由縁で、状況がどんなにシビアーになっても、ダメダメな親は我関せず。だからドッカーンとなってしまう。そして、「誰でもいい」と叫びつつ凶行に走る通り魔を生み出してしまう。「誰でもいい」と言いながら、実際は一番憎く思っている人間を除外してしまっているので、結局は、無関係の人間だけが被害に合うわけ。「誰でもいい」と言っても、自分の問題とは無関係という条件がついているわけ。 だからこそ、はた迷惑。 この手の思考停止人間の事件は、事件そのものは、その気になれば予見できるわけですが、被害者になるのは、まったくの偶然。 不条理な話ですが、それが現実なんですね。 |
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R.10/12/15 |