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カテゴリー ダメダメ土曜講座(人物編)
配信日 09年12月5日 (10年9月14日 記述を追加)
タイトル ダメダメ家庭としての自民党
先日発表された今年(09年)の流行語に「政権交代」という言葉が選出されたようです。
その選出には、なんとなく胡散臭さを感じますが、まあ、確かに、それなりに流行りましたからね。
さて、じゃあ、交代されてしまった自民党は今どうしているの?
なんだか党首の方が率先して自転車操業をしているみたいですね。

このメールマガジンでは、政治家を取り上げることが多くあります。何も特定の政治信条を問題にしているのではなく、「政治家」の言動から、その背景となった心理なり家庭の問題が見えてきたりするわけ。

ということで、このメールマガジンでは、どっちかというと民主党の関係者に言及することが多くあります。能力を持ちながら、心理的な抑圧のせいでトンチンカンな行動をしてしまう・・・そんなダメダメの問題を考えるにあたっては、もともとは能力がある方々を取り上げ考えた方がわかりやすい。

自民党は、もともとの能力が欠如した方も多いようで、こうなってくると心理的な問題とはいえない。そんな能力が欠如した人がトップになってしまう・・・それは、個々の人間のダメダメというよりも、集団としてのダメダメの問題といえるでしょう。
ということで、今回は、集団としての自民党をダメダメ家庭の観点から見てみたいと思っております。

前回の選挙での敗北ですが、現実重視という大義名分の中で、言語というかロジックを喪失してしまって、その中でディシプリンもなくなり、閉鎖的な雰囲気になり堕落してしまった・・・自民党も、あるいは宗教改革の当時のカトリックもそんなものですよね?それに対し、民主党やプロテスタントは「いい子ちゃん」志向で、会話よりもドキュメント重視の集団。

政治と言語は、本来は密接に関係しているもの。
国民に対して、現状を説明するにせよ、自分をアピールするにせよ、言葉は重要でしょ?
しかし、日本の政治家は、言語能力が低い。
言語能力が低いというか、言語における「意味」と「論理」の問題において、「論理」が抜け落ちている。

以前に「不思議の国のアリス」を取り上げた際に、言葉における「意味」と「論理」の問題について言及いたしました。

「アナタの目の前にあるエンピツを渡して。」・・・という依頼の言葉でも、「自分はもうボールペンを手に持っているから・・・だから、エンピツがほしい。」そんなパターンだったら、論理を重視していると言えるでしょうし、「とにもかくにも、何か書くものがほしい。」そんなパターンだったら、実体を重視していると言えるでしょう。

一般的には、その差は意識することはないわけですが、込み入ったやり取りだと、そんな行き違いが発生したりするでしょ?「不思議の国のアリス」という作品は、そんな行き違いを意識的に起こしているんですね。

言葉を聞いていても、それが実体というか意味を表現しようとしているのか?それとも、差異の体系といえる論理を向いているのか?それぞれのパターンがあったりするもの。
今回の文章では、政治家さんの言葉を・・・特定の言葉ということではなく、その使い方について、考えてみましょう。

「不思議の国のアリス」を考えた文章において、論理体系を志向したものの代表として、法律を取り上げました。法律を制定する際には、既存の法律と矛盾していないことが必要でしょ?
いわば論理的な整合性が要求されるわけ。
それこそ「野生のパンダを見たら、捕獲しなくてはならない。」という法律を日本で制定しても、特に問題はない。だって既存の法体系とは矛盾しませんものね。
役には立たないでしょうが、問題にもならないわけ。
法律のようなものだったら、客観的な観点が要求され、つまり論理的な整合性が必要になるわけです。

多くの人を相手にすればするほど、客観性が要求され、その客観性は、その言葉の論理的な整合性・・・別の言い方をすると、言葉の一貫性によって示される・・・そんなことはわかりきったこと。

しかし、何度も書きますが、言葉と言っても、実体としての意味を志向している場合と、まさに論理を表現している場合がある。
政治家の言葉と言っても、意味を志向しているケースもあれば、論理を志向しているケースもあるでしょう。

たとえば、選挙の時になると、選挙カーからの、こんな声はおなじみでしょ?
「○○をよろしくお願いいたします。がんばっております。働かせてください。」
上記の言葉は実体としての意味はあるでしょう。しかし、その言葉に論理はないでしょ?
だって、他の候補者との間の「違い」は何もわからない。
「何か書けるものを渡して・・・」という依頼の言葉からは「エンピツでいいのか?ボールペンがいいのか?それとも、マジックなのか?それとも毛筆なのか?」それはわからないでしょ?
「すぐにほしい!速く渡して!」なんて要求されても、途方に暮れるだけ。

たとえば選挙カーからの声でも、それこそ「政権交代」とか「郵政民営化」とか「日本を共産主義国家に!」でも、それだったら、言葉としては短くても、論理を語っているといえるでしょう。以前に小泉さんの手法でワンワード・ポリティクスとか言われました。非常に短い言葉で表現する手法です。しかし、重要なことは、言葉の長短ではなく、論理を語っているのか?実体としての意味を語っているのか?その点なんですね。
論理を求めている人に対して、実体としての意味を丁寧に表現しても、逆に無意味になってしまう。それこそ選挙カーの文句でも、「必死に、汗水たらして、血眼になって・・・」とか色々と言葉を並べても、論理は何も表現されないまま。

よく選挙になった時に、政策よりも人柄で選ぶ・・・そんな人もいたりします。
しかし、じゃあ、その人柄とやらをどうやって判断するの?
選挙カーからの「がんばっております!」という声を聞いて、「がんばっているだから、立派な人なんだろう・・・だから、あの○○さんに投票しよう!」・・・人柄重視って、要はそういうことでしょ?あるいは、「地縁とか血縁」で示される人柄でしょ?

しかし、それは基本的には政治における論理ではありませんよね?
もちろん、選ぶ人が、確信を持って、地縁にこだわっているのなら、それはそれでその人の信念。

しかし、そのようなことは、別の言い方をすると、有権者が、政策を判断する権利を放棄している状態といえるでしょ?
言語を使って、現状を認識し、言語を使って、自分なりに思考していく・・・そんな態度を放棄していることでしょ?

そんな人は、倫理は問題にしても、論理は問題にしない。
論理的な思考力がなくなってしまって、感情的な倫理だけが飛び交い、その点のみで、政治家を選択してしまう。

そして、うまくいかなくなると、「あれほど期待していたのに、裏切られたわ!」と被害者意識。
しかし、そんなことを言う人は、どんな根拠で期待していたのかについて、論理的に説明できないわけ。ただ、「なんとなく、いい人そうだったから・・・」とか「アッチの側の方が悪そうだったから。」とかの漠然とした言葉がでてくるだけ。

政治に関わる話をしても、政策の問題ではなく、「誰と誰がくっつく。」とか、「アイツは○○が嫌い。」とかのガールズトークに近い状態。
逆に言うと、日本の有権者はそんな情報しか受け付けず、政策について、認識し、思考する発想そのものがないわけ。

投票する際には、どっちかというと、人柄重視であって、政策なんてどうでもいい・・・
そんな日本の有権者のスタイルをよくわかっているのは、民主党の小沢さんでしょう。

新人議員に対して、「政策を勉強するよりも、地元に帰って、できるだけ握手をして来い!」と、お説教しているんだとか・・・
なんでも、握手は多大なる効果があるんだそう・・・

しかし、本来なら、握手なんて、政治における論理とはまったく無縁でしょ?
それこそ自民党だって、共産党だって、するわけですからね。
しかし、それで当選できるんだから、逆に言うと、有権者は、政策なり論理を求めていないということなんでしょう。握手して温かみを感じたから、その候補者に投票した・・・なんて真顔で言っている人もいますが、そんな人は、ネコと握手したら肉球がプニュプニュしているんだから、今度はネコに投票しちゃいますよ。逆に言えば、その程度の人が当選してしまう・・・それも現実。

有権者が、政治家に対して、論理的な一貫性を求めていないんだから、そんな選挙によって選ばれた政治家が、一貫した行動を取るわけがない。
その場、その場で、通りのいいことを言うだけになってしまいますよ。
それは、ある意味において選挙の結果そのものであり、それが日本国民の選択なんですね。

意味なり実体を重視しているので、「情緒が優先」されてしまう。
それこそ以前より例示しておりますが、近海で打ち上げられた瀕死のクジラは必死で救命しようとするのに、南氷洋までクジラを取りに出かける始末。
このようなことは論理の面ではメチャクチャですが、情緒という人間にとっての実体を考慮すると、理解はできるようになる。
理解はできても、「アホか?」と思ってしまうのは確か。

「不思議の国のアリス」においては、論理的には整合していても、そこに実体としての意味が存在しないケースが多くありました。ところが日本の政治家の場合は、実体としての情緒は存在しても、論理が存在しないわけ。
論理が存在しないんだから、過去の発言との整合性なども、議論されない。

本来なら、過去の発言との整合性は、その論理展開能力という知的能力の観点ばかりではなく、その政治家の実体としての信念を表したものでしょ?
首尾一貫していない発言をする人は、信念がない・・・って、そんなことは、対象が政治家でなくてもわかること。
にも関らず、日本の政治家の場合には、その点が要求されないわけ。

政治家に対して、「発言がブレる。」という非難の言葉がありますが、「発言がブレない人を選ぼう!」そんな観点を有権者はもともと持っていないんだから、そんな結果は当然ですよ。何も政治的な信念だけではなく、何事も信念というものはあるでしょ?

しかし、それが要求されない・・・それが日本の政治家というわけ。
信念を政治家に対して要求したら、それを見分ける洞察力や判断力も要求されることになる。有権者にとって、それはメンドウ。

結局は人の情緒に配慮した「いい人」が選ばれることになる。
都合の悪いものを「見せない」でいてくれる「いい人」が選ばれるわけ。
そんな論理無視の肥大化した姿が自民党だったわけ。

論理を無視しているので、何かを決定する必要もない。
だから「軽いトップ」が要請される。
客観的な論理を無視して、主観だけが飛び交うようになるので、序列意識が強くなる
論理は万人に平等ですが、主観の優劣は序列によって決まってしまいますよ。
その結果として、「ジジババが威張ってしまう」ことになる。
やり取りが客観的な言語を主体としたものではなく、主観的な情緒を主体としてしまうので、どうしても「閉鎖的」。

内部においては「なあなあ」で済ませても、問題を解決する能力も意欲もない。
結局は、物事を「敵vs味方の構図」で見て、「敵」の「あら探し」をして喜ぶようになる。
いわば、自分でないものを攻撃するという二重否定状態になってしまうわけ。
そして「悪いのは全部○○のせいだ!」と勝手に認定して、自分たちだけで納得してオシマイとなるわけ。

そんなことだから、結局は「根拠のない自負心」にすがらざるを得ない。

現実を見てしまうと、その自負心がなくなってしまう。
だから、ますます人の話を聞けなくなるわけ。
だから、ますます言語能力が落ちてしまう。
だから、ますます自分たちからメッセージを発することができなくなってしまう。

ちなみに、このような症状は、民主党も基本的には同じ。
そもそも「○○をよろしくお願いいたします。がんばっております。働かせてください。」なる同じ言葉で当選してきているんだから、基本的には同類ですよ。

ただ、民主党は現時点では成果を得たのに対し、コケた自民党は今後はどうするのかな?その点が興味があるだけです。
いわばリカバリー能力も見えてくるわけ。

与党だったら、顔を合わせての情緒主体のやり取りでも何とかなる。しかし、野党になったら顔を合わせてくれる人の数が減っていきますよ。顔の見えない相手に対して言葉で、訴えていく必要があるでしょ?しかし、それも無理でしょうね。

たとえば、自民党は、「鳩山さんが党首討論に応じない。」とかでブータレていましたが、そんなに党首討論をしたいのなら、ホームページを使って公開で討論を仕掛けるくらいのことをすればいいだけ。言葉そのものに力があれば、国会という場ではなくても、そんなこともできるわけでしょ?
しかし、言語能力が落ちてくると、現状認識能力、思考能力、判断能力、表現能力すべてが落ちてしまう。顔を合わせてウダウダ文句を言うしか能がなくなってしまう。
ヘンな話ですが、北朝鮮が、対面でやり取りができる場を設けて、ウダウダと文句を言っている姿と似てきてしまう。

自民党と民主党を、宗教改革におけるカトリックとプロテスタントに喩えましたが、カトリックがそれなりに再生したのは、カトリックなりの言語を再生させたことと、今まで自分たちが対象としてこなかったところにまで、対象を広げたこと。それこそイエズス会が南米まで布教に出かけたでしょ?
若い人が、未開の分野にまで進出することで、自分たちを再生させたわけです。
腐ってしまった主流に手を付けるよりも、腐っていない周辺部分から改革する方が現実的なんですね。

自民党だって、民主党を攻撃しているだけでは、再生ができるものではないわけ。
とは言え、一旦失った言語能力を再生させることは難しいでしょうね。

情緒優先で、言語を喪失し、しがらみが絡み合っていて、ジジババが威張っている自民党は、ある意味において、日本社会の縮図。言語を喪失してしまっているので、現状を認識する能力自体が落ちてしまっている。しかし、逆に言うと、現状を認識する能力が落ちているがゆえに、ノンビリしていられる。情緒だけだと、切実な危機感を感じなくて済むわけ。
「ああ、うまくいかないなぁ・・・」
「あ〜あ、オレたちって、かわいそうだなぁ・・・」と嘆いているだけ。

情緒優先なので、常に自分たちの事情を語り、それに対する「理解のある人」を周囲におくことになる。それこそ「我々にも事情があって・・・」なるエクスキューズに対し「そうよ!そうよ!」と言うだけの人ばかり。
しかし、事情に配慮してくれる人が、その人のことを本当に思っているわけではないもの。
たとえば「世襲をやめておけ!」との声をちゃんと受け止めて、対処しておけば、あんなに負けることはなかったでしょう。

しかし、自分自身に達成したいものがないので、減点部分しか目に入らない。
まさにトルストイ描くアンナ・カレーニナのように「見たくない!」「見せないで!」で突っ走っている状態。

このまま行けばどうなるか?は、トルストイのレヴェルでなくても、誰にでも予想できること。

逆に言うと、自民党を再生させることができれば、日本も再生させることができるのでしょうが、まあ、現実は甘くないでしょう。まあ、民主党のミスは当然あるでしょうから、ある時期には持ち直すこともあるかもしれませんが、本格的な再生は無理でしょうね。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。」なる物言いがありますが、まあ、歴史においても、経験においても、あるいは、芸術作品においても、こうなってしまえば、もう行くところまで行ってしまうものなんですよ。

(終了)
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発信後記

本文中でも書いていますが、政治的信条を議論しているわけではありません。
ダメダメからの脱却の問題、そしてその上で、「言語」の果たす役割について考えているだけです。

言語によって認識すると、自分にとって都合が悪い面も認識できてしまう。抑圧的な人間はそれがイヤ。だから自己逃避の人は、「な〜んとなく」で済む情緒でやり取りしようとするわけ。

何かあっても、問題を見ないことで対処するわけですが、当然のこととして、自分では何もしないまま。結局は、何かを犯人認定して、食って掛かるだけになってしまうわけ。

トルストイ描くアンナ・カレーニナも、自民党も、そんな点は、実に似ているものなんですよ。そして、たぶん、日本という国自体も、そんな路線にまっしぐら状態。
ダメダメの進行にはお約束があって、現状をしっかり認識すれば、かなりの程度まで予測が付くもの。「アンナ・カレーニナ」の冒頭の文句とは逆に、ダメダメというものは、一様にダメダメなもの。まあ、20年後には誰もがわかることでしょうが。
R.10/10/16