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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない体験,境遇 | |
配信日 | 04年8月4日 (10年6月5日,11年2月15日 記述を追加) | |
タイトル | 出会いの機会 | |
今現在各方面において活躍されておられるような方々も、自らの過去を振り返って「あの時に、あの人と出会わなければ、今のワタシはなかった。」と言うような発言をされる場合が多くありますよね? 人が人として成長し、自分の可能性を伸ばしていくためには、「自分自身の可能性そのものを見出し、お互いに影響を与え合い、切磋琢磨していく。」そのような「出会い」が不可欠でしょう。 後々の人生において価値を持つような素晴らしい年上の先輩,同年代の友人を得るためには、ただ、ボケ〜と待っているだけではダメでしょう。自分の方から何かアクションを起こす必要がありますよね? それこそ大学などに進学することだって、単にその学問分野をマスターするというだけでなく、様々な人間と出会うことも大きな価値といえるでしょう。何かのサークルにおいてもそう。 元気な会社には素晴らしい先輩がいる可能性が高いと考えられますよね? だって、会社として業績を上げているということは、そこにいる個々のスタッフが業績をあげているということになるでしょ?業績を上げているスタッフであれば、それなりの人ですよ。そんな人とのやり取りは有意義になり、自分自身の可能性を伸ばすことにつながることが予想できるでしょ? 逆に言うと、人と出会う機会が少ないような環境では、子供が自らの可能性を伸ばすこともできませんよね? 最初に例示した「あの時に、あの人と出会わなければ、今の私はなかった。」との述懐は、その意味としては「あの人と出会えたから、ワタシはこんなに成長し豊かになれた。」という意味でしょうが、ダメダメ家庭においては、「そのような人と出会えなかったから、今のようなダメダメとなっている。」という方向になる。 言葉の論理としては似ていると言えますが、現状は正反対といえます。 ダメダメ家庭では、親の方からして、人との付き合いがヘタであるばかりでなく、自分の子供が人と付き合えるようにサポートするようなこともいたしません。 子供の交友関係について、親が子供に対して言うことは「多くの友人を作っておけよ!」と評論家的に言い渡すだけ。 かと言って、進学も不可、遊びに行くにも不可。 じゃあ、友人を作るには一体どうすればいいの? あるいは、友人関係だけでなく、恋愛関係でも同じでしょ? 人と出会わなければ、恋愛も何もありませんよ。 パソコンで恋愛ゲームするだけになってしまいますよ。 物心ついてから一回も尊敬できる人間と出合ったことがない人間が、その後どうなってしまうの?それについて書く必要があるでしょうか? しかし、そもそも「子育ては親である自分が背負わされた被害」と思っているダメダメ家庭では、子供に出会いの機会を作ってあげるようなことはありません。 まずもって、ダメダメ家庭の親は人との出会いの重要性など理解していないわけです。まあ、だからこそ、ダメダメな人間と結婚し、ダメダメ家庭を築いてしまっているといえるでしょう。 だから、自分の子供にも尊敬できるような人間と出会わせてあげたい・・・なんて考えたりはしないんですね。「子供は、ただ、ふつうにやっていればいい。」ただそれだけ。 ダメダメな親は、子供が何かしようとしたら「そんなことは、お金のムダ!ウチはお金がない!」と言っているだけ。 お金がなければ友人と付き合えないものではありませんが、それこそゲームするとか遊びに行くとか・・・何事にも、それなりにお金もかかるでしょ? 親が、日頃から「金がない。」「もったいない。」と言っていれば、もうそれだけで、子供が人と出会う機会がなくなってしまいますよ。 子供自身で交友関係を広げていくことも、それなりにはできるでしょう。しかし、交友と言っても、いつも順調とは行かない。もし、子供がトラブル状況になったらどうなるの?そのような事態になったら、被害者意識が強いダメダメな親は、子供に対して「また、親に面倒をかけて!いったい、いつになったら親に面倒をかけないようになるんだか?!」と怒り出すだけ。あるいは、子供自身が交友関係を広げていくと言っても、そもそも人付き合いの出発点が全然違っているでしょ?ちゃんとしたマトモ家庭だったら、親自身の交友関係が広かったりするので、子供はそれに乗っかることもできる。以前にこのメールマガジンで配信した「人脈」があったりする。 ダメダメ家庭では親の人脈がないし、出会いの出発点も設定してくれない。すべて子供自身でやらないといけない。 オマケにダメダメ家庭は会話不全。 やり取りにおいて、「相手の話を真摯に聞き」「自分の考えを相手に対してわかりやすく伝える」そんな発想とは無縁となっている。だから、やり取りにおいてどうしてもトラブルが発生し、そのトラブルに対して、親がサポートするわけでもなく、何事も子供だけで対処する必要があるので、余裕ある対応ができず、ますます切羽詰ってしまって、ますますトラブルになってしまう。 あるいは、ダメダメ家庭は、マトモな一般人とはもともとの常識が違っていたりする。また、やり取りにおいて必要となるようなマナーも持っていない。だからダメダメ家庭出身者は、自分の出身家庭の常識がどの程度ズレているのかについて、周囲を伺いながら、やり取りをすることになる。 そんなことばかりやっていたら、子供だって、結局は疲れ果ててしまいますよ。 そうなったら、どうなってしまうのか? 疲れ果てたダメダメ家庭出身同士で集まらざるを得ないわけです。 「ああ、ワタシのこの辛さを分かってくれる人に初めて出会ったわ!」となってしまう。 まあ、すばらしい出会いだこと!! その結果は毎日のように報道されているとおりでしょ? 出会いということは、人との出会いという点だけではありません。 出会いということですと、「知識」に関わることもあります。 それこそ、「子供のときに出会った、『気象』についての本が、ボクをこの道に進ませるきっかけになった・・・」なんて気象予報士の発言もあったりしますよね? それこそ、ドイツのシュリーマンがホメロスの「イリアス」と出会って、トロイア遺跡の発掘に導いたようなものです。 子供の頃の感動が、その後の人生に大きく影響を与える。 そんなことは、分かり切ったことですよ。 だから、子供の関心を広げられるような、本などを与えてあげることも必要でしょ? ヤミクモに「努力しろ!ガンバレ!」と子供に対して命令しても、じゃあ、どんな方向にガンバレばいいの? 子供だって途方に暮れるだけですよね? しかし、ダメダメな親は人との出会いを広げてあげるような設定もしませんし、新たな知識に導いてあげるようなこともしない。 ダメダメな親は「ウチは普通の家庭だ。」と言い続けるだけ。そして、その「普通」を大義名分にして、自分自身でも新しい人と出会ったり、新しい知識を持とうとはしない。「だって、もうすでに『普通』なんだから・・・これ以上、いったい何かすることあるの?」と思っているだけ。 だからこそ、ますます子供の出会いの機会は広がらない。 それこそ、子供が進学する学校の選択も「て・き・と・う」。 「どんな教員なり生徒がいる学校なのか?」 「どんな出会いが得られるのか?」 そんなことを何も考えない。 「近くだから、あそこでいいや!」「ヘタに別の学校に入れると、ふつうでなくなってしまう。」と、近くの学校に入れるだけ。 そんなズボラな家庭の子供たちが集まって、有意義な出会いがあるの? まあ、生徒だけでなく、教員だって、その程度のレヴェルですよ。 そんな学校だったら、一時的な遊びとか、ちょっとした好奇心は何とかなっても、自分を向上させるような、生涯に渡って持続するような関係にはならないまま。 有意義な出会いとは無縁なままで、学校生活を送ることになる。 そんな家庭の出身者としては、成人後になって「あの時、尊敬できる人と出会っていたらなぁ・・」「子供の頃に、この方面の本を読んでいたらなぁ・・・」と嘆くことになってしまう。そして、そんな嘆きが積み重なっていく。 そして、その結果は・・・やっぱり毎日報道されているとおりでしょ? ダメダメ家庭は、子供に対して出会いの機会を作ってあげるどころではない。 むしろ、閉鎖性が強く、ダメダメの外にあるマトモな人たちと接触をしないようにしてしまう。あるいは、接触させるにせよ、「フンっ!どうせアイツらは、オレたちのような人間の気持ちなどはわからないさ!」と入れ知恵をした上で、出会いの場に自分の子供を送り出す。 結局は、トラブルが多発することになり、そんな状況になると、それこそボランティアのような「恵むこと」しかできない人間が、喜んで寄ってくる。 そして、「ワタシたちが、かわいそうなアナタたちを助けてアゲルわ!」と恩を着せようとする。 しかし、その手のボランティアは、対等の関係ではコミュニケーションができない人間であり、だからこそ、恵むという行為を通じて、上の序列を得ようとする。 そのようなボランティア活動によって、ボランティア本人は、自分の居場所ができるわけだし、恵んでもらう側も、自分の被害者意識が満足できる。 しかし、対等の関係ではコミュニケーションができない人間と、被害者意識にますます凝り固まった自分の親の間で生きている子供はどうなってしまうの? 結局は、人とのやり取りで有意義な思いをしたことがないまま大人になってしまう。 その手の人は、会ってもいない人については一生懸命に語るけど、実際に顔を合わせたことがある人については、何も語れない。 あるいは、有意義なやり取りについては何も言えないのに、受けた被害については、いくらでも話すことができる。 政治論議とか、陰謀史観とかは大好きだけど、自分にとって意義深い体験に導いてくれた具体的な人物なり、その際の実際のやり取りについては、何も語れない。 話が具体的ではないんだから、その手の話は聞いていても何も分からない。だって当人自身にとっても実感がこもった話ではないんですからね。 そうやって、どんどんと具体的な問題なり、自分の身近な問題から逃避し、一般論に逃げ込んでしまう。つまり、語られている人間から実感性が喪失し、抽象化されてしまう。 だって、人間とのやり取りで、意義深さを実感したことがないんだから、どうしても実感性から逃避するようになってしまうんですね。 自分の子供に対して、人との出会いの重要性を一般的に語っても、自身の出会いなり人付き合いには何も語れない。つまり、その手の人がいう出会いの重要性も、出来合いの理屈をコピー&ペーストしただけのもの。まあ、そんな程度の人だったら、マトモな人の出会いがたとえあったとしも、やり取りは続きませんよ。 そんな人とやり取りをしている側としては、「さっきから、アナタはグダグダ言っているけど、結局は何を言いたいの?ワタシは何を分かればいいの?」と思ってしまうだけ。 出会いの機会の成果は、人とやり取りすることで、自分の知見が広がることでしょ? 楽しいおしゃべりの仲間ができたこともそれなりの成果といえるでしょう。 ダメダメ家庭の親は、人と出会いがあっても、そんな成果がない。 具体的な明確にしたうえでやり取りを始める必要はないわけですが、お互いが誠実にやり取りを擦れば、そんな成果は自然と達成できますよ。 ダメダメ人間は、「な〜んとなく」「てきとう」にやり取りしているだけなので、マトモな人とのやり取りはスグにしぼんでしまうし、ダメダメな人とはグチで共鳴し、建設的なものは何もない。 グチの共鳴で終わってしまうようなやり取りをしていないんだから、意義深いやり取りをする人との出会いの機会があっても、素通りしてしまう。 「あの人は、厳しいことを言うから、イヤだ!」と言い出すだけ。 それに対して、グチばかり言っている人が近くにいると、「ああ!あの人は、ワタシたちのことを分かってくれる人だわ!」と、すり寄って行って、出会いがあり、そして、グチで共鳴し、傷のなめ合いとなる。 傷のなめ合いは、成果といえば成果なのかもしれませんが、まあ、建設的とは言えないでしょ?しかし、ダメダメ家庭を作る人間は、そんなやり取りしかできないし、それにフィットした出会いを求めるわけです。 何回も書きますが、子供の出会いへのサポートということなら、正論を問答無用に連呼するだけでなく、ちゃんとした人物との出会いを作ってあげるのが重要なのでは?子供にとっての最大の財産は、未来の時間であり可能性なんですからね。 しかし、恵むことによって、居場所を作ったボランティアも、施しを受けて喜ぶダメダメな親も、自分たちの管理下にある子供が、外の世界の人と、やり取りをすることを妨害するものでしょ?そうやって、子供たちの可能性を摘み取ってしまう。 逆に言うと、ダメダメな人は、自分の管理下にある子供が、外の人たちと「出会ってしまうと」、自分たちのダメダメさが分かってしまう・・・そのような恐怖を持っている。 だから、子供に対して出会いの機会を作ろうとしない人間は、確実に、ダメダメなんですね。だから、出会いの機会を作ること以外にも、多くのダメダメがあったりするものです。 そんな環境で育ってしまった人間が後になって、「あの時に、あの人と出会わなければ、今のワタシはなかったなぁ・・・」という誇らかな述懐を、目の前にいる人から聞いたりすると、まさに憤怒の念が巻き起こってしまう。 そんな憤怒の感情が積み重なっていくと・・・やっぱりよく報道されている事件になってしまう。 まさに「アイツたちと一緒になったせいで、こんな自分になってしまった!」と思い、復讐するは我にありと境地となってしまう。 そんな心理は、報道どころか、小説にもなっているくらいのポピュラーなものでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 現在中国でサッカーの大会が開催されているようですが・・・ 日本チームが中国人からブーブーと嫌がらせを受けたり、日本の応援団が嫌がらせを受けたりしていますね。 ダメダメ家庭は「やたら対抗意識が強い」ことは以前にも配信しています。 過去に日本から不快なことを受けたとしても、わざわざ会場に行って嫌がらせをするということは「心の貧しさ」以外の何物でもありません。 このような「心の貧しい」人間は、経済的にも豊かにはなれないんですね。 だって、そんな「心の貧しい」人間が、実社会でどのようにコミュニケートするの?人と上手にコミュニケートできなければ、どの分野でも成果をあげることはできません。 それに自分自身の尊厳を重んじないような人間は、信頼に足らないでしょ? あるいは、日本と中国以外の国の人は、そのような光景を見てどう思うのでしょうか? たとえば中国人から応援されたタイの人は、そんなにうれしかったのでしょうか? むしろ中国人に呆れた・・・というのがオチでしょ? そんな、わざわざ会場行ってブーブー言っている「心の貧しい」人間が、どんな子育てをするのかな? 「悪いのは全部日本のせい!」って、典型的なダメダメ家庭のセリフですよね。 しかし、そのような「心の貧しい」人間は、中国人の問題だけではないんですね。 何年か前、アメリカ海軍の船長さんが、長崎の原爆慰霊碑に花を捧げたことがありました。そしてある人が群集の中から飛び出して行って、捧げられた慰霊の花を踏んづけていました。 長崎の人にとって、アメリカの軍人を歓迎しない気持ちがあっても、わからないわけではない。しかし、わざわざ会場に出かけて花を踏んづけてどうなるの? 「あんなことをする長崎の人たちは、一体どんな子育てをして、子供はどうなっちゃうのかなぁ・・・」と、見ていて思ったものです。 結局「ああ」なっちゃったわけですが。 |
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R.11/2/15 |