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カテゴリー ダメダメ土曜講座(事件・トラブル編)
配信日 08年12月6日 (11年1月18日 記述を追加)
タイトル グリーンピースの捕鯨反対活動 (捕鯨への抗議活動)
先週(08年)から、「ダメダメ土曜講座」として、特定の事件などを取り上げて、その事件について考えた文章を配信しております。注目を集める事件も、このメールマガジンにおいて、今まで説明してきたダメダメ家庭の視点を組み合わせることによって理解できることが多いものなんですね。
前回の文章では、東京の漫画家さんの邸宅に抗議している女性たちの問題を考えて見ましたが、今回の文章においても、いわばクレーマー系の人々を取り上げましょう。

日本の捕鯨に反対していらっしゃる「グリーンピース」の人たちについて考えて見ます。あるいは、このグリーンピースだけではなく、シーシェパードなる団体もあるようですね。
「グリーンピース」は、捕鯨反対だけでなく、原子力反対の活動もやっていらっしゃるようですが、ここでは、捕鯨反対の面を中心に考えて見ます。
あの手の、過激な動物愛護運動は、まさにダメダメ家庭出身者が陥りやすいもの。
それこそ、それを個人でやると、厚生省次官経験者を襲撃なんてことになってしまう。

例の事件の犯人も、そしてグリーンピースの方々も、そのキャラクターの匂いは似ているなぁ・・・と思われるでしょ?被害者意識を爆発させて、会話の精神がなく暴力的。
そして、その行為も必要以上の過激さを持っている。目的を達成するための手段ではなく、手段のための手段となっている。

さて、あのように捕鯨反対の活動を熱心にやっておられるグリーンピースの皆さんですが、鯨などの動物愛護の精神はいいとして、じゃあ、彼らは子供時代に、どんなペットを飼っていたの?どんな感じでそのペットの世話をしていたの?どんな感じで、その動物と触れ合っていたの?
ちょっと皆さんも考えてみてくださいな。

「おいおい!何をカンタンなことを聞いているんだ?
グリーンピースの皆さんは、子供の頃から鯨を飼っていて、いつも世話をしていて、一緒に遊んでいたに決まっているじゃないか?
その楽しい思い出があるから、あんなに熱心に、鯨の保護に取り組んでいるんだよ!」

そのような推論は、『論理的』にも、そして『心理的』にも、実に自然と言えるでしょう。
子供の頃に楽しかったことのために、いい思い出をくれた動物のために、大人になって、活動する。
こんな流れには、疑問の余地がない。

論理的にも、心理的にも、疑問の余地がないほどに、自然な流れですが、『現実的』には無理がある。
子供の頃に鯨を飼っていて、その飼っていた鯨の世話をしていた・・・なんてことは、実際問題として無理ですよ。
そもそも鯨なんて動物は、世話をするのに、もっとも難しい動物でしょ?

じゃあ、実際には、どんな動物を飼っていたの?
まあ、現実的な発想をすればイヌとかネコのような「ふ・つ・う」のペットでしょうか?
しかし、そのペットとの触れ合いが楽しかったのなら、大人になって、再度そのペットを飼うんじゃないの?
グリーンピースの方々は船に乗って活動していらっしゃるようですが、船にイヌとかネコを乗せているの?そしてみんなで世話をしているの?しかし、それって動物虐待ですよ。
やっぱりイヌとかネコは陸上で飼わないとね。

じゃあ、グリーンピースの皆さんは、陸上にペットを残して、船に単身赴任しているの?
逆に言うと、そんな感じで単身赴任していて、愛するペットの世話ができなくて、寂しくないの?そんな人の言う動物愛護って、いったい何?
それって不思議でしょ?
彼らは、子供時代にどんなペットがいて、どんな感じで触れ合っていたのでしょうか?
あるいは、大人になった今現在は、どんなペットがいるの?

ヘンな話になりますが、グリーンピースの人たちからは、動物を実際に世話をしてきた人の匂いがしない・・・そのように言えるでしょ?
逆に言うと、だからこそ、彼らの活動は、世話をするのに、もっとも向かない動物である鯨の保護を対象にしている・・・そうとも言えますよね?
動物の世話が好きだったら、陸上でイヌとかネコの世話をするのでは?

彼らは、動物の保護という大義名分を掲げながら、深層心理的には、動物の世話や動物との触れ合いが苦手・・・そんな心理なんですね。
動物保護というシンプルな肯定形ではなく、動物への攻撃に対する反撃という二重否定の形式となっている。
そんな心理が理解できると、彼らの過激な行動も見えてくることになる。

そもそも、ダメダメ家庭においては、「動物をかわいがらない」。このことは頻繁に触れております。グリーンピースのメンバー当人よりも、その親がそんなキャラクターなんですね。
本来なら、そのような自分の親の問題を直視する必要があるわけですが、自己逃避のダメダメ人間は、「遠くのものから検討する」ことになります。自分とは関係が薄いものを犯人認定することが多くなる。
そして、「人による被害に食いついて」、加害者認定した対象の行動に対して、対抗心を募らせて、「対」することになる。
自分が犯人認定したものとの関係性を自分の心理に確定させるために、大がかりな行動をすることになる。
つまり、「コイツこそが自分の敵なんだ!」と「敵認定の儀式」をするわけです。
自分を納得させるための行動なので、その行為はムダに大がかりな方がいい。

そんな人は、自己逃避であって、人と会話することが苦手。
逆に言うと、説明能力が低く、人とのやり取りが苦手なので、動物に逃げ込んでいるといえるでしょう。
そんな人は、「平和」という言葉をよく使うもの。
結局は、会話や議論のない問答無用の世界を求めているわけです。
グリーンピースという名称の「ピース」は、まさに伊達ではないわけです。
彼らが持つ、「会話への恐怖感」が元になっているわけです。
そうして、敵を共有するもの同士の結びつきができあがり、それは会話不全の人間にしてみれば、生まれて初めての人との結びつきといえる。
敵を共有できなかったら、あんな人同士の結び付きなんて、一瞬で瓦解しますよ。
だからこそ、なおのこと敵への攻撃にこだわってしまう。

強圧的で問答無用だった自分の父親に抗議したいという心理であっても、「親に迷惑をかけてはいけない。」という子供の頃からの強迫観念があるので、親の代替物」に対して抗議するようになる。
父親への憎悪を、別の対象に転化して、転化した対象を攻撃することで、子供時代からの自分の不満を鎮めているわけです。本来は、自分の父親に対して直接的に文句を言えばいいだけですが、父親への敵意を抑圧しているが故に、自分を騙す行為なり儀式の規模がエスカレートしてしまう。

あんな過激な抗議運動だからこそ、彼らの親の強圧的な姿が見えてくるものなんですね。
結局は、「子は親の鏡」そのものでしょ?
あの手の動物愛護運動からは、動物に冷たかった父親の姿や、子供に対し、問答無用で強圧的だった父親の姿が見えてくるもの。自分以外のものに対して容赦のない姿勢は、まさに親譲りというわけです。
そのような「語られない人物」のキャラクターを想定すると、あの手の活動が持つ心理的な一貫性も見えてくるものでしょ?

彼らによる抗議活動に対して、その国固有の食文化とかの理屈で説明することにより理解してもらおうと考えている人がいるかもしれませんが、そんな説明は逆効果になるだけ。
そもそも、彼らにしてみれば、抗議すること自体に意義があり、鯨のことは本質的にはどうでもいいわけです。
捕鯨船に抗議することで、父親に抗議しているわけなんですからね。
加えて、抑圧的で被害者意識が強い人間は、誰かから説明されること自体を被害ととらえることになる。説明を受け、自分で考えなくてはならないことを、まるで追いつめられたように感じてしまい、被害感情を持ってしまうわけです。
そんな人に対して、説明すればするほど、逆上するだけですよ。

現実的に言うと、あの手の活動家に対処するには、あの活動家さんの父親について調べ上げて、それを抗議してきた船に対してスピーカーで流せば効果絶大でしょう。
それこそメンバーの父親の名前を次々と流していったら、あるいは、父親の声などを流してもおもしろいのでは?そんなことをしたら、抗議船はパニック状態でしょうね。一回目は逆上してくるかもしれませんが、それ以降は、抗議船の側にしても、敷居が高く感じるようになるはずです。

まあ、捕鯨関係は農林水産省の管轄でしょうが、農林水産省にそこまで知恵が回る人がいるかどうかは私には分かりませんが。
そのような搦め手からの攻撃が一番上手なのは、宮内庁くらいになるのかな?
相手側の一番のウィークポイントを即座にみつけ、そこをニヤニヤと突いていく・・・それができてこその宮廷というものですよ。
田植えや魚取りは農林水産省の管轄でしょうが、搦め手からのイジメは、宮内庁の管轄といえますからね。

日本の捕鯨船も、グリーンピースやシーシェパードの抗議船と真正面からぶつかる根性には感心しますが、もうちょっとアタマを使いなよ。
言いたくはありませんが、この私だったら、あの手の活動家自殺させるくらいは楽勝でできますよ。映画「羊たちの沈黙」でレクター教授が、隣の独房の囚人を言葉で追い込んで自殺させましたが、自分を騙しているような人を追い込むのは、そんなに難しいものではありません。それこそ、以前にちょっと言及いたしました、アニメ作品の「空の境界」という作品で、「直死の魔眼」なるものがでてきました。その一点を突くと、相手が死んでしまうという「ほころび」のようなものが見えてしまう洞察力の象徴でした。その手のものを持っている人は、現実にいるもの。
何も捕鯨問題に限らず、この手の過激な抗議活動をする人は、自分を騙していることに着目することが必要になります。
これは、クレーマー系の人たちへの対処法としては共通性の高いもの。
必要以上に過激な行動は、怒りの大きさではなく、自分を騙すための儀式にすぎないわけです。
だからこそ、活動する人間にとって、心理的にクリティカルな点が必ずあるものなんですよ。

ちなみに、ナチのゲシュタボは、「正しい拷問の仕方」を習得するために、ベルナール・ギーというフランス人の異端審問官の著作で勉強したそうです。実際問題として、拷問道具というと、ドイツではなくフランスが出てくるでしょ?
フランス人こそ、人を追い込むことに無上の喜びを覚えるタチの悪い連中といえます。まさにサディズムの総本山といえるでしょうね。だからこそ、あの手の抗議船に対処するには、フランス人的な感覚を持っている人を当てるのが合理的なんですよ。
自己逃避で抑圧的な人間のツボを的確に攻撃すれば、求める成果は簡単に得られるでしょう。

「その気」がある人にしてみれば、グリーンピースやシーシェパードがやっているような抗議活動をみれば、「あんなに活きがいいヤクザものなんだから、獲物としてはこれ以上ないほどなのに・・・どうしてワタシに任せてくれないんだろう?カタギの人間を追い込むわけにはいかないけど、あんなヤクザものなんだから、ジワジワと追い込んで自殺させても、笑っていられるし・・・ああ!すばらしい獲物なのに、もったいない!」と思っている人もいるのでは?

日本人やドイツ人は、基本的には誠実をモットーとしていて、搦め手からの対処が基本的には苦手のようですが、フランス人的な感覚を持つ日本人もいたりするもの。
拷問というものは、相手への共感があってこそ効果を生むことになる。
相手の心情や苦痛が理解できてこその拷問の効果であり、する側の悦びとなるわけです。
だから、この私の一連の文章も、ギーさんほどじゃないにせよ、拷問の仕方には参考になる面もあるんじゃないのかな?

(終了)
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発信後記

動物に対する苦手意識を想定すると、グリーンピースの過激な活動も見えてくる・・・
言われてみれば、そうでしょ?
あのような過激さは、自分自身をだますためには有効なんですね。

似た例だと、「ボランティアの人たちは、人間に対する愛情がない。」・・・
とんでもないことを書いていると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際のボランティアの人とやり取りをなさったことがある方は、納得されるでしょう。
人間に対する愛情のなさを「定型的な」善行で、ごまかしてしまうわけ。

グリーンピースの連中も、ボランティアの連中も、結局は自己逃避なんですね。
だからいつも他者を犯人認定するもの。
ホント、そんな人からは離れるしかないわけです。
R.11/1/18