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カテゴリー ダメダメ土曜講座(トピック編)
配信日 09年10月31日
タイトル 我が逃走
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がなく、自己逃避である。
このことは、このメールマガジンで頻繁に書いています。
そもそも自分で達成したいものそれ自体がない。だからこそ自分で判断する必要もないし、ヘタに自分で判断してしまうと、後になってその判断の結果責任を取らなくてはいけない。
それは心理的に恐怖。
ということで、自分の問題から目を背け、周囲のことばかりに注意を向けることになる。

と言っても、ただ周囲をボケーっと眺めているだけではツマラナイ。
某かの、アクションを起こしたりする。
たとえば「ワタシに構って!」と周囲に絡んだり、「あら探し」をして、「ああ!ワタシはあの○○による被害者なんだ!」と自分を憐れんだりする。
憐れむだけで済めばいいわけですが、現実的には「報復行為」をして、その報復行為そのものによって、「自分がこの○○による被害者」ということを「確認する儀式」とすることになる。

そのような発想を持つダメダメ人間にしてみれば、ある種の「争い」というものは、実に心休まるものと言える。
だって、争いの最中は、「どうやったらアイツに『』つのか?」
そんなことを考えているわけでしょ?自分自身よりも相手を見ていればいい。それこそがまさに自己逃避というもの。だから日頃から「味方よりも敵が必要になってくる。」
それに、「敵はどんなヤツだ?」「アイツの弱点は?」ということで、まさにあら探し行為が心理的に肯定されている。

争いがあれば、ダメダメ家庭の人間が自然体でいられる。
だから、争いとか闘争が大好き。

それこそ、この手の人間は、政治家の選挙のようなイヴェントが大好きなもの。
だって、政治家の選挙だと、「ライヴァルの候補者に勝つ」という名目で自己逃避が達成できますし、「中途半端な参加意識」も満足できるでしょ?

これがスポーツの応援だったら、たとえ「あのチームに勝った!」となっても、外から応援しただけなので、達成感は小さいでしょう。応援の声を上げたと言っても、その結果に対する寄与率は大きいとは言えないでしょう。しかし、選挙の応援だったら、それなりに実際に参加できる。だから達成感の共有もできるわけです。

ちょっとした選挙になると、とにもかくにも、応援に駆けつける人っていたりします。ヘンな話になりますが、候補者や政党なり政策などはどうでもよくて、「とにもかくにも誰かを応援したい!」そんな人がいたりするんですよ。
そうして、選挙カーに乗ったり、ノボリを持ったりして、お手伝いするわけ。
政策を実現するために、選挙に参加するのではなく、選挙への参加そのものが目的となっている。自己逃避人間にしてみれば、選挙というのは「おいしい」イヴェントなんですね。
逆に言うと、選挙になるとやたら張り切る人は、普段は、「たいしたレジャーなどはやっていない」もの。選挙こそが唯一の娯楽となっている。

個人として選挙を楽しむだけでなく、最近では、やたら選挙が好きな団体があったりするでしょ?
「本来は、あの種のカテゴリーの団体は、政治には関わる必要がないのに・・・どうして無理に政治に関わるの?」そんな団体まで、選挙に参加したりしますよね?
それは、政策を実現するというよりも、構成員に対して、「選挙という娯楽」を提供していると考えた方が自然なんですね。

選挙運動をすると、構成員は、「自分自身の問題から目をそらす」ことができる。
うまくいけば、達成感の共有もできますし、「共通の敵」で団結もできる。
まあ、合法的な娯楽といえますし、たまには、そんなのもいいんでしょうが、創造的ではないでしょうね。
だから選挙が好きな団体からは、芸術が出てこないでしょ?
芸能はそれなりに出てきても、芸術となると、自分自身を厳しく見つめることが不可欠となる。
その厳しさから逃避する娯楽としての芸能であり、選挙というイヴェント。

そんな人たちは、選挙に限らず、「闘争」という言葉が大好き。
それこそ北朝鮮なんて、いつもその「闘争」という言葉を使っていますよ。そんな「闘争」によって、自分よりも相手を見ることによる精神的な安逸を提供しているわけです。だから、その場合の「闘争」という言葉は、意味的には「逃走」と同じなんですね。

戦いと言っても、「何かを得るため」に戦うのか?
それとも、戦いそれ自体が目的なのか?
様々なパターンがあるもの。

犯人探しの心理の中にいるダメダメ人間は、戦いそのものが目的化している。
自己逃避行為であり、犯人確定の儀式となっている。
それを学校でやれば、イジメになる。
そんなイジメの加害者に対して、「イジメを止めなさい!」といっても、無意味。
ヘタをすれば「オレたちが、イジメを止めることができないのはアイツのせいだ!」と犯人認定が加速するだけ。
イジメ行為のなかにある犯人認定の心理を直視しないと、堂々巡りになるだけ。
ナチによるユダヤ人の迫害なんて、その典型でしょ?

闘争となると、おなじみの「市民運動」も、相手を見つめ、あら探しをして、「つるしあげる」という行為によって、「で、ワタシ自身としてはどうしたいのか?」それを考えることから逃げているわけ。
そんな人たちは、過激な闘争をするよりも、むしろ合法的に選挙を楽しんでいればいいだけですよ。年に一回のお祭りのようなものでしょうからね。

いわば、自分の心を平和にするために、自分の周囲に争いを起こすわけです。
それこそ、ライブドアの堀江さんなんて、まさにそのパターンだったでしょ?
あるいは、まさに北朝鮮なんて、典型的にそのパターンでしょ?あるいは、イスラムも同じ。無理にトラブルを起こし、「対抗心」を燃え上がらせ、その対抗心によって、自己逃避するわけ。
闘争というものが、自己逃避が目的となっていることを理解すれば、たまに「平和」団体が主張する、「平和のための闘争」などという、シュールな言い回しの意味も理解できるでしょ?

闘争することで、自己逃避ができる。
それに、その手の人がいう「平和」という状態は、何も選択する必要のない状態。いわば「何もせずボケーとしていられる」ことが肯定された状態。
目的も手段も、判断からの逃避や自己逃避という点では共通しているわけです。
本来なら、何かを達成するためには、何かを捨てることも必要になる。
それこそ、何をするにも、時間だって、お金だって、犠牲にしているわけでしょ?

その犠牲を受け入れても達成したいものは何なのか?
それはその人それぞれの考え方でしょう。

しかし、その「自身の考え方」そのものがないのがダメダメ人間。自己逃避の人間は、何も考えなくてもいい「平和」を求め、そして、自分よりも相手を見ていればいい「闘争」の中に、自身の安逸を求めることになる。
争いを起こすことで、相手に構ってもらい、相手をみつめることで、自己逃避する。

本人がそれを自覚して選択したのなら、それは当人の自由と言えます。
しかし、自覚がないのが自己逃避というもの。そんな人の近くにいくと、まさに「犯人探し」「犯人認定」の心理が発動し、犯人認定され、つるし上げをされてしまう・・・
そんな光景は、実際にあったりするでしょ?

(終了)
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発信後記

ダメダメ人間にしてみれば、闘争というものが、心理的には心休まるものである・・・そんなことを理解していれば、「どうして、あの人は、あんなにムダに諍いを起こすの?」と思わされる人の心理も理解できるわけです。

それだけ、その人の心の中は、もっと嵐になっていて、それを直視するのが怖いわけ。
あるいは、心の中に何もない空虚な場合もある。
その空虚さを埋めるために、闘争をすることになる。

本来なら、心の中の嵐こそが精神的な創造性につながるもの。多くの芸術作品は、その心の中の嵐を直視することから出発しているわけです。
しかし、心の弱いダメダメ人間は、「与えられた安直な回答」にすがってしまう。
そして、「与えられた役割」なり「与えられたタスク」をこなすことで、自分自身から逃避するわけ。
逆に言うと、そんなタスクなり役割を、「与えてもらわないと」困ってしまう。

その点、選挙活動というのは、そんな人間にとっては、実にフィットしたもの。
もちろん、それは合法的なものですので、存分に楽しめばいいわけ。ただ、もっと重要なことがある・・・というだけです。そしてその重要なことは、当人にとっても、楽しくラクな事ではないわけ。しかし、尊厳を求めるのなら、ラクな方法ばかりとはいかないでしょ?
R.10/12/28