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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない体験,境遇
配信日 04年2月25日 (10年11月3日 大規模に改訂)
タイトル 人脈を残す
サルの群れで、ボス猿になるための、一つのファクターとして「家柄」というものがあるそうです。
何故かと言うと、ボスを決定する選定者のサルは「かつてのボスにお世話になった。」ことを覚えていて、その「かつてのボス」の子供である「若いサル」を、新たなボスとして選定する傾向があるそうです。

現在の人間の社会において2世や3世が活躍するのは、本人の能力というより、周囲の人間が、ある人からお世話になった恩返しを、その人の子供にするということなのでしょうが、そのこと自体は一概に悪いこととは言えませんね?

周囲の人に恩恵を与えて、人脈を作りあげ、形成された人脈から、今度は自分の子供が恩恵を受ける・・・そして、恩恵を受けた自分の子供が、別の人をサポートする・・・そうやって、関係が広がって行く・・・このようなプラス方向のスパイラルとなるパターンもありますし、どうしようもない人たちを引き継がせるパターンもあったりします。
お互いに助け合える頼りになる人々を子供に受け渡していくのは、マトモ家庭の大きな特徴です。しかし、ダメダメ家庭ではそうはいかない。

何回も書いていますが、ダメダメ家庭はコミュニケーション能力が低い。
だから、そんな人とやり取りをしている人間は、その数として少ないことになる。
人との関係は、まずもって、量的に少ないわけです。

そして、量的な問題だけでなく、質的にも問題がある。
そもそもダメダメ家庭の人間は被害者意識が強く、何事も自分の被害なり持ち出しを意識する。だから、人とのやり取りと言っても、自分たちの被害を語り合っているだけ、つまり一緒になってグチで共鳴しているだけ。
お互いが一緒になって、目標達成のために努力し連帯する仲間のようなものではなく、単なるグチ仲間に過ぎないわけ。
だから、やり取りをしている人も、グチを並べること以外の能力があるわけではない。
そして、当然のこととして、その人の親だって、そんなグチ仲間に対して恩恵を与えたわけではない。

立派なボス猿だったら、配下のおサルさんを保護したり、サポートするわけですが、ダメダメな人間は、サポートしたり恩恵を与えるような関係にはならないわけ。
たとえ、誰かをサポートするような場合でも、やたら「恩を着せよう」としたり、最後まで付き合うこともなく、スグにトンズラしたりする。
散々引っ掻き回された挙句、さっさとトンズラされてしまった側は、受けたサポートに感謝するどころか、「なんだい?無責任なヤツだな!アイツ・・・今に見てろよ!」と、不快な思いが蓄積されるだけ。
そんな人付き合いだったら、とてもじゃないけど、人脈とは言えないでしょ?
自分が困った時に、最後までしっかりとサポートしてくれれば、サポートしてくれた人に対して感謝の念を持つわけですが、気分次第でちょっかいを出されても迷惑なだけですよ。

ちゃんとした人間であれば、誰かに対して最後までサポートしたこともあるでしょう。
集団の中で、共通の目標を達成するために、一緒に努力したこともありますよね?
だから、お互いを認め合い、そんな信頼感の中で、人脈が形成されていくことになる。

そのような直接的な信頼感を基本として、別の関係者に対して、間接的な信頼感を持つことになる。
「友達の友達は、友達だ。」なる言い回しがありますが、「信頼できる人から、紹介された人は、信頼してもいいだろう。」そのようなものでしょ?

マトモな家庭を作っている親であれば、その親自身が信頼の対象としている人もいるわけですし、その自分の親を信頼している人もいる。そんな関係性が人脈というものでしょ?
ところが、ダメダメ家庭においては、そもそも「信頼」という発想そのものが理解できないわけ。国語辞典的には説明できても、心理的な次元で納得することはない。
別のところで書いていますが、信頼とは、こちら側からのアクションに対する、相手からの「リ・アクション」が想定の範囲内に収まるという予想・・・そのように言えるでしょ?
そして、そんなやり取りの積み重ねがまさに、信頼感となっていくわけ。

ところが、ダメダメ家庭においては、行動の一貫性というものがない。
そもそも当事者意識がなく、自分で認識し、判断して行動しているわけではないので、その人の行動の一貫性が出てこないわけ。その場その場で「てきとう」に人に合わせているだけ。だから、行動が予想できない。
行動が予想できない人を、信頼する人はいないでしょ?

信頼とは無縁のままで、人との関係を構築しようとしても無理がありますよ。
信頼とは無縁のダメダメ人間は、人付き合いと言っても、そこに信頼というファクターはないわけ。感情が一時的に共鳴しているだけなんですね。それこそ、インターネットの掲示板で一緒にやり取りをしている間柄のようなもの。
そんな人たちが、「頼りになる」わけがないでしょ?
困った時に、助けになるわけがないでしょ?
それこそ、トラブルになってしまったら、そんな人は「フンっ!ザマー見ろ!」なんて言うだけですよ。

ちゃんとしたマトモな家庭の子供であれば、親の友人や親類等からのサポートがあったりするものです。まさに親が別の人に対してサポートしたこともあったわけですからね。
だから、その恩返しのようなフィーリングで、かつてサポートしてくれた人の子供に対し、「困った時はいつでも相談においで!」とサポートの用意を表明してくれたりするもの。
これから社会で活動しようとする人間にとって、「サポートの用意」を表明してくれるだけでも心強いものですよね?

その人が、すべてを自分独りでやり遂げるにせよ、「いざとなったら助けてくれる人がいる。」と思える場合と、誰一人として頼る人がない場合では、結果として一人でやり遂げたとしても、結果を得るまでの精神的疲労が違うでしょ?人というものは、往々にして、ミスしたらダメだと切羽詰っているがゆえに、逃げ道を意識してしまうもの。
切羽詰った心情は、逃げ道に繋がってしまう。だからこそ、真剣さからは遠くなってしまう。セーフティネットのようなバックアップがあるがゆえに、逃げ口を意識しなくてもよくなりますし、だからこそ、結果的に到達点というか出口が見つかりやすいわけ。
同じことをやるに当っても、そして、真剣な気持ちで取り組むことは当然としても、「絶対にミスしたらダメだ!」と切羽詰った心理状態で取り組むのと、「ここで失敗したら、あの○○さんに相談してみよう。」と、余裕を持った心理状態で取り組むのとは、精神疲労が違いますよ。

そんな疲労が積み重なったら、結局は、成果を出すことも難しくなりますし、新しいことにチャレンジする意欲も起きてこないでしょ?
トラブルになってしまったら、一巻の終わり・・・となったら、もう何もできませんよ。
サポートなりバックアップが確信できるからこそ、安心して、そして余裕を持って色々なことに取り組めるわけでしょ?

人付き合いの広さが作り出す安心感は、政治家になるような特殊な場合だけではありません。たとえば、子育てにしてもそうでしょ?
困った時に相談できる知人を多く持っていれば、その分だけラクですよね?
実際に相談するしないに関わらす、「いざとなったら、あの△△さんに頼ろう・・・」というセーフティネットのようなものがあれば、心理的にラクでしょ?

そのような人間関係は、当人自身で広げていく必要があるのは勿論ですが、親の代からの知人だって、あって困るものではありませんし、そこから新たな知人が出来るものですよね?

たとえば就職の時でもそんなものでしょ?
親の知人によって、就職先を世話してもらうという直接的なパターンだけではありません。親の知人が多ければ、志望先の業界について調べることが簡単ですよね?その業界で実際に働いている人もいたりするので、その人から生の情報が入るわけです。
学校の先輩とかのルートもあるわけですが、学校の先輩だったら、まだ大したポジションにはいませんよ。だから持っている情報も大したことはなく、型どおりのものになってしまう。それよりも、親の知人からの情報の方がはるかに多面的でしょ?そんな情報があるだけで、色々と有利ですよ。
生の情報があれば、実際に就職してから、「この業界はこんなに非常識だ!」と騒いだりするような、無様な事態にはならないわけです。

またダメダメ家庭はどうしても下層階級になりがちです。コミュニケーション能力が低ければ会社での仕事もうまくできませんよね?だから収入も上がらない。
上流階級と下層階級の違いは何でしょうか?
収入の違いはもちろんですが、大きな違いはそのメンタリティーですね。

上流階級はお互いに助け合う。
上流階級から滑り落ちそうな仲間に対しサポートをしたりするわけ。
前にも書きましたが、信頼感を基本とした人間関係であれば、お互いを肯定しているわけだから、トラブルになったらサポートすることになる。

しかし、下層階級はお互いに助け合うようなことはしません。むしろ足を引っ張り合うのが特徴です。所属している下層階級から少しでも上に上ろうとするような仲間を妨害する。
「オマエだけをいい思いなんかさせるもんか!!」
こんな発想が、下層階級の特徴ですね。まずもって精神が貧しいわけです。
ダメダメな人間関係は、お互いを肯定しているわけではない。
別の何かを否定しているという、共通の敵による結びつきがあるくらい。
否定が基本だから、かつて一緒になってグチっていた、グチ仲間が困った状態になっても、その困った状態を肴にグチっているだけ。否定の共鳴状態から脱却しようとすると、そんな努力こそを否定しようとする。

相互を肯定し、信頼感が基本となっている結びつきであれば、その肯定の精神を元に人間関係が広がっていくことになる。それが、まさに人脈というものでしょ?
だから、ちゃんとした人脈というか、人間関係は、その折々で、その肯定の精神という枠組みをチェックされることになる。

それこそ「○○と△△は・・・」とかの色々な人脈情報を覚えなくてはならないような事態が発生する。そんな人脈情報はムダといえばムダですが、対象者に対する敬意を持っているかという点のチェックの意味があるわけ。
その人たちに対して、それなりの努力なり持ち出しをする意欲の表明に繋がるわけです。

人脈の問題は、個々の人脈情報だけでなく、それを受け入れる枠組みというか、考え方のスタイルもマスターしないといけないわけ。
そんな付き合い方も、マトモな家庭であれば、個々の人とのやり取りをしてきているわけですし、いわば、信頼関係を基本とした集団とのやり取りの体験を持っていたりする。親がやっていたそんな集団との付き合い方を雛形として、自分なりに付き合っていけばいいだけ。

よく、集団の出入りにおいては、「来る者は拒まず、去る者は追わず。」と言葉の上ではなりますが、来る者に対しては、「信頼感を理解できるか?」そして、「従来のものに対して敬意を持てるのか?」という点について、チェックされるのは、まあ、当然のこと。
いきなり拒みはしなくても、試験に類するものはあるわけ。
「来る者は拒まず、去る者は追わず。」と言った機械的なものではなく、人脈との付き合い方をマスターしていることが必要になるわけ。ちゃんとした集団ほど、一時的な感情だけで入ってこられても困るものでしょ?
もともとの出自はともかく、その人なりの覚悟はチェックされますよ。
人との付き合い方なり、人脈情報と付き合い方がそれなりの水準であれば、まあ、合格ということになる。

実質的にそのメンバーとなるには、相手に対する敬意を持っていることが大前提になることは、本来は当然のことでしょ?
しかし、ダメダメな人間関係においては、そこには敬意というものがない。
言葉の上では恩恵を与えるというか、人に対して恵んでやるという行為はあっても、恵んでやっている相手に対して、敬意を持っているわけではないでしょ?

ボランティアなどの施しによって広がった縁なんて、恵んでやるという立場があってのことなので、対象とするものとの縁も、あるいは誰かに恵んでやっているもの同士の縁も価値がない。

人脈というのは、好意という感情の問題ではなく、本来は、信頼を志向しているもの。
前にも書いておりますが、ダメダメ人間にはその信頼がない。
人脈自慢をしている人に限って、信頼感がないというか、そもそも理解できていないもの。

人脈というか、その集団なり、個々のメンバーへの敬意が基本となっているか?
それとも、自分たち以外を否定しているという排他的な二重否定となっているか?
相互に敬意を持ち、信頼感を持っているのか?
一時的な好意で盛り上がっているだけなのか?
その違いによって、マトモな人脈と、ダメダメなゴロツキ仲間はキャラクター的に分かれてしまうわけ。

社会階層の問題はともかく、困っている知人を最後までサポートすることもしない人が、人脈も何もないでしょ?
マトモな結びつきだったら、困った時にもサポートしてもらえるし、そこから人の関係が更に広がっていく。
しかし、ダメダメな結びつきの場合には、お互いに信頼感がなく、一緒になってグチっているだけだったり、施しによる穏やかな支配関係や、あるいはフィジカルなパワーによる強圧的な支配関係があるばかり。
そして、そんな支配被支配の関係が、次の世代にも引き継がれていくことになる。
ということでダメダメ家庭では、自分の子供にお互いに助け合えるような人脈を残さないばかりか、足を引っ張り合うようなゴロツキを引き継がせることになってしまうんですね。

(終了)
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発信後記

本文中で社会階級の問題に触れました。
ダメダメ家庭はどうしても下層階級になりがちです。
なんといっても親からのサポートがないのだからしょうがない。
だからといって、社会から階層問題がなくなるものでもありませんし・・・

今後も階層問題に触れることも多いと思います。
R.10/11/3