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アップ日 11年2月9日 
タイトル 不幸競争の追加文章
テーマ 九州の新燃岳の噴火への政治家のコメントに関わる騒動について
さて、この不幸競争の心理に見事に合致する事例が先日(11年)ありました。

なんでも、民主党の元の国会議員の河上さんという方が、宮崎県の火山の噴火は、以前の家畜の病気で多くの家畜を殺したことによる「神からの怒り」であると感じたとのことで、それをツイッターで公表したようです。

その考え・・・というか、感想ですが、そのことに信念があるのなら、ちゃんとした文章にまとめた方がいいのでは?ツイッターという場で短文で公表したら、誤解されても当然でしょ?
もともとの当人の知力とか文章力の問題から短文どまりとなってしまうのでしょうが、だったらなおのこと、文章力のある人のサポートを得て、的確な説明文にまとめるのが「政治家」としての力量というものじゃないの?
当人に説明能力が十分ではないのなら、それをサポートする方法を考えればいいだけ。
しかし、現実的には、当人の説明能力が低いが故に、命令と服従の関係で片が付く政治家となったわけでしょうね。
まあ、それはいいでしょう。このサイトでは能力の問題を議論はしておりませんからね。

おもしろいのは、この河上氏が、被害というか不幸にばかり目を向けていることなんですね。
殺処分された家畜の被害というか不幸。
火山の噴火という、被害というか不幸、
そして、ツイッターというかブログが炎上してしまった被害というか不幸。

そんな、被害とか不幸ばかりに目を向けている
頻繁に書いていますが、当事者意識がないダメダメ人間は、自身では何も判断しないので、不都合な事態は、自身の「失敗」という形ではなく、他からの「被害」という形で認識されることになる。だって、何も判断しないんだから、判断ミスというものも論理的に存在しなくなってしまう。
しかし、少なくとも、今回のブログ炎上事件では、「失敗」という面から見た方が理解しやすいでしょ?
しかし、当事者意識がないがゆえに、心理的には、「失敗」は存在せず、「被害」だけになっているわけです。

被害しか認識できないので、何事も、その被害の多寡によってしか評価できない。
だから、認識された被害や不幸によって、競争することになる。
たとえば、噴火の被害や、殺処分された家畜の被害を比較する。
そして、自分に対し抗議の声を上げた人と、抗議の声を受けた自分自身の不幸を比較する。
だから、「今回、ネット上で、無名無数の方々から激しい罵りを受けました。」「私も大変傷つきました。」という言葉を持ち出し、「自分こそが被害者なんだ!自分こそが不幸なんだ!」とアピールする。
まさに、絵に描いたような典型的な事例といえます。

そもそも、政治家たるものは、本来は、個人的な感想を語るのではなく、信念なり方向性を語る必要があるでしょ?たとえどんな内容であれ、ツイッターごときで感想を書いていい気になっている時点で政治家失格ですよ。
もちろん、そんな程度の人間に抗議する方もどうかしていますよ。
これについては、競争相手という文章で書いています。
バトルの相手は、結局は同格になっている。だって、やり取りが成立しているんですからね。

その河上さんもツイッターを閉じるとかの問題ではなく、自分の考えを客観的な文章にすることに努力するのが先なのでは?
とは言え、抑圧的な人間は、自分の考えそのものが存在せず、目の前に発生した不都合な事態に目を向け、否定的な感想を断片的に言うだけ。
この河上さんがまさにそうですし、だからこそ、ネット上で、同類たちを呼び込んでしまう。同じ土俵上で、同じ様なキャラクターが、向きの違いだけでバトルする・・・この種のバトルって、まさにそんなものでしょ?

そして、頻繁に書いていますが、動物への過剰な同情というのは、往々にして「支配・被支配の構図」となっていた自分の出身家庭において、被支配者であった自身の立場の投影の意味になっていることが通例です。そして、被支配者となっていた人間は、後になって、以前の支配者に対して、感情的な報復行為を行うことになる。しかし、直接的な臥薪嘗胆ではなく、代替品を攻撃することになります。
それこそ、グリーン・ピースやシー・シェパードなどの過激な動物愛護運動は、捕鯨船に対する攻撃こそが主目的であり、動物愛護が目的なのではなく、自分を支配していた父親に対する報復行為の意味合いとなっている。

さて、今回の事例でおもしろいのは、この人が見せる、火山の噴火への注目です。
政治家として、自然災害に対して注目するのは当然として、災害という面ではなく、そこに「怒り」を見ている。
ここで、「文芸的」な観点からすると、山は父親のメタファーとなることが多くあります。ちなみに、母親は海となります。
別のところで書いていますが、父親のイメージは、塔のイメージとなることが多くありますが、それが、自然の中での象徴は山となるわけです。
つまり、火山の噴火に怒りを見たこの人は、その深層心理では、父親の怒りを見ているわけです。そんな流れはヴィジュアル的にも納得できるでしょ?

家畜の殺処分と、火山の噴火の関係性は、その人の心理としては、家庭内で虐げられている自分自身と、怒りっぽい父親の関係性に対応しているわけです。
だから、身につまされてしまい、コメントを残さざるを得なくなってしまったわけです。
つまり、某かの形で吐き出さないと、心の中に残ってしまいそうになり、それが耐えきれなかったわけです。
本来は、政治家だったら、消費税の問題でも取り上げるのが一般的でしょうし、今回の火山の噴火を取り上げるにせよ、山の怒りについてコメントするよりも、避難態勢の問題なり、補償の問題を議論することの方が意味がありますし、客観的な記述もできるでしょ?
しかし、心理的にそれができなかったわけです。だからこそ、「感情的な」コメントになってしまい、その後の対応も、「感情的に」になってしまう。

今回の事件ですが、「オマエのせいでうまくいかない!」という言葉で、日頃から子供に対して怒鳴り散らしていた親からの声に対して、『ワタシだって、困っているのよ!』と、親に対して反論していた子供時代の習性がみえてくるわけです。
そして、そんなコメントに抗議したネットの住人たちも、そのメンタリティや出身家庭の雰囲気としては大同小異となっているわけです。だからこそ、感応してしまうんですね。

そのように出身家庭の問題に目を向けると、珍妙な行動も、それなりにスグが通ってくるでしょ?トラブルの本質は、実にシンプルなもの。
ただ、その本質がdysfunctionalであるがゆえに、直接的には見えてこない。
しかし、そのdysfunctionalな点を想定すると、シンプルに見えてくることになるわけです。