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カテゴリー ダメダメ家庭の親のキャラクター
配信日 06年6月27日 (10年11月17日 記述を追加)
タイトル 世界の狭さ
ダメダメ家庭を作る親は会話ができない。このことはこのメールマガジンではレギュラーな文言です。
会話が出来ないから、人との付き合いも広がらない。いつまで経っても、狭い世界のまま。

それだけではありません。
ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない
自分自身の問題を自分で解決して行こうなんて思っていない。上手く行かなくなると、持ち前の被害者意識が爆発するだけ。

当事者意識がないから、様々な分野を自分自身で調べていくこともない。
いくら自分自身で調べないといっても、仕事を持っている場合には、仕事については、「それなりに」調べたりするでしょ?
しかし、逆に言うと、当事者意識がないと、自分の仕事以外はまったく知識欲がなかったりするんですね。それに会話の意欲もないわけですから、面白いネタを仕入れても、使いようがない。だから、会話を楽しむという発想がなくなってしまい、話のネタに対するセンシビリティも、ますます低くなる。結果的に、仕事に関わるネタ以外は興味がなくなってしまうわけ。

そんな人が知っていることといえば、自分の仕事に関することとだけ。だから、知識の面でも、その世界が狭いわけ。そしてそんな人と関わりを持つのは、仕事で「付き合い」がある人と、家族だけ。
と言っても、会話のできない人間なんだから、相手をしてくれるのは実質上は家族だけになってしまう。

と言っても、その家族と話をしようとしても、仕事以外にネタがあるわけでもないし・・・
ということで、会話ができないダメダメ人間は、自分の家族を自分と同じ仕事に就いてもらいたい・・・と思うことになる。

だって、そうなったら、自分が唯一相手をしてくれる自分の家族と、一応は、やり取りができるでしょ?仕事に関することについてお互い話をすることができますからね。

しかし、家族と仕事の話をすることができないと、一体全体、誰が自分の相手をしてくれるの?無理に自分の話し相手をさせても共通するネタもないわけだし・・・加えて、自分がタッチしていない分野の話を上手に聞くなんて芸当ができないわけですしね。
どうしても、自分と同じネタ・・・つまり自分と同じ仕事でないと困るわけ。

と言うことで、奈良県でまたまた事件がありましたよね?
医者の息子が、家を放火し、家族を殺しちゃった事件です。この手の事件もレギュラーな状態なので、私としてもいまさら、その事件の顛末をじっくり調べる意欲はありませんが、まあ、多少のコメントを書くのが通例になっちゃってますし・・・ということで、今回は、あの事件に関係するお題にした次第です。

そもそもあの医者はどうして、自分の息子を、そんなにしてまで医者にしたかったの?
いうまでもなく、「自分の老後の費用を自分の息子に出させよう!」なんて考えていたわけではないでしょ?まあ、医者だったらお金は持っているでしょ?老後の費用くらい自分でなんかなりますよ。というか、お金なんて余るほどあるんじゃないの?
それに、その親子だって、一緒にいて、お互い楽しい間柄というわけではなかったわけでしょ?老後にわざわざそんな顔を見る必要なんてありませんよ。

自分が医者としての仕事に満足していて、息子にも、その「やりがいがある仕事」を継がせたい・・・そのような気持ちもあるかもしれません。

「おい!医者の仕事はいいぞぉ!患者さんの命を救う喜びは何ものにも変えがたいものなんだ!」
そのような言葉で子供にアドヴァイスしても、『いや、お父さん!ボクはこのような方面の方が好きなんだよ!そのうちに医学に関心を持つかもしれないけど、今のところはないなぁ・・・生半可な気持ちで医者になったら、それこそ患者さんも迷惑だよ!』
そのような「会話」が成り立つでしょ?自分の仕事に誇りを持っていれば、逆に無理強いはしないでしょ?
だって、無理強いなんて、それこそ自分の仕事を冒涜することですよ。

あるいは、父親が「医者は、ガッポガッポと儲かるから、オマエもやれよ〜」と思っているのなら、子供だってこう主張できますよね?
『いや、自分ではこっちの仕事の方がいいよ。たとえ収入が少なくても・・・』『ボクのような人間が医者になっても、医療ミスして損するだけだよ!』
そのようなやり取りだって可能ですよね?
だから、単に収入の問題ではないわけです。
無理強いをしているということは、医師としての仕事を肯定しているとはいえないわけ。

ダメダメ家庭の人間は、閉鎖性が強い・・・このことは以前に配信しております。
自分たちのダメダメな領域に「入ってくる」人に対しては割と寛容でも、ダメダメな領域から抜け出そうとする人間の活動を妨害するわけ。
だって、それまで自分の相手をしてくれていた人間が、自分たちのダメダメな領域から抜け出してしまったら、会話不全である自分の相手を誰がしてくれるの?
おまけに、ダメダメな領域から抜け出して、マトモになってしまったら、自分のダメダメが、いやがおうにも認識されてしまうわけでしょ?

それまで「悪いのは全部○○のせいだ!オレたちはかわいそうな被害者なんだ!」と、自分を納得させていて、何も努力もせずに、子供に対してグチっていたのに、かつてのグチの同志が、自分で努力して、マトモになってしまったら、自分のダメダメについて否定しようがないでしょ?

そんなことは避けたい!

ということで、ダメダメな人間は、自分たちダメダメな領域から抜け出す人間を妨害するわけ。
自分と同じネタを理解し、自分と同じ人間関係の世界に留めておきたいわけ。
そうすれば、いつまで経っても、自分の相手をしてくれるでしょ?
職業が同じなら、一緒に仕事の話をネタとすることもできますし、ダメダメな当人にしてみれば、それしかネタはないわけですしね。

しかし、本来なら、話のネタなんて、いくらでもあるでしょ?
それこそ本を読んで別の分野についての知識を得ることなんて簡単でしょ?
映画を見て考えてもいいし、まあ、地域活動をしてみる・・・とか、ネタを仕入れることなんて、別に大した苦労もいらないでしょ?

しかし、ダメダメ人間は、そんな努力もしない。
前にも書いていますが、そもそも会話の意欲がなく、「面白いネタ」を仕入れて、「周囲の人を喜ばせてあげよう!」なんて考えないわけ。
むしろ、唯一自分の相手をしてくれる、自分の家族にすがりつき、その家族を自分と同じネタを共有することを考える。

それはそれで、その人の考えでしょうが、ダメダメ家庭の人間は自己逃避であり、自分で自分のことがわかっていない。だから、「自分の相手をしてくれるのが、自分の子供だけ。」ということすらわかっていないわけ。
おまけに、ダメダメ家庭の人間は、会話の能力がないので、自分の意向を、子供に「わかりやすく」伝えることもできない。
おまけに、何回も書いていますが、ダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強い。うまく行かないことがあると、それを自分の被害と捉え、自分に被害を与えた犯人に対して復讐することになる。当人は復讐と思っているので、相手に対して容赦がない。

そんな人間の相手ばかりをしているので、子供としては、「人に合わせすぎる」ようになってしまう。
しかし、そのような強圧的な人間に「合わせて」いても、心理的にいつまでも「持つ」わけもなく・・・・
やがては「窮鼠ネコを噛む」という事態に・・・
もう、この展開はお約束ですよね?

そう考えると、あの奈良県の事件だって簡単に理解できるものです。
あの父親の世界の狭さ・・・それは「付き合う」人の狭さと、自分のネタの狭さ、そして考え方の狭さ・・・それらが合わさっているんですね。
狭い世界を、自分で広げて行くことをせず、むしろ、「自分の子供を、自分の狭い世界に閉じ込めておきたい!」そんな心情があるわけ。

あの父親が、自分の仕事以外にどんな知識があるのでしょうか?
あの年齢で、仕事以外に知識がない人間なんて、周囲の人間にしれみれば、実にツマラナイ人間と言えるでしょ?そんなツマラナイ人間と一緒にいなければならない子供にしてみれば悲劇ですよ。
しかし、親と子供が同じ職業のケースって、割とポピュラーですよね?
それこそ親子そろって学校の教員とか、あるいは、親子そろって政治家とか・・・
しかし、そのようなケースは、親子そろってダメダメのケースもあったりするわけです。

父親が誇りをもって働いている後姿を見て、自分も親と同じ職業に就こうと思うケースも、もちろん、ありますが、子供が「て・き・と・う」と言った感じで、親と同じ職業に決めてしまったり、親が自分の領域から子供を出さないようにするケースもあったりするわけ。
そのようなケースだと、いわゆる知的な職業とされる人でも、仕事の領域以外は実に知識が貧弱なので、わかる人には、スグにわかります。

親の仕事を肯定した形で、子供が引き継いだのか?
それとも、「それ以外について考えるのが面倒だなぁ・・・」という二重否定のスタイルで親の仕事を引き継いだのか?
外見的には近い、肯定と二重否定も、心理の面では大きく違っているもの。
皆さんも、注意してみてくださいな。

まあ、今回の奈良県の事件において、「衝動的な犯行なのか?計画的な犯行なのか?」なんて、相変わらずの頭カラッポな議論をしているようですが、家庭の問題は過程の問題。
その前からの過程を、検証すれば、心理の流れなどは簡単にわかるものなんですね。

会話の能力のないダメダメ人間は、付き合う人の領域も狭く、自分の世界も広がらない。だから、人から新たな知識を得ることもない。だからますます知識が広がらない。そんな人の相手をするのは、仕事以外では家族だけ。そして、その家族に命令を下すだけ。命令を下すだけだから、ますます会話の能力も向上せず、ますます世界が狭くなる。
自分の世界がスパイラル状に狭くなっていって、どんどんと「濃く」なってしまって、やがてドッカーン!と大爆発。

何もこの事件に限らず、結構ポピュラーな事例でしょ?

まあ、そんな人は、仕事以外の知識が貧弱なもの。それに、その話し方も、わかりやすいスタイルではない。
かと言って、「この人・・・色んなこと知っている人だなぁ・・・ネタがいっぱいあるなぁ・・・」と思わされる人が、マトモな人とは、必ずしも、言えないことも、残念ながら、真実です。この私が言うんだから間違いありませんヨ。

そして、世界の狭さは、単に知識の狭さという問題ではないわけ。
常識自体も、違ってきてしまう。
それこそ、インターネットの掲示板に入り浸っている人にしてみれば、そのインターネットの掲示板での常識が、社会一般の常識となってしまう。
だから、自分たちの常識と違っている見解を見つけると、「それは偏見だ!」と大騒ぎすることになる。
考え方が違っていること自体はともかく、違った見解の相手を一方的に「偏見」としてしまうわけ。「インターネットの掲示板こそが社会の常識だ!」と思ってしまうわけ。

あるいは、ボランティアとか市民運動の活動家もそんなものでしょ?
自分たちとは違った見解を、「偏見だ!」とか「差別だ!」と非難するだけでしょ?
しかし、その手の人たちは、自分たちの見解を、客観的な形でわかりやすく説明することはしないもの。
相手の見解について考えもせずに、一方的に相手を非難しているだけ。

逆に言えば、そんな知的な面でのズボラさが許容される狭い世界に安住し、そこに留まりたいと思っているわけです。

何も、インターネットの掲示板の人たちや市民運動の人たちだけでなく、この手の人たちは、スグに「アイツのせいだ!」とかの犯人認定によって議論を終了してしまうものでしょ?
何かトラブルがあったら、「それはインターネットが悪いんだ!」と言っていればいいだけの世界。
あるいは、「それはユダヤ人の陰謀だ!」と言っていればいいだけの世界。
あるいは、「時代が悪い。」と言っていればいいだけの世界。
そんな狭い世界に安住して、知識の面だけでなく、説明能力も欠如することになる。

そんな人は、じゃあ、インターネットがない時代には、そんな事件がなかったのかについて調べようともしないし、ユダヤ人がいない地域でそんな事件がないのかについても調べようとはしない。むしろ、そんな質問を受けたら、「オマエは偏見を持っている!」と逆切れするだけ。
そして、「ああ!オレたちって、なんてかわいそうなんだ?!」と自己憐憫しているだけ。
そして、一緒に自己憐憫してくれる仲間を探し、そして作ろうとし、そして、自分の子供を仲間にしようとするわけ。

ちなみに・・・
奈良県で、中高一貫の私立の進学校というと・・・もう学校名が特定されちゃいますよね?
実に興味深いことに・・・私にご意見のメールをされた方で、その学校に関わりがある方がいらっしゃいました。
まあ、もう購読はされていないでしょうが・・・逆上なさちゃいましたし・・・トホホ・・・

どうやら、その学校は結構ダメダメ家庭の子弟が多く集まっているようですね。
集まるのはいいとして、それならなおのこと、周囲の大人がちゃんと対応しないとダメでしょ?
この手の問題は、早めに認識して、早めに対応すれば、大きな事件にならないで済むわけですしね。

あの学校は名前からすると、仏教系じゃないの?
家族問題で苦しんでいる子供たちを見殺しにして、利益を上げることだけに執着するなんて・・・その学校の教員には仏罰が落ちてほしいなぁ・・・
いったい、おシャカさんは何をやっているんだい!

(終了)
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発信後記

今週から、火曜日と金曜日の配信です。
バルザックの「谷間のゆり」のシリーズにする予定だったのですが、またまた事件が起こってしまったので、それにちなんだものにいたしました。

あんまり、シリアスな文章ばかりではなんですので、ここで軽いムダ話でも書こうと思います。

今サッカーのワールドカップが開催されていて、それにちなんでか、「GOAL!」というサッカー映画が封切りになりました。私は、試写会の券が当たったので、ちょっと前に見ました。
まあ、お約束全開の映画なんですが、娯楽作品なんだから、あれでいいんでしょうね。

ただ、私のような人間が見ていると、「あれっ?」と思うシーンがあったりします。ドラマの流れがちょっと不自然になる箇所があったりするわけ。たぶん、映画の最初の編集の段階で映画の長さ(尺というらしい)が2時間20分くらいになっちゃったのでは?それを2時間の映画にするために、無理したのでは?

サッカーのハデなシーンは営業上、残さないといけないので、ドラマの進行上意味があるシーンは、カットの憂き目にあってしまう・・・このようなことは、よくあるようです。
だからドラマの流れがちょっと不自然になってしまう・・・そんな映画って結構あったりますよね?

その「GOAL!」という映画はメキシコからアメリカへ不法移民した人が、イギリスでプロのサッカー選手になる話なんですが、だからメキシコなり、アメリカなり、イギリスという異なった地域が出てきます。

映画というものは、それがどこの地域なのか、あるいはどの時代なのか?映画の中で明示する必要があるわけ。その映画はメキシコから国境を渡るシーンから始まるわけですが、人々がスペイン語を話しているので、私は第2次大戦中にスペインから亡命する人なのかな?と思っちゃいましたよ。たぶん、その前にそれを説明するようなシーンがあったのでは?ただ時間の関係上カットされちゃったのでしょうね。

アメリカとイギリスも、その違いを明示しないといけない。ただサッカー映画の場合だと簡単で、「サッカー」という言葉を使っていると、そこはアメリカということになり、「フットボール」という言葉を使っていると、そこはイギリスということになるようです。
同じ英語でも、ちょっと違うわけ。もちろんイギリスとアメリカでは発音がかなり違います。ただ、それが階級による違いの可能性もあるので、発音だけでは判断できないわけ。

ちなみに、とあるフランスの映画監督がイギリスのロンドンを舞台にした映画を見たことがあります。
その映画では、場所は明示していませんでした。ただちょっと不自然な光景が強調されていたので、私は「なんかヘンだなぁ・・・落ち着かないねぇ・・・ああ!ここはイギリス、多分ロンドンなんだな!」とわかりました。

どうしてイギリスとわかるの?
英語を話していたから?それだったら、アメリカかもしれないし、パリだって英語で会話することだってあるでしょ?
2階建てのバスが走っていたから?そんなベタなシーンだと、わかりやすすぎますよ。
ロンドンというと霧なの?けど、パリだって霧くらいはあるでしょ?

さあ!フランスの映画監督が使っていた、いかにもイギリスという不自然な光景って何でしょう?

その映画では、実に不自然なことに、車が左側通行で走っていたんですね。
「なんだこりゃ!」
と、思っちゃいますよ。
そのフランスの映画監督は、車が左側通行であることを強調することで、そこがイギリスであることを示したわけ。
まあ、大陸の人は落ち着きませんよ。だって、いつも見ている光景と違っていますからね。今だったら海底トンネルもありますから、駅を出たら違和感を感じるでしょうね。

そのフランス人監督の意図に気がつく人は、日本人では、ほとんどいないでしょう。一般の日本人は、車が左側通行のシーンを見ても違和感なんて感じませんよ。この私が気がつくのは、私が人間離れした観察眼を持っていることと、私が「いや〜、ワタシは免許取って以来ハンドルを握ったことがないよ!」と豪語する、ゴールドペーパードライバーであることが合わさっているからでしょう。ペーパードライバーならではの自由な視点も、世の中にはあるんですよ。

映画ですと、映画の発明は19世紀末です。ですから1900年頃の世界様々な都市の様子が記録映画に収められています。
そんな大昔の映像でも、イギリスのロンドンやリヴァプールはちゃんと馬車が左側通行。
あるいは、パリやドイツのドレスデンや、ロシアのモスクワはちゃんと馬車は右側通行。
今と全然変わらない。

ちなみに、イタリアのミラノを映した記録映画では・・・馬車も人も、右側通行でもなく、左側通行でもなく、ゴチャゴチャと銘々勝手に移動している。
やっぱりイタリア人って・・・
この点も、変わってませんねぇ。
R.10/11/17