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カテゴリー ダメダメ土曜講座(発想と視点編)
配信日 09年5月9日
タイトル オール・オア・ナッシング
今回は、ダメダメ人間が「全部か?まったくゼロか?」そんな二者択一的な文言を使うことについて考えてみます。それこそ「全部」は英語だとallだし、まったくゼロとなると、nothingとなり、よく「オール・オア・ナッシング」とか言いますよね?
ダメダメ家庭の人間は、「全部か?ゼロか?」のどっちかになってしまって、中間部分がないわけ。

ダメダメ家庭の人間は、現状認識から逃避している。
ひたすら「理念的」に考え、事態を具体的に見ることをしない。

そして自分で問題を解決する発想がない。何かあっても「べき論」でお説教しているだけ。
逆に言うと、べき論が通用する「大義にすがる」傾向があるわけ。
そんな人は、その物言いに、「必要以上に強い言葉が多くなる」ものです。
たとえば、「全部」なる言葉がその代表といえます。全部だから、まさにall。
あるいは、「根絶」なんて言葉も、いわば「全部」という言葉の親戚と言えるでしょう。
根絶なんて、いわばnothing。

このような発想は、「○○になれば、全部解決だ!」という「約束の地」の発想ともつながっているもの。以前にも書きましたが「約束の地」というものは具現化された自己逃避のようなもの。

じゃあ、「とりあえず、自分では、何をするの?」そんな発想がない。
結局は、何かを犯人認定して恨んでいるだけ、
それこそ「断固糾弾せよ!」などと叫びながら、目先のものを「糾弾」し、つるし上げるだけ。

それって、会話の精神の不在と言うことでしょ?だって、糾弾とは、説明でも、解説でも、説得でもないわけだから、要はその人の説明能力の低さを自分自身で語っているようなもの。

断固という文言を持ち出すことで、相手の話を聞くことを拒否して、思考することから逃避する。
断固と言い出している人と、どんな感じで話をすればいいの?
そんな姿は、攻撃的であって、人の話を聞く姿勢ではないでしょ?

この「断固」という言葉は、以前に取り上げた「中国の歴史教科書」に頻繁に登場いたします。
しかし、教科書に「断固」という表記は不要なのでは?
あるいは、中国の歴史教科書には「殲滅」なる言葉も頻発したします。
この「殲滅」という言葉から、「敵VS味方の構図でしか物事を見ることが出来ない」ことが見えるわけ。

あるいは、「善vs悪認定」のような、単純な二項対立の図式でしか物事を考えられない。
そんな記述は、当人の目的が自分自身でもわかっていないことも見えるわけ。たとえば戦争において領土を取るんだったら、相手を殲滅する必要はなく、追い出せばいいだけ。
しかし、抑圧的な人間は、憎しみや犯人認定が目的化してしまう。

中国や「韓国の歴史教科書」には、「断固」とか「殲滅」とか、「全部」とか「絶対悪」とか、あるいは「悪辣」とか・・・
なんとも劇場的なまでに強い言葉が踊っています。
それは何よりも自分自身を納得させるための言葉であって、相手に説明し、合意を取るための言葉としては不適でしょ?

自分で行動する場合には、各論的なアプローチが必要になるわけで、逆に言うと、全部とかの包括的なスタンスからは実際の行動につながらないでしょ?
自分では何も行動しないがゆえに、あらゆる不都合な事態が、自分が受けた被害として認識されてしまう。包括的な言葉の頻発は、それだけその人がダメダメになっていることを示しているわけ。

そうやって「全部アイツのせいだ・・・」と恨むだけ。
ダメダメって、ホント、ラクなものなんですね。

(終了)
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発信後記

本文中にも書いていますが、必要以上に強い言葉は、相手に伝えるというよりも、自分自身で勝手に納得するためのもの。
だって、必要以上に強い言葉を「投げつけられても」、その中身を聞き取るよりも、その強い調子にビビるものでしょ?相手を説得するためには、強い言葉は逆効果。

ダメダメな人は、相手に何も言わせないために、そして自分が勝手に納得するために、強い言葉を使って、そして思考停止状態を獲得するわけ。
強い調子の言葉を使うだけでなく、肉体的な手段を用いるようになってしまう。
それこそ、児童虐待でのお約束のセリフ、「懐かないから殴った。」なる言葉になってしまう。

「殴れば懐く」という発想は、常軌を逸しているわけですが、必要以上に強い言葉も、基本的には同じ発想を元にしているわけ。結局は、相手を見ていないし、見たくないんですね。
R.10/12/21