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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(表現と作品 編) |
配信日 | 09年9月12日 |
タイトル | 作品が教えてくれること |
前回配信の文章で、ダメダメ家庭の人間は、「潜在能力に過剰に期待する」ことについて書いております。 潜在能力はいいとして・・・「どうやって、それを顕在化させるのか?」ダメダメな人は、そんな発想がない。そもそも当事者意識がないので、どうしてもやり遂げたいものがない。だから自分の能力が潜在のままでもOKだし、だから、他の人間に対し「誰かワタシの可能性を引き出してくれないかなぁ・・・」と期待しているだけ。常に他力本願なんですね。 あるいは、「とんでもないトラブルが起これば、ワタシの能力も目覚めるはずだ!」などと妄想し、ヘタをすれば、ハルマゲドンのような大きなトラブルを自分たちで起こしたりする。 潜在能力を顕在化させるためには、基本があります。 「とにもかくにも、自分でやってみる。」 身もフタもないほどにシンプルだけど、それしかないわけ。 もちろん、特に最初の頃には、方法論なり技術が未熟だったりして、結果的に「なんじゃこりゃ?!」などと、やった自分が情けなく思えるような出来映えにしかならなくても、とりあえず作ったものそれ自体からわかることも多い。 作品を作ったりする創作者が、「この作品は自分にとって一番愛着がある。」などと言ったりする作品は往々にして初期の作品です。そんな愛着のある作品というものは、「自分にはこのジャンルに、才能があるんだ!」と、作り手である自分自身に教えてくれる作品だったりするもの。 まとまりとか出来映えの面からは多大な問題があっても、その作品の中に、とんでもない原石が多く入っている・・・作った自分が芸術家のはしくれであると、自分が作った作品が教えてくれることになる。 そんな作品に対し、愛着を持ったりするんでしょうね。 19世紀のフランスの作曲家のエクトル・ベルリオーズだと作品5番の「レクイエム」という作品がそれに該当するでしょう。あるいは、ドイツの文豪であるトーマス・マンだったら「ブッテンブロークス家の人々」がそれに該当するのでは?ただ、作者にとって一番愛着がある作品が、それすなわち「一番まとまりのいい」「出来映えのいい」「完成度の高い」作品であるとは言えない。 批評家とかは、その点がわからないので、「彼はこの○○を一番高く評価していた。」とかの文言で解説していたりします。しかし、出来映えと愛着はまったく別ものですよ。むしろズッコケているがゆえに、あるいは、その美点がまだ原石であるがゆえの愛着なんですね。 まったく・・・どうしてこんな簡単なことがわからないんだか?まあ、創作者の基本がわからないからこその研究者とか批評家なんでしょうが・・・ 表現意欲があっても、なかなかそれを形にできない。しかし、とにもかくにも必死に作品を作りあげる・・・その結果として、ズッコケ満載だけと、原石も満載だったりするわけ。 しかし、そのような自分の作品から教えられるような事態も、まずは自分の作品とやらを、作ってみないと話にならないでしょ? 何でも日本のアニメに「涼宮ハルヒの憂鬱」なる作品があるようで、人から紹介されたので、見てみたのですが、まさにそんなことがテーマになっていました。 色々とやりたいことがあるけど、それを形にできない・・・そのいらだちが募ってしまう。 しかし、とにもかくにも、手を付けて、やってみよう! しかし、実際に作ってみたら、目も当てられないほどにズッコケ。 ・・・まあ、それが若さというもの。 私に紹介してくれた人は、その点がわからなかったようですが・・・ まあ、実際に若い人は、若さというものが実感としてはわかりませんよ。若さを失ってから、若さというモノはわかるもの・・・そんなモンでしょ? 未熟とダメダメは違いますよ。ダメダメとは能力の多寡の問題ではなく、発想の方向性の問題です。未熟を恐れていては何もできませんよ。 創作者は、初期には、「自分は創作者なんだ!・・・ただ、今は、まだ未熟なんだけど・・・」と自分の作品から教えられることになる。 そして中期になると、「自分は創作者なんだ!」と宣言するような作品を作ったりするもの。 初期における「自分は創作者なんだ!」は、ある種の発見なのですが、中期における「自分は創作者なんだ!」は、殉教への信仰告白のようなもの。 「どんな苦難があっても、このまま作り続ける!」そんな覚悟を背景にした宣言なんですね。 それこそ、以前にウィーダの「フランダースの犬」という有名な童話に言及したことがありますが、その作品はまさにそんな感じ。 あるいは、フランツ・カフカの有名な「変身」もそんな作品と言えます。 あるいは、イギリスの作曲家のエルガーという人の「エニグマ(=謎)変奏曲」も、まさにそのパターン。作曲家のような創作者にとって、「謎」と言った以上、それは、「創作活動それ自体」であり、「創作する自分自身」である・・・そんなことは分かり切ったことなのに、批評家さんは、そんなこともわからないらしい・・・ まったく・・・どうしてこんな簡単なことがわからないんだか?まさに「謎」ですよ。そんなことがわからないからこその批評家とか演奏家なんでしょうが・・・ 逆にいうと、そんな宣言のような作品を作ったら、その作った創作者が、初期の段階を経て、中期に入ってきたということが、作った作品からわかることになる。 初期においては、自分を見いだし、中期において、それを宣言する。 さて、じゃあ、晩年になると? 晩年の芸術家というと、よく言われるのが、「晩年の憤怒」というヤツ。 それこそベートーヴェンなりミケランジェロなどに典型的に見られるもの。 この「晩年の憤怒」というと、歳を取ったから気が短くなって怒りっぽくなった・・・などと、解説されていたりすることが多いようですが、まったく違っているんですね。一般的には年齢を経るとアタマの働きも鈍くなる。しかし、もともと洞察力のあった人は、それに経験が加わって、更に先まで見えるようになってしまう。 圧倒的な洞察力で、事態がよくわかるけど、その人の周囲にいる人は、そこまでの洞察力がない・・・だから「こんなにはっきりわかることなのに、どうしてコイツはわからないだ?!」と怒ってしまうわけ。 おまけに、当人の残りの時間も限られてくるので、まとめきれないテーマも見えてくる。やっぱりいらだちもありますよ。 しかし、「はっきりと見える」ので、晩年ならではの清涼な心境になったりする。 全部をまとめ切れないと言っても、自分以外の創作者もそうだったこともわかってくる。 自分がそんな先人たちに続くものとして、そして、後に続くものの礎として貢献する・・・そんなことも見えてくる。 「生成すること自体を肯定する」心境になるわけです。 それこそ、チェーホフの「ワーニャおじさん」の中に出て来る医師のアーストロフのような心境。 いわば、人類全体の生成の一部になるという充足感に到達することになる。 しかし、やっぱり、ちょっと横を見ると、周囲の人間は、世を貫く摂理のようなものも見えず、トンチンカンなことをやっている・・・だから、また憤怒を持ってしまう。 芸術家の晩年の憤怒というものは、気の短さとかの問題ではなく、洞察力が周囲の人とかみ合わないことに原因があるわけです。 まったく・・・どうしてこんな簡単なことがわからないんだか?そんなことがわからないからこその批評家とか研究者なんでしょうが・・・ 晩年の芸術家は、心の清明さと、過激な憤怒が交錯しているものでしょ? 逆に言うと、そんな清明さと憤怒が交錯しているような作品を作ったのなら、もう先が長くないわけ。出生から見た年齢はともかく、終わりから見れば晩年なんですね。 このメールマガジンのテーマとは直接関係のない芸術家の話になっておりますが、じゃあ、直接的なテーマであるダメダメ家庭の人間、あるいは、その出身者は、どんな流れを持っているの? 創作者がその活動において、初期、中期、晩年で、それぞれ特徴的な作品を持っていたりするのに対し、ダメダメ家庭の人間は、めりはりがない。 それこそ、子供の頃に「子供体験ができるわけでもない」。 だからこそ、大人になりきれない。 ダメダメ家庭の人間は、子供時代は周囲に配慮した「大人っぽい老成した子供」であり、年齢を経て「子供っぽい未熟な大人」になってしまう。まあ、実際問題として中身はほとんどかわらない。 その点に自覚があればまだしも、自己逃避なので、何も考えずに、結婚し、子供を持ってしまう。 そんな人間ができるのは、子作りだけなので、親になる「覚悟がない」まま、親になってしまう。 未熟なまま親になったので、結局は、子供と同列でケンカしてしまう。「格に対するセンシビリティがない」。 自主制作映画を作って、それが壮大なるズッコケであっても、笑って済む話と言えるでしょう。作品自体に教えられることは最初に書きましたが、子供を作ってから「自分は子育てに不向きだった。」と自覚しても遅いわけでしょ? せめて子供という自分自身の作品が不出来だったら、作者としての自分について考え直してみる・・・そんなことをすればまだしも、当事者意識がないダメダメな親はそんなこともしない。 「ああ!こんな出来の悪い子供を持って、ワタシってなんてかわいそうなんだ?!」と自分を憐れんでいるだけ。そうして、加害者たる子供に復讐するようになってしまう。 あるいは、おなじみの、「社会が悪い!」「時代が悪い!」と抽象的な犯人認定に逃げ込んでしまう。 そんな言葉に対し、「そんなヒドイ時代であることがわかっているのに、どうして子供を作ったの?」なんて素朴な質問をすると逆上するだけ。しかし、そんな素朴な疑問は、何よりも、その人の子供が、親に対して向けているものでしょ? 何も客観的な文章などの、いかにもな作品をつくらなくても、過去に書いたメールの文章でも、それを自分の作品として読み直して見てもいいのでは? 以前にも書きましたが、「オマエの文章が気に入らないから、自分の文章に誤字脱字がいっぱいあることがわかっているけど、校正もせずに、そのまま送りつけてやった!」なるメールの文言がありましたが、そんな文章から見えてくるものは多いでしょ? そんな人が、子供を持ったら、子供とどんなやり取りをするの?子供にわかりやすいような言い回しをするの?そんなわけないでしょ? 自分のメールの文章を第3者的な視点で読み直してみたら、色々と見えてくるものなんですよ。 逆に言うと、これから発生するトラブルも、ある程度は予想できたりする。 あるいは、個人宛のメールの文章を書く際に、それを作品とするくらいの気持ちを込めて書いてみたら?そんな気持の入った文章だと、自分自身についても色々と教えてくれるものなんですよ。 逆に言うと、ダメダメな人は、自分の文章を読み直せない。だから「作品」から、何も得るものがない。 自分が書いた文章と向き合えない人が、自分の子供と向き合えないのは、当然のことでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 購読者の皆様としては、客観的な文章をまとめるのは、あまり縁がないでしょうが、せめてメールの文章でも、あるいはインターネットの掲示板の書き込みの文章でも、それを作品として、第3者的な視点で読み直してみる・・・そうすれば色々とわかるわけです。 逆上メールを送りつけてくるような人も、後になって自分が書いた逆上の文章を読み直してみれば色々とわかるはずです。 まあ、そんな人は、子供を持ってはダメですよ。子供を持つにせよ、まずはちゃんとしたコミュニケーションができるようになってからじゃないの? しかし、スグに逆上する人に限って、「ウチはうまく行っている!」と言っているもの。 そりゃ、そうでしょうヨ。 子供だって自分の目の前で、親がスグに逆上する姿を頻繁に見ているんだから、ビビってしまって、困りごとを親には相談できませんよ。親の前では、常によそ行きの「いい子」を演じないと、どんな目にあうのか? しかし、だからこそ、ドッカーンとなるわけでしょ? ホント、人の文章からは、実に多くのことがわかるものなんですよ。 |
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R.10/12/27 |