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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(表現と作品 編) |
配信日 | 09年9月19日 |
タイトル | 「枕草子」から |
昨日配信の文章では、フランスの作家アンドレ・ジッドの「狭き門」を取り上げました。 人間の心理における「母性の不在」という点について考えた文章です。 このメールマガジンは何も、文芸解説を目的としたものではありませんよ。 ただ、ダメダメ家庭出身の人間は「自分を表現したい!」と強い意志を持ち、そして、一般の人間とは違ったスタイルでものを見ているがゆえに、まさに作品を作ることになる。 そして、ダメダメ家庭の人間にとっての、もっとも切実な現実であり、身近な問題とは、ダメダメ家庭そのもの。だから結果的にダメダメ家庭をテーマとした作品が多く存在することになる。 そんな作品は、ダメダメ家庭を考えるのに、実に有効なんですね。 さて、このメールマガジンで取り上げる作品は、どっちかというとヨーロッパ中心です。あまりアジア重視というわけではありません。この点は何も「脱亜入欧」とかの理念的なものではなく、私にとってヨーロッパの作品の方が理解しやすい・・・という個人的事情があります。 とは言え、私も、せっかく、日本人なんだし・・・ ということで、日本の有名な古典作品の一部から、ダメダメ家庭の問題を切り取ってみましょう。 取り上げる作品は「枕草子」です。あまりに有名な作品でしょ?もちろん、この「枕草子」はダメダメ家庭をテーマとした作品ではありません。ただ、作者の清少納言が目にし、書き残した人物の中にはいかにもなダメダメな人もいたりします。 ということで、「枕草子」の全体を考えるのではなく、その中の第25段の文章の一部を見てみましょう。 ちなみに、取り上げる原文は、 『ものうらやみし、身の上嘆き、人の上言ひ、露塵のこともゆかしがり、聞かまほしうして、言ひ知らせぬをば怨じ、そしり、また、わづかに聞き得たることをば、我もとより知りたることのやうに、異人にも語りしらぶるも、いとにくし。』 これを角川ソフィア文庫に載っていた現代語訳だと、 「なんでもかんでも人のことをうらやましがり、自分の身の上をこぼし、人のうわさ話が大好きで、ほんのつまらないことでも知りたがり、聞きたがって、話してやらないと恨んだり文句を言ったりする。またほんの聞きかじっただけのことを、もともと知っていたことのように人に話すのも、本当に腹立たしい。」 原文はともかく、上記の現代語訳をお読みになった購読者さんの中で、具体的な顔が浮かんだ人もいらっしゃるのでは? 「あれっ?あの○○さん・・・見た目には、40歳くらいかなと思っていたけど・・・枕草子に記述があるということは、千年前から生きているのかぁ・・・長生きだなぁ・・・」なんて思った人もいたかも?あるいは、「もしかしたら、ワタシの母親は、ここで書かれた人の子孫なのかも?」と思った人もいたかも? まさに「いかにも」なダメダメでしょ? さて、清少納言が指摘している、様々な「にくし」ですが、今までこのメールマガジンで取り上げて来た項目だと、 『ものうらやみし』(なんでもかんでも人のことをうらましがり) 『身の上嘆き』(自分の身の上をこぼし) 『露塵のこともゆかしがり』(人のうわさ話が大好きで) 『聞かまほしうして』(ほんのつまらないことでも知りたがり) 『言ひ知らせぬをば怨じ』(話してやらないと恨んだり文句を言ったりする) 『我もとより知りたることのやうに』(もともと知っていたことのように人に話す) そりゃ、まあ、「いとにくし」とでも言いたくなりますよね? あるいは、よりくだけた言い回しだと「鬱陶しい」という言葉でもいいでしょう。 ちなみに、この清少納言のライヴァルの紫式部が「もののあはれ」という情緒的な発想を基本としているのに対し、清少納言は「をかし」という鋭角的な知性や感性を特徴としている・・・そのことは、よく言われていること。 清少納言は、才気煥発でちょっとエキセントリック。どっちかというと、日本人的ではない人といえるでしょう。日本だって、いつの時代にも、そんな変わり者がいたりするんでしょうね。鋭い観察眼と筆致で、鮮やかに描き出している彼女の文章は、あまり日本人的ではない。 上記の清少納言の指摘をお読みになった方は、「おお!まさに今現在のダメダメとまったく同じじゃないの?!」とビックリしたでしょ?平安時代だからといって、壮麗なダメダメが王朝絵巻のように、絢爛豪華に繰り広げられるわけでもない。平安時代も21世紀の今も、ダメダメはやっぱりダメダメ。 ダメダメ家庭の事件があったりすると、よく「時代が悪い」なる言葉をスグに持ち出す人がいますよね? あるいは、「現代社会の病理」とかのもっともらしい言葉を使いたがるもの。 しかし、1000年前の人間と、今現在の我々とほとんど同じなんだから、時代が悪いもヘチマもありませんよ。それこそ、イジメの問題だって、「源氏物語」にその描写が出て来るじゃないの?今に始まった問題ではないわけ。 しかし、現実から逃避するダメダメ人間は、それこそ「陰謀史観」などをもっともらしく持ち出し、自分たちが被害者であるという壮大な体系を語ったりするもの。 闇にうごめく陰謀に思いを巡らすのは勝手ですが、「枕草子」に書いてあるような平安時代のダメダメが、ユダヤ人の陰謀だとでも言うの? しかし、ダメダメ人間にはグチへの渇望がある。 そして「自分のグチに付き合ってくれる環境」を求めるもの。 結局は、「あ〜あ、悪い時代だなぁ・・・」とか「あの○○のせいで・・・」と言っているだけで終わってしまう。 時代が悪いも何も、清少納言が「にくし」と指摘したタイプの人間が、子供を持って子育てしたら、その子供はどうなってしまうの?平安時代だったら、マトモに育つの?現代だからダメダメになるの?そんなわけないでしょ?あるいは、そんな「にくし」の人間はどんな家庭環境で育ったの? そんなところから色々と見えてくるでしょ? 清少納言が「にくし」と指摘したタイプの人間が親になると、ダメダメ家庭になるのは確実。 じゃあ、清少納言本人が子育てをしたら? この場合も、ちょっと問題ありそう・・・ 子供が親に対して何か言っても、バッサリと一刀両断されてしまいそう・・・ それが単なる問答無用の権威主義だったらともかく、知的にも感性的にも、より高い次元からの指摘なんだから、子供にとってはタチが悪い。 子供としては、どんなに努力しても、とてもかなわないでしょう。 まあ、「ソツがない」親の極致になりそうでしょ? 清少納言は女性的であっても、母性的とはいえない。 ちょっとでも弱みを見せると、そこを決して見逃さないだけの眼力もある。 それを的確に分析し、完璧に表現してしまう。そんな人は、距離をおいて、やり取りするのは実に役に立つ人間であっても、顔を合わせて安らげるタイプではないんですね。 知性も感性も過ぎたると厄介なことが発生する。そんな過ぎたるパターンも、今も昔も存在するでしょ?もちろん、過ぎたるがゆえに、問題になるよりも、知性なり感性が欠如しているがゆえに、問題になるケースがダメダメの主流なのも、昔も今も変わらない。 時代が悪いとか、現代社会の病理とかの言葉を使いたがる人は、逆に言うと、その人の知性の欠如と、教養の欠如を自分で説明しているようなもの。 清少納言だったら、そんな人を、どう評するのか? 「○○○○○」に当てはまる文字を入れなさい。 ・・・って、古典の問題にもできそうですよね? (終了) *************************************************** 発信後記 昨日取り上げたアンドレ・ジッドですが・・・ あの「狭き門」でのキャラクターは、ジッド本人とかなり関係が深いとのこと。 実際にジッドは、2歳年上の従姉妹さんと結婚しました。 ジッド本人も過度なモラリスト傾向を持ち、「女性というものがわかっていない」人。 ジッドさんは「良家の女性はエッチなことは考えないものだ。」・・・そんな感じで思っていたそう。 ということで、フィアンセとも結婚前は「清く正しい」おつきあい。 そして、結婚後も、やっぱり「清く正しい」おつきあい・・・まあ、キスくらいはあったかもしれませんが、それ以上はない夫婦生活だったそう。 「オトコの人はエッチな目でワタシたちを見て・・・いやらしい・・・」なんていう女性からのクレームがありますが、まったくそういう目で見ないパターンもあるわけ。実体を見るのではなく、まさに概念と言葉によって見てしまうわけです。 そのような「清く正しい」姿勢は、ある種の恐怖心からも来ているでしょうね。 近づくことによって、相手の現実を見たくない。 そして、自分の現実を見せたくない。 ある種の決まり事で片が付くような距離感を保っていたい。 一番、大切な人だからこそ、遠くの距離から、腫れ物に触るように、関わることになる。 「清く正しい」というのは、そんな現実への恐怖心が見えるものなんですよ。 ジッドは自分自身をみつめ、それを自覚していたからこそ、作品としてまとめることができたわけです。 |
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R.10/12/27 |