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カテゴリー ダメダメ土曜講座(発想と視点編)
配信日 10年1月16日
タイトル 恵まなくっちゃ!
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は日本語の文章です。
そんなことはちょっと見れば誰でもわかる当然のこと。
だから日本語の表現のグラディエーションの違いなども、こだわったりします。
それこそ、上記の「当然」という言葉ですが、以前にも書きましたが、江戸時代のオバカさんが、間違って「当前」と書いてしまい、それを別のオバカさんが「あたりまえ」と読んでしまって、「当たり前」という言葉ができました。
だから「当然」という言葉と「当たり前」という言葉は、意味は同じでも雰囲気が違ったりするもの。「当たり前」という言葉を聞いた段階で、どっちかと言うと、くだけた雰囲気になるでしょ?

さて、その「言葉を聞く」の「聞く」も、ちょっと違った文字を使って「聴く」と書く場合もありますよね?
「聞く」と「聴く」は、意味的にちょっと違う。
英語になると「聞く」は「listen」に近く、「聴く」となると「hear」に近いのでは?

「聞く」となると、「人の話などから意味を聞き取る」というニュアンスが強くなるでしょ?「意味を聞き取る」の「聞く」は、「聴く」という字は使わない。それに対し「聴く」となると、意味というよりも音響的なニュアンスが強くなる。
「鳥の羽ばたきの音を聴く」そんな文章における「聴く」は、「聞く」の字は使わない。

両極端だったら、使う字の選択も簡単と言えます。
しかし、世の中はそんな両極端なケースばかりではない。
たとえば、鳥の羽ばたきの音だったら、まあ、「聴く」となるわけですが、鳥の鳴き声だったら、グレーゾーンに入ってくる。その場合でも、一般的には「聴く」の方でしょう。しかし、鳥の鳴き声ではなく、鳥のさえずりだったら?あるいは、鳥の歌声だったら?
一般的には、「聴く」の字を使うでしょうが、それくらいのグレーゾーンだったら、敢えて「聞く」の字を使うケースも許されるでしょう。

そうなると、鳥の問題というよりも、鳥と人間の関係性に依存することになる。
一般人は鳥の歌声を「聴いて」、鳥と会話したとされるアッシジの聖フランチェスコだったら、鳥の歌を「聞く」になったりするのでは?

あるいは、人とのやり取りにおいても、一般的には「聞く」となるわけですが、言葉による会話だったらともかく、じゃあ、人の歌はどっち?「聞く」なの?「聴く」なの?歌だけでなく、それこそピアノのような楽器のケースもある。そんな楽器の場合でも、意味的に聞き取ろうとするんだったら、やっぱり「聞く」でしょうし、ピアノの音を音響的に受け取っているんだったら、その場合は「聴く」となるでしょう。
もし、人の歌を「聞いて」いて、途中でハミングになったら、その部分は「聴く」になるの?
細かく考えると、単純には行かない。

そんなことはダメダメ家庭の問題とは関係ないじゃないの?
そう思われるのは当然でしょう。まあ、飲み屋さんでのネタにでもしてくださいな。
実は、以前に、そんなことでモメたことがあるんですよ。
私はかなり意識的に「聞く」の方の字を使っています。いわば意味を受け取とろうとする態度を重視しています。それについては、購読者の皆さんも、納得されるでしょ?
私はかなり意識的に「聞く」の字を使っているのですが、それに対し指摘のご意見が入ったことがあるんです。音楽での「きく」は、「聞く」ではなく、「聴く」の字を使うべきじゃないか!
・・・まあ、そんな感じ。

その人は、音楽大学の出身の方で・・・まさに音響を制作していた方といえるでしょう。
しかし、音楽は、というか音楽作品は、音響だけではなく、音を使ってのロジックとも言えるでしょ?そんな観点で音楽を受け取っている人間にしてみれば、ピアノの音楽を「聞く」になりますよ。
逆に言うと、「聴く」で安住している人の作り出す音楽なんて、「きれいな音だなぁ・・・」で終わってしまうのでは?
音楽だって、作曲家の苦悩なり、認識の反映でしょ?聞き手としてそんな作曲者の意図を理解するのが本来の「リスナー」というものなのでは?
私が使っていた「聞く」という字を「聴く」に修正しようとしたので、私としては「まあ、アンタにしてみれば、音楽も音とまりだろうね。だから『聴く』なんだろうな。しかし、巨匠の作り出す音楽だったら、『聞く』になるんだよ!」と思ってしまう。まあ、思っただけで言葉にはしなかったんですが、露骨に顔の表情に出ちゃうと、やっぱりモメることになる。

前にも書きましたが、私としては、相手の意向をちゃんと受け止めた上で、それを踏まえて対応する・・・そんな会話の精神を重要視しています。
そして、そんな態度が不全になっている家庭が、ダメダメ家庭。
まさに話の声は聴いても、内容は聞いていない。

いわば音響次元で、相手に合わせているだけで、中身は聞いていない。
ただ「人に合わせている」だけ。
そんな感じで、「人に合わせている」だけなので、意見の対立が起こってしまうと、困ってしまう。
相反するどっちの言葉に合わせていいのか、「ちょっとしたパニック」に陥ってしまう。

まさに、「あちらを立てれば、こちらが立たず、こちらを立てれば・・・」となってしまう。
本来なら、「どっちの側を立てるのか?」という問題ではなく、「自分はどう考えるのか?」という問題でしょ?しかし、人に合わせているだけなので、「どっちの側に合わせればいいのか?」でパニックになるわけ。

だからこそ、意見の対立とか認識の対立とかの事態はできるだけ避けたい。
本来なら異なった意見がぶつかったら、それぞれの見解の説明を「聞き」、それを理解し、自分なりに判断すればいいだけなんですが、抑圧的なダメダメ人間にはそれが心理的にできない。
そもそも人からの説明を受けることにも心理的にプレッシャーを感じるし、自分なりに判断することも心理的なプレッシャーを持ってしまう。

結局は、意見が対立する事態そのものを避けようとする。
まさに、「人に言わせないようにする」わけです。
その方法の一つとして、「逆らったら怖い姿」を見せ付けておくことで、その場の人たちがフランクに意見を言わなくなるような強圧的な雰囲気を作ろうとする。

そうなると、その場の参加者の側が、上の立場の存在の見解に従い、とにもかくにも合わせるようになり、意見の対立が起こらない。いわば独裁による管理となる。
ちなみに、民主党の小沢さんがまさにそのパターンでしょ?

意見の対立が起こらないようにする・・・そのためには前記の独裁的な管理の手法だけでなく、もっと「人に優しい」管理のパターンもあります。

以前にエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を紹介した際に、「サディズム」の記述を紹介いたしました。
サディズムは、いわば支配欲であり、その支配体制を確立するためには、一般的には暴力的で強圧的な手法が有効になるわけですが、そんな暴力的なサディズム以外にも、たとえば「何かを恵んでやる」という手法を使った「優しい」サディズムもあるわけです。
暴力的だろうが、人に優しいスタイルであろうが、「相手を支配下におきたい。」という心理は同じなんですね。
優しいサディズムだと、このメールマガジンで頻繁に触れておりますボランティアの連中がその代表といえます。

ボランティアが見せる「人に対する優しさ」も、サディズムの方法論に過ぎないわけで、だからこそ、ボランティアの連中は都合が悪くなると、逆切れして、暴力的になったりするでしょ?そんなことは、外面の問題ではなく、内面にあるサディズムから見てみると、むしろ一貫性のある行為といえます。

このメールマガジンで頻繁に言及しておりますが、「恵む」という行為は、心理的には支配欲につながるケースが多い。
そして、その支配欲は、その根本として自己逃避から来ている。
自分自身でやりたいものがないので、他者との関係性を構築することを目標としてしまう。
というよりも、自分自身を見つめるのが怖いので、支配欲に逃げ込んでしまう。

そして、関係性と言っても、支配する側となることは、支配下の存在に有無を言わせないようにできるわけだから、意見の対立が発生してパニックとなった経験を持つものにしてみれば、きわめて甘美なものなんですね。
ヘンな言い方をすると、「人に合わせる」ことしかできないがゆえに、人を支配しようとするわけです。

ある人が集団のリーダーとなっている状況を考えるにあたっても、その人が自信があり、能力があり、リーダーシップがあるから、結果的に上の立場に立っているというよりも、上の立場にたって、皆を黙らせないと、自分がパニックになってしまう・・・そんな恐怖感から来ているパターンも現実にあるわけです。
「自分が仕切らないと、マズイ!」と切羽詰っているがゆえに、リーダーになろうとするわけです。

そんな恐怖感を背景にしているので、「恵む」という行為も、「恵まなくっちゃ!」という強迫的な色彩を帯びることになる。
「アイツらに恵んで手なずけておかないと、もし、銘々が勝手なことを言い出すような事態になったら、ボクはパニックになってしまう・・・」そんな恐怖感があるんですね。

恵んであげていれば、相手が何かを言ってきても、「恵んであげている立場」を利用して黙らせることができる。
まさに「おいおい!これをアゲルから、ちょっとおとなしくしてなよ!」と言えるでしょ?
それに、自分が恵んであげている立場であれば、何か不都合なことがあっても、スグに逃げられる。「おいおい!これをアゲルから、後は君たちでなんとかしなさい!じゃあ、ボクは失礼するから・・・」と言えるでしょ?だから意見が対立する事態は「見なくてもいい」。
困った事態は見なくても済む・・・そんなシステムというか関係性を確立しておきたい。

相手を黙らせることができないと、意見が相違する事態が発生し、それは心理的に耐えられない。
意見の違いを認めた上で、自分の考えを説明し、「合意を取る」能力がない。
だからこそ「反論させない」「言わせない」雰囲気を作りたい。

独裁的な体制を確立し、強圧的に言わせないパターンもあるわけですが、恵んでやるという立場を持っていれば、相手は言ってこないし、何かを言ってきたら、また恵んでやればいいだけ。
逆に言うと、そんな体制がないと、心理的な恐怖にさいなまれるわけです。
現在の首相の鳩山さんなんて、まさに絵に描いたようにそのパターンでしょ?
余裕があるから恵むのではなく、「頼む!頼むよ!ボクちゃんが、アイツらに対して恵むようにさせてくれ!」・・・もはや、そんな切羽詰った感じでしょ?その必死さは、心理的な恐怖心に由来しているわけです。ヘンな話になりますが、恵むという立場を得られないと、逆切れするような雰囲気となっている。

その手の人は、本質的な意味で合意を取る能力も発想もない。
強圧的なスタイルなり、人に優しいスタイルなりの違いはあっても、自分が要求すれば、相手が黙ってくれるというシステムにしなくては怖い。
合意を志向しているのではなく、別の言い方をすると、人が自分と同じ見解を持つことを求めているのではなく、人が自分と同じ見解を持っていると「見える」ようにしたいだけ。

だから必死にその場を仕切ろうとする
だから仕切る立場を得ることにこだわる
だからこそ、ますます「恵まなくっちゃ!」と強迫的に思ってしまっている。

その手の人は、仕切ることができて、命令することができても、認識し、判断し、説明し、合意を取る能力はない。
ちなみに、何も民主党の小沢さんなり鳩山さんだけの問題ではありません。
それこそ前首相の「麻生さん」もそんなところがあったでしょ?

恵むという行為は、一般的には精神的な余裕の反映と思われるでしょうが、心理的な恐怖が反映している場合も多いわけです。そして、そんな人ほど、「恵んでやった!」と恩を着せようとするもの。所詮は自分自身でやりたいことがなく、支配欲に逃げこんでいる。人に恵み、支配することが目的化されているので、その関係性が崩れそうになると逆切れすることになる。

言葉を使ってのやり取りにおいて、2000年前の人も「アイツらは人の話をきいていても、中身なんて何もわかっちゃいない!」と言っていますよね?人間というものは、昔からそんなところがある。
ただ、抑圧的な人は、話をきき、内容を理解することについて、知的な能力の問題というよりも、心理的に怖がっているわけです。
恐怖を基にしているから、ちょっとのトリガーがあると、逆上してしまう。

実際に、先日あった、大阪の羽曳野の事件では犯人の男性は、狩の獲物をよく「おすそ分け」していたそうですが、本来ならその段階で注意しておく必要があるわけです。
狩の獲物をおすそ分けなんて、サディズムという観点から見てみると、実に理解しやすいでしょ?そして、その後の結果も含めてね。

(終了)
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発信後記

何度も書きますが、私の文章は政治的な方向性について考えたものではありません。
考えるとしたら政治家の心理の方向性です。

鳩山さんも、小沢さんも、異なった意見が出てくるとパニックになってしまう・・・そんな観点で彼らを見てみると、意外にも一貫性が見えてくるはずです。
だから先送りとか逆上が多くなる。
意見の違いを見ないという対処しかできないわけ。

このような点は、金曜日の文章にも書きましたがクレーマーなどにもあったりします。
抑圧的なダメダメ人間にはポピュラーなパターンなんですよ。
皆さんも注意していてくださいな。
 R.10/12/31