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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(事件・トラブル編) |
配信日 | 09年6月13日 |
タイトル | 京都教育大学集団陵辱事件 |
先日(09年)、京都で、京都教育大学の学生さん・・・体育教師のコースとのこと・・・が、お仲間というか「ご学友」の女性を陵辱したとのニュースがありました。 大学側は、「教育的配慮」とかで、その陵辱した学生を停学処分して、今後は、加害者の学生の更正に当たっていく・・・とか。 そして、「そんな人権侵害が二度と起こらないように指導したい。」との、お約束のコメント。 さて、大学側は、このような人権侵害問題は・・・などとのコメントですが、この「人権」という言葉は、いわば思考停止の人間のお約束の用語といえます。 これ言っておけば、誰からも突っ込まれないだろう・・・ そんな心情が見えてくるもの。 幕を引く時には、よく使われる用語なんですね。別の言い方をすると「捨てセリフ」のようなもの。 「もうっ、わかった!わかったから、もう、何も言うなよ!」 言語的な意味はともかく、人権という言葉には、そんな心理的な意味があったりするもの。 いわば「全面降伏」するから、もう何も言わないでよ!と主張しているわけ。 それに「教育的配慮」って・・・具体的に何? まあ、建前上、教育的配慮という用語は使っていますが、京都なんだから、実質的には、民族的配慮だったり、宗教的配慮だったり、あるいは出身地的配慮だったり、あるいは政治家的配慮でしょう。 今回の事件の関係者に、その類のアンタッチャブルな人がいるんでしょうね。 その種のアンタッチャブルな人は、「被害者信念」があり、「自分が一番かわいそうな人間なんだから、他の人間には何をやってもいいんだ!」と思っている。 そして、その種の人たちは、「被差別意識」が強く、スグに「ワタシたちは差別されている!」と大騒ぎするもの。 そんな感じで騒いだりすると、人権団体が寄ってきて大合唱。 しかし、そんなことだから、まさに今回の事件のように人権侵害事件が起こるんですよ。 「京都だから、家柄的なアンタッチャブルの可能性もあるのでは?」とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、そんな家柄の人は、京都教育大学には行かないのでは? いずれにせよ、多くのアンタッチャブルが絡み合っていて、実に面倒なので、学校関係者としてはなかったことにしてしまいたい・・・それが本音でしょうね。 さて、陵辱事件を人権侵害と表現してしまうのは、間違いではないにせよ、議論が進まない。京都というと、以前に京都大学のアメフト部の学生が、やっぱり陵辱事件をやっています。「罪の意識」というお題の文章の中で触れております。 その折にも書きましたが、何も無理強いしなくても、合意をとればいいだけ。 体育系の学生らしく、一発芸でもやって雰囲気を作ればいいじゃないの? あるいは、陵辱行為にせよ、飲み屋さんで新人学生を集団で・・・というのもヘンでしょ? 陵辱行為なら、対象者は、知らない女性にするのでは?夜道で知らない女性を襲う・・・それが、そんな行為のパターンじゃないの?顔見知りを陵辱するなんて、陵辱の主流から外れていますよ。顔見知りを陵辱するにせよ、「もう2度と顔を合わせない。」という付帯条件が重なるからできるんじゃないの?そんな陵辱行為をして、次の日にどんな感じで顔を合わせたの?あるいは、教員養成の大学なんだから、基本的には関係者の皆さんは教員になるんでしょ?大学卒業後も、ずっと顔を合わせていく関係でしょ? 「いやぁ・・・あの時は盛り上がったな!オマエの泣き叫ぶ声で大盛り上がりだったよ!」20年後になって、そんな感じでその女性に対しニコニコと語りかけるの? 陵辱行為そのものよりも、その後の状況の方が異常ですよ。 それは倫理的な問題というよりも、心理的な問題でしょ? 陵辱行為をしたいのなら、せめて見知らぬ女性にするのでは?それだったら確かに人権なり倫理的な問題ですよ。一般的には、男女間で深い関係になったのなら、たとえ円満な関係であって、そして円満に別れたとしても、後で顔を合わせると気まずい・・・それが人間というものでは? ホント、陵辱行為をした男子生徒も、どういう神経で、次の日に女性学生と顔を合わせたんだろう?逆に言うと、だからこそ、男子生徒も合意があったと主張し、学校側も、「公然わいせつ」と主張したんでしょうね。「公然わいせつ」ということなら、アダルトヴィデオの撮影と同じ感覚。しかし、女子学生に合意があったのなら、場所を変えるでしょうし、集団で・・・とはならないでしょう。また、後になって訴えたりはしないでしょう。 色々と書いてきましたが、この陵辱事件は、性行為を主目的としたものと見ると、まったくわからない。被害者の女子学生も、「コイツら・・・いったい、何を考え、どんな神経をしているんだ?」と、その点に恐怖を感じ、警察に駆け込んだのでは? さて、その「何を考え・・・」についてですが、このメールマガジンで頻繁に書いていますが、大きな事件があった際には、その事件そのものに注目する人が多いわけですが、大きな事件の主な要因となっているものは、「事件前と事件後」で変わっていないもの。 事件の前も後も、その人の本質的なものは、変わらない。そしてその本質的なものが、事件を引き起こす。 ただ、変わらないがゆえに、当人にとっても、周囲にとっても見えないわけ。 さて、今回は教員養成の大学ということなので、卒業後は教員になるんでしょう。 じゃあ、教員って、何? それについては、こんな言い方ができるでしょ? 「クラスの支配者」 支配者という用語は、ちょっと強すぎる用語と言えますが、まあ、現実的にそう言ってもいいでしょ? ただ、支配者であっても、本来は、そこに統治者という面が強くあるもの。 クラスを統治する、それが、教員の役目といえるでしょう。 しかし、ダメダメ人間は、統治という面が喪失し、むき出しの「支配・被支配の関係」に持ち込もうとするわけ。 クラスを円滑に統治するのが目的ではなく、クラスを支配するのが、目的化されてしまう。 そして、そんな関係の構築を目的としているので、その「関係性」を相互で確認する儀式が要請されるもの。 ここで、教員と生徒の間だったら、「どっちが支配者か?」という問題は発生しない。 しかし、新たに加入してくる同類の人間に対しては、「どっちが支配者で、どっちが被支配者なのか?」と確認する必要があるわけ。 今回の陵辱行為も、「どっちが支配者なのか?」を確認する儀式と見ると、すんなり理解できるもの。それこそ、ニホンザルにおいて、上の序列のお猿さんが、下の序列のお猿さんに「乗っかる」ことでお互いの序列を確認し合うマウンティング行為と、色々と、同じ。 支配・被支配という視点で、他者を見る類の人間にしてみれば、その種の行為は、不思議でもなんでもないわけ。支配関係の確立が主目的だからこそ、今後も付き合っていく女性に対して、行うことになる。だって、今回の陵辱行為は、今後の関係性を確定するための行為なんですからね。 新しく加入してくるメンバーに対して、一緒に儀式を行う・・・一緒に痛みを感じ、試練をくぐり抜け、一緒に何かを達成する・・・それは、いわゆる通過儀礼というもの。それこそバンジージャンプのような例もあるでしょ? 一般的な新人歓迎コンパも、そんな通過儀礼の一種でしょうし、それはある面において必要なもの。 通過儀礼というものは、新しい加入者に対する試練であり、感情の共有なので、当然のこととして参加者の興奮状態を呼び起こす。 あまり無分別にやると、今回のように、とんでもない事態になってしまう。 だからこそ、通過儀礼を挙行する際には、年長者が管理しているもの。それはどんな世界でも、そうなっているでしょ? 通過儀礼をする際には、しきたりとかそれまでのノウハウを生かして、その儀礼の儀式が心理的に充実したものになるように、そしてカタストロフを引き起こさないように、年長者が計画し、配慮し、監督する・・・ そんなシステムを、別の言い方をすると、どういうの? まさに「教育」でしょ? 今回の事件を受けて、大学側は、学生の更正に当たる・・・などと言っているようですが、たとえ更正をさせようとしても、本当に更正させるくらいの能力のある指導者なら、事件前の予兆の段階で対処していますよ。 小さな予兆を見逃したからこそ、大きな事件になったのであって、そんな小さな予兆を見逃すような愚鈍な人間は、更正の指導なんて無理ですよ。 まさに「京都における事件を題材した小説」の中の「鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血が流れたときは、悲劇は終わってしまったあとなのである。」そのもの。 今回の陵辱事件を倫理的に考えると、何も知見は得られない。その心理の面から考えると色々と見えてくるわけです。 ただ、支配者というものは、相手の気持ちなど考える必要はない。そんな人間なんだから、考えたとしても、どうせ有効な結論にはならないでしょうね。そして、そんな人だからこそ、支配者になりたいがために、教員を目指す・・・それもまた現実というもの。 教員という稼業も、陵辱という行為も、「支配を目指す心理」という点においては共通しているわけです。 ちなみに、後日談的になりますが、何でも、この事件について、例のmixiにコメントを書き込んだ学生さんがいたそう。 「あの女も悪い・・・」とか・・・ そんなコメントを書き込んだ人は、立命館大学とか桃山学院大学とか、仏教大学とか、大阪体育大学とか、ご本尊の京都教育大学の学生とのこと。 桃山って、安土桃山だから、きっと京都の大学でしょうね。 陵辱事件の男子学生への擁護のコメントを書き込むのは、まあ、いいとして、どうして関西の学生ばかりなの?mixiって、地域限定のサイトなの? まあ、関西という場所が、陵辱行為に対して、理解があるということなんでしょうね。 それにダメダメ人間には、ある種「不幸競争」のような心理があって、 被害者を見ると、「ワタシの方がもっとかわいそうなのに・・・」という自分自身の被害者意識が刺激されてしまう。だから、「被害者に対して、対抗心を持ったり」するわけ。 それとも、書き込んだ人は、加害者男子学生と、同じアンタッチャブル集団に属しているのかな?ちなみに上記の仏教大学の学生は、福祉学部の学生とのこと。序列意識が強いダメダメ人間は、介護とかの「恵んでやる」立場に立ちたがることは、以前に配信しております。その点は、まさに教員と同じ。 今回の事件を人権侵害と表現している段階で、しっかり考える意欲のなさが見えるわけですし、人権侵害問題といっていると、別の「人権」が登場して、「どっちがかわいそうなのか?」「どっちが侵害されているのか?」という議論に堕してしまう。だから何も改善しない。 今回の被害者の女子学生さんにはお気の毒ですが、「ワタシは悪くない!」と主張しているだけでは、結局は、加害者の人たちと、心理的には同じになってしまう。そんなところから一刻でも早く避難するのが現実的な対応なんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 今回のような陵辱行為を、「人の道」に反していると断罪するのは簡単ですが、それだけでは今回の事件は理解できないわけ。 本文中にも書きましが、これからも付き合っていく相手を陵辱するのは、「人の道」どころか「陵辱の道」にも反していますよ。 それに、男性が集団で、一人の女性を陵辱というのも、ある意味においてヘン。 一般的にオスというものは、集団で、メスと行為に及ぶということはないでしょ? これは、哺乳類だけでなく、それこそ爬虫類とか魚類でもそうでしょ?というか昆虫でもそうじゃないの? 自分の遺伝子を残すというオスの本能を考えれば、オスが集団で、一人のメスと一度に行為に及ぶのは、効率が悪い。 たとえ妊娠したとしても、それが自分の遺伝子を継いだものなのか、わからない。 一匹のオスが、多数のメスを相手に行為に及ぶ・・・というのなら、それはオスの本能とも言えるでしょう。しかし、多数のオスがどうして一度に一人のメスと行為をするの? つまり、そんな行為は、「オスの道」のも反しているわけ。 今回のような鬼畜がかった事件があると「ケダモノ!」などと罵倒する人もいるかもしれませんが、ある意味においてケダモノはそんな不合理なことはしないわけ。 今回の事件は、まさに人間の心理の事件なんですね。 |
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R.10/12/22 |