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カテゴリー ダメダメ人間の自己逃避
配信日 07年12月21日
タイトル 自己逃避としての宗教
以前に、このメールマガジンで「敬虔なクリスチャン」というお題で配信したことがあります。日本のダメダメ家庭出身者の中で、「恋に恋する」ようにキリスト教に逃げ込む人がいたりする。宗教的な祈りは祈りでいいとして、「ワタシって、敬虔なクリスチャンよ!」とわざわざ周囲に見せようとすることになる。そして、その敬虔な自分の姿に、自分を正当化することになる。
しかし、キリストだって言っているじゃないですか?「祈りは、人に見せるためにするものではない。だから祈る時には、人に見られないように隠れて祈れ!」ってね。

しかし、周囲に「ワタシは敬虔なクリスチャンよ!」と見せ付けておくと、色々と都合がいい。何かトラブルがあっても、「いつも祈りを欠かさない、こんなに立派なクリスチャンのワタシなのに・・・どうしてこんなことに?!ああ!ワタシってなんてかわいそうなの?!」とお約束のグチを言っていればいいだけ。

さて、その折には、「クリスチャン」と概括的に書きましたが、日本の、ダメダメ家庭で実によく登場してくるのは、クリスチャンの中でも、カトリックの方です。プロテスタントの方は、それほど頻繁にダメダメ業界では登場してきません。まあ、ギリシャ正教は・・・そもそも日本では極小数派。現実的に言うと、カトリックとダメダメは親和性が高いものなんですね。

実際に、この私に逆上メールを送りつけて来た方にもカトリックの関係者がいました。「なぜ、そんなことがわかるんだ?」と思われるでしょうが、逆上メールは、まさに「我を忘れてしまう」状態と言えますから、送り主のプライヴァシーが駄々漏れのケースも多いんですよ。
あるいは、逆上ではなくても、カトリックの洗礼を受けたダメダメ家庭出身の方からのお便りを頂戴したことがあります。

ダメダメ家庭についての文章を書いているこの私としては、「日本って、カトリックの人が多いんだなぁ・・・」と思ってしまう。しかし、日本では、一般的にはカトリックの人たちはそんな密度が濃い状態ではないでしょ?このような点は、先日ちょっと書きました、「3人の子供」と似ている。ダメダメ家庭の周囲には、子供が3人というケースが多い。ダメダメ家庭というものは一般の家庭よりも、はるかに高い頻度で、3人の子供の家庭なんですね。

さて、「敬虔なクリスチャン」という文章においては、クリスチャンという概括的な表現になっていたのは、まあ、諸般の事情もあります。了解はいただきましたが、人から聞いた言葉を使っているし・・・あと、「では、何故にプロテスタントではなくカトリックなのか?」その点が、この私にも見えていなかったという点もあります。

私はクリスチャンではないので、カトリックとプロテスタントの違いなんてよくわからない。もちろん、プロテスタントの発端となったマルティン・ルターの主張くらいは知っています。堕落していた当時のカトリック宗教界に対して、「聖書に立ち返ろう!」と呼びかけた・・・そんなものですよね?聖書に立ち返る必要を訴えたから、副次的に印刷技術の発展を促して・・・文化の発展にも貢献することになる。まあ、それはいいとして・・・
「一人ひとりが、聖書を読もうじゃないか!」
ルターにはそんな主張があったわけでしょ?

一人ひとりが、聖書を読んで、そして自分で考える・・・プロテスタントには、そんなところが、まだ、残っているのかも?
それに対し、カトリックの側は、「教え」を「学ぶ」という教条的なスタイルが強いのかも?
カトリックの人による逆上を、身を持って体験もしましたので、このようなカトリックの問題は、常に私の頭の中にありました。この「教え」を「学ぶ」というカトリックのスタイルが、ダメダメにつながるのでは?

この「学ぶ」という言葉についても、以前に取り上げたことがあります。ダメダメ家庭の人間は、この「学ぶ」という言葉を使いたがる。自分で「考える」ことから逃避して、権威筋からご高説を、「学び」たがるわけ。「学ぶ」わけだから、自分で考えなくてもいいし、何かトラブルがあっても、「だってぇ・・・ワタシは言われたことをやっただけだもん!」「ワタシは悪くないわ!」となる。
「学ぶ」という言葉はカルトの領域では実に頻繁に登場してくる言葉です。政治的なカルトなり、宗教的なカルトなり、あるいはパソコンのOSのLINUX使いのような技術的なカルトでも、「学ぶ」という言葉が飛び交っているでしょ?「考える」のではなく「学ぶ」に徹するのは、ダメダメには都合がいいわけ。

聖書を読んで自分で考える面が残っているプロテスタントよりも、「教え」を「学ぶ」スタイルが強いカトリックの方が、ダメダメな人間には居心地がいい。
ダメダメな人間に居心地がいいと、そんなダメダメ人間が集まってきてしまって、まさにダメダメのスパイラルが進行することになる。信徒だけではなく「プロのカトリック」の人も、そんなメンタリティーを持っている可能性が強いでしょ?神父からして、自分で考えないで学ぶだけ。そして問答無用に「教え」を説教するだけ。

「学ぶ」だけで「考えない」から、自分の眼前にどんな困った人がいても、知らん顔。
「だってぇ・・・教えられたこと以外はする必要もないじゃないのぉ・・・」
「教え」を「学ぶ」というスタイルから、自己逃避なり思考停止状態を獲得できることになる。

さて、先日の長崎県での発砲事件ですが・・・
前に書きました、思考停止なり自己逃避の典型ですよね?

私が今回の文章で焦点を当てているのは、犯人ではなく、その両親についてです。
犯人の思考については、次回にでも取り上げ考えてみたいと思っています。

そもそも自分の子供が猟銃を持ち歩いていることを親としてどう思ったの?
だって猟銃ですよ。Hな本を隠し持っているのを、親として見て見ぬ振りをするのならわかりますよ。Hな本ならシャレのレヴェルですよ。しかし、猟銃を持ち歩いていたら、シャレにならないでしょ?親として、「どうして猟銃なんか?」と聞いてもいいんじゃないの?というか、その猟銃について、家族の間でどんな会話があったのだろう?

そもそもご近所の方にしても、その人が猟銃を持ち歩いていることについて、警察に抗議することよりも、まさにその親に言うのがスジだし、本来は、効果的でしょ?
つまり、それだけ、ご近所の目にもわかるくらいのダメダメ家庭であったわけですよね?
「あの親に対しては、何を言ってもムダだ!」そんな形で見なされていたわけでしょ?

自分の息子が目の前で困っていても、あるいは、周囲に困ったことをしていても、知らん顔。
自分たちは、教会で「教え」を「学ぶ」だけ。
「ワタシたちは何も考えたくないのよ!」
何も考えたくないから、子供の数も「限度いっぱい」の3人となる。3人の子供をさっさと作ってしまって、「もう一人つくろうかな?」なんてことを考えることから逃避する。

これでは、まさにドッカーンとなってしまいますよ。
カトリック教徒のすべてがダメダメであると申し上げるつもりはありませんが、「自分自身から逃避し」「思考停止状態を求める」ダメダメ人間にしてみれば、カトリックは都合がいいことも事実なんですね。だからダメダメな人間が集まってきてしまう。

そもそも、その教会の神父は何をやっていたの?
その犯人にサポートをしたの?
自分の子供が苦しんでいるのを放置する親に注意もしないの?
あの両親の心の中が洞察できないの?
重症のボンクラだねぇ・・・

まずは、目の前で苦しんでいる人を助けるのが先じゃないの?
それこそ、聖書には「よきサマリア人」の話が書いてあります。
旅の途中で苦しんでいる人を見て見ぬ振りをして通り過ぎている人が多かったのに、とあるサマリア人は、その苦しんでいる人を助けた・・・そんな話です。どんなに立派なことを言うよりも、目の前で実際に困っている人を助けることの方が神の意にかなうことなんだ!
キリストはそう言っているわけ。

ところが、カトリックの人は、「教え」を「学ぶ」ことに徹しているので、目の前の状況を見ない。目の前の状況を見ないがゆえに、逆に、遠くまで人助けをしに出かける始末。
しかし、たとえば、自分と再婚した夫が、家庭内で自分の娘をレイプしているのを知らない母親が、どうして人助けができるの?しかし、そんな母親ほど、敬虔なカトリックとしての自分の姿を周囲に見せようと、これみよがしの「人助け」なりアドヴァイスをしたりするもの。

そんな事例を、単に情報ではなく、実際に見てきている人も、いるのでは?

カトリックだろうが、仏教だろうが、宗教心を持つことも結構ですが、まずは自分の魂を見つめることが先でしょ?
しかし、宗教心が、というより信仰心が、自己逃避の手段となる。
これも現実。

自分で考えたくない人間が、集まってしまって、ますます何も考えない。考えないラクさをわかっているので、考えない状態である逆上もしやすい。
自分で考えないがゆえに、説明能力もなく、人の話も聞かない。

カトリックの人がすべからく、子供をレイプしたり、殺人事件を起こすなんてことを申し上げるつもりはありませんが、その他の要素・・・たとえば子供の数なり名前なり、あるいは写真なり、顔つきなり、子供のしぐさや行動なり・・・そんな別の面をチェックすれば、その家庭が、どの程度のダメダメ家庭なのか?わかるわけ。

そうして、そんなダメダメなカトリック信徒が存在する教会では、他のメンバーも似たようなものであることが通例なんですね。実際に今回の教会の神父だって、歴然たるダメダメでしょ?その他の信徒もダメダメでしょうね。いずれにせよ、そんなダメダメ信徒を見て何も感じないようなボンクラなんでしょ?
類は友を呼ぶ・・・わけ。

その人自身は、カトリックの信徒でなくても、ダメダメとカトリックとは結びつきやすいもの。実際に、この私に相談された方で、私の前には「立派なカトリックの神父」に相談したという方がいらっしゃいました。その神父の回答が重症のダメダメ。
「まあ!なんてお気の毒な!これからがんばってね!」
ダメダメ人間が渇望する言葉を、見事に提供している。
相談を持ちかけた方は、自分が求めていた言葉が得られたので、そんな状況に「満足」してしまうわけ。これではダメダメのままですよ。

まあ、この私は、そんな神父とは全然違った回答をすることは、ご存知の方もいらっしゃいますし、たぶん、予想もできるでしょ?

自分の目で見て、自分の頭で考え、そして行動する。もし、うまくいかなかったら、それを認め、自分で対応策を考える・・・生きていくためには必要なことでしょ?それにダメダメから脱却するにも一番重要なことですよ。
逆に言うと、「教え」を「学ぶ」ことに徹しているカトリックは、ダメダメには居心地がよく、つまり何も改善されないわけ。
当人は、「ワタシは立派なカトリック信徒よ!」と言えるでしょうが、人間の尊厳はどこにあるの?そもそも、「教え」を「学ぶ」というスタイルは、ダメダメ家庭の人間が持つコミュニケーションである「命令」と「服従」の関係と、きわめて親和性が高いでしょ?
ご高説を問答無用に受け入れるだけ。
それだけ、ダメダメ人間とカトリックは親和性が高いわけ。

まあ、カトリックの人も、「教え」を「学ぶ」だけでなく、たまには聖書を読んで自分で考えてもいいんじゃないの?
しかし、ご本尊たるキリストもグチっていますからね。
「アイツらは、言葉は聞くけど、中身なんか何もわかっちゃいない!」

(終了)
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発信後記

ちなみに、私はカトリックに敵意があるわけではありませんよ。ただ現実のやり取りの経験が、色々と、あるというだけです。
カトリックは「教え」を「学ぶ」だけなので、自分で考えなくてもいい。だから、ある意味、ボケーとしていられる。だから先日配信したボンヤリ・キャラの傾向を持つ人が多くいます。ボンヤリだから、目の前で困っている人がいても、やっぱり無反応。
そんなボンヤリの人は、まさに「命令」に「服従」するだけ。

ちなみに、プロテスタントの人とのやり取りの経験から言わせていただくと、プロテスタントの人は「いい人でしょ?オーラ」を持つ人が多くいます。
やたら「ボクっていい人でしょ?」なんて押し付けがましいわけ。安全圏からご高説を垂れることによって、「ボクはいい子だよ!」と主張する傾向が強いわけ。
そんな人に対して、現実に基づいたシャープな指摘をすると、そそくさと逃げられてしまう。スグに安全圏に逃げちゃうわけ。そうやって「いい子」としての自分を守ろうとするわけ。

ボンヤリ傾向が強いカトリックよりも、プロテスタントの方が、自分で判断する傾向があるわけ。安全圏から「ボクっていい子でしょ?」と主張し、現実を突きつけられると、逃げ出す・・・それくらいの判断はできるわけ。まあ、どっちにせよ、心が弱いことは共通ですが。

ちなみに、私個人の認識では、プロテスタントの人は、「いい子」志向で、立派なことを周囲に言うけど、事態が厳しくなったらスグに逃げ出す頼りにならない人たち。それに対しカトリックの人は、いつもボンヤリとしているけど、事態が悪化するとキレてしまって、何をするかわからない人たち・・・というものです・・・今回の事件が起こるずっと前から・・・

ちなみに、長崎の事件のような家庭の事件があると、ヤフーのサイトから、家庭内の事件の心理を「解説」している大学教授のサイトに行くことができますよね?
以前にそのサイトをチラっと読んだことがありますが、プロテスタントの人の、言動って、まさにあんな感じ。安全圏からご高説を垂れて、「ボクって、困っている人の気持ちがわかるいい子でしょ?」なんて雰囲気。その人がプロテスタントかどうかはわかりませんが、プロのプロテスタントはあんな感じの人が多いんですよ。

まあ、次にも今回のような事件があれば、ヤフーのニュースのページから、そのサイトに行くことができると思いますので、皆さんも一度読んでみては?
読んでみる際の視点として意識していただきたいのは、この文章を書いた大学教授の「ご尊父」はどんな人なんだろうか?ということ。
そんな視点で、あの文章を読むと、色々と見えてくると思います。
逆に言うと、あのサイトの書き手は、そのことから逃避しているんですね。
R.10/12/8