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カテゴリー ダメダメ土曜講座(表現と作品 編)
配信日 09年9月5日  (10年5月4日 記述追加)
タイトル 二重否定としての新聞
ダメダメ家庭は、発想が否定形。何かを否定するということしかしない。
当事者意識を持って、「自分が目標とする○○を達成するために、△△をする。」そんな発想はしないわけ。「あの□□が気に入らないから、その□□をやっつけろ!」そんなパターンになっている。
エーリッヒ・フロム的に言うと、「○○からの自由」は意識するけど、「○○をする自由」について考えることから逃避している状態。

発想が常に否定形だから、表現においても、否定形が組み合わさって二重否定の形を取ったりするもの。
それこそ、ダメダメにお約束の「悪くはない」なんてその典型といえます。

さて、先日、衆議院選挙がありましたが、その手の政治的なイヴェントがあると、新聞などのマスコミが活躍しますよね?
人間が判断するためには、正確な情報を得ることが重要となる。だから報道の仕事は重要なもの・・・と原理的には言えるわけですが、現実的にはそうなっていない。

そのマスコミの代表格といえる新聞ですが、肯定形というよりも、二重否定状態。
そもそも、新聞の購読においても、新聞にはこんな価値があり、自分にはこんな目的があるから、新聞を購読している・・・というよりも、「なかったら困る」くらいの価値でしょ?

あるいは、新聞の中の記事だって、この情報は、こんな点に価値がある・・・のではなく、知っていないとマズイ・・・くらいの二重否定のニュアンスでしょ?

そもそも新聞は何が商品なんだろう?
記事に記述された情報なの?しかし、情報そのものは、同じモノがインターネットで手にはいるのが昨今の御時世。そもそも新聞の勧誘員の方は、その新聞の記事についての「商品説明」はしないんだから、新聞における商品は文章とはいえない。じゃあ、新聞における商品は紙なの?あるいは紙を配達される権利なの?

新聞の消費者としては、新聞の「立ち位置」がわからない。
消費者にしてみれば、新聞を購読しているのは、「取っていないと格好が悪い」くらいの、やっぱり二重否定のニュアンス。
そして、やり取りする新聞の関係者は、勧誘の人も、記者の人も、「逆らったら怖い」という、やっぱり二重否定的なキャラクター。

記者会見などのやり取りの際にも、「アナタの話を聞きたくないわけではない。」といったスタイルでしょ?相手の見解を聞きたいのなら、それ相応の聞き方があるのでは?「つるし上げ」のようなスタイルで聞いても相手は何を話してくれるの?

そもそも新聞関係者自身は、自分たちをどう思っているの?
自分たちを一般市民と思っているの?現実的には違っているでしょ?しかし、一般市民ではないとは思ってはいませんよね?
いわば敵に対抗する存在として、「敵の敵は味方」の二重否定的なニュアンスの立ち位置と考えているのでは?

一般市民の敵に対する敵が我々だ!・・・そんなニュアンスでしょ?
しかし、味方の味方は味方ですが、敵の敵は、味方とは限りませんよ。

それに・・・自分たちの「知性」をどう認識しているんだろう?
記事の文章からは知性があるとはとても言えませんが、かと言って、知性がないわけではない・・・でしょ?まあ、知性というよりも学力があったんでしょうね。

そもそも記事の文章を作成するにあたって、あれもこれも・・・の「捨てたくない」の心情があったりする。だから文章が「スパム化」されてしまう。
対象を絞りたくない・・・「誰でもいい」・・・そんな状態にしておきたい。

それはいいとして、じゃあ、何を伝えたいの?
マスコミの報道って、「このことを伝えたい!」というよりも「伝えたいことがないわけではない」という感じでしょ?
特定の問題を伝えたいというわけではないので、重要なことは報道しない。
それこそ、かなり以前に日本の首相をされた田中角栄氏が不正蓄財の問題で追及された時に、「そんなことはオレたちは前から知っているよ!」「何を今更記事にしているんだい?」とマスコミの方々はうそぶいたとか・・・
いわば「知らなかったわけではない。」状態。

「このことをわかってほしい。」というモノがない人は、「反論されると過激に反応する」もの。
いわば「反論が反論を呼ぶ」状態になってしまう。
「反論が反論を呼ぶ」って、会話における二重否定状態。そんな「揚げ足取り」のような議論をするよりも、お互いが「ワタシはこのように考える。」と語り合えばいいだけ。

どうせ「反論の応酬」で合意が得られるわけがないでしょ?
ホント、新聞は今度どうなっちゃうだろう?
もちろん、情報を掲載する紙媒体がなくなることはないでしょう。「将来がないわけではない」のでは?

そのためには、現状を認識しないとね。しかし、マスコミの方々は、「見たくない」「変わりたくたくない」と思っている。だから自らに対する諫言・批判を受け付けない

新聞記事の文章ですが、「誰が、どんな人に対して、どのようなことをわかってほしいのか?」そんな発想がない傍観者的な視点なので、主語が不明確なことが多い。それにやたら冷笑的。ヘンな話になりますがインターネットの掲示板の文章と実に似ている。
誰かを冷笑するもの結構ですが、伝えたいことが明確になっていれば、相手を笑っているヒマはないし、笑いたくなるようなアホなら、相手をする意味がないのでは?

伝える対象が明確なら、対象外も明確に定義できるでしょ?逆に言えば、対象外が明確になっていないということは、対象も明確ではなく、つまり「伝えたいもの」それ自身が明確になっていないわけ。

新聞も掲示板常駐者も、他者を批判するにあたっても、過剰に倫理的であって、自分自身の問題意識とは無縁。それこそエーリッヒ・フロムが書いているようなナチを求めてしまったドイツの人たちと全く同じ雰囲気
インターネットの掲示板に常駐している人と、マスコミの関係者は仲が悪いようですが、それって、要は「近親憎悪」。

「自分で何をしたいのか?」そのことを考えることから逃避しているもの同士だし、どんな人に文章を宛てているのかが、自分たちでもわかっていないという同類同士。
だから、何かを敵認定して、その敵をやっつけるという二重否定行為で自分を満足させるだけ。
似ているが故に、違いを無理に作り出さないといけない
逆に言うと、そんな主張から、マスコミと掲示板常駐者の同質性が見えてくるわけ。

新聞という存在は、「紙の上にある文字情報」と言えるわけですが、じゃあ、そんなスタイルが持つ優位性とは何?

速報性とか、あるいは、事件の概観を知るためには、それこそテレビでのニュースの方がわかりやすい。
しかし、紙の上での文字情報だと、読み直しもできますから、理解できるまで何回も読むことができますよね?

だからこそ、「書く側」も、何回も読むことを前提にして、高度な内容の記事を書くことができる。それこそ歴史的な視点を多く取り入れた文章とか、緻密な論理で構築した文章とかは、紙の上での文字情報でないと現実的に難しいでしょう。
頻繁に書きますが、ロジックを伝えるためには、映像ではなく、ロゴス(=言語)が優位性を持つもの。

似たようなことは、小説の映画化でも発生いたします。
映画化してしまうと、難しいセリフはあまり使えない。そんな難しい言葉なり緻密な論理は、観客が追うのは大変ですし、当然のこととして、観客の理解力は、それぞれ。
紙の上での文字情報だったら、読み直しができるので、理解力が低くても、その分だけ読み直せばいいし、必要に応じて、別の解説をつけることが可能となる。

紙の上で文字情報としては、高度なもの、緻密なもの、多面的なもの・・・そのような内容が可能になるわけです。
逆に言うと、そんな高度な文章がないと、新聞には何も優位性がない。
それに、今となっては、多面的で、論理的な文章を書く能力がある新聞記者なんて、いないでしょう。

だからこそ、新聞関係者さんは、当面の敵であるインターネットを攻撃しているんでしょうが、そんな行為によって、ますます文章自体のレヴェルが低下することになる。
新聞が生き残るためには、読者が「唸る」ような文章を書くこと・・・それしかないのでは?

ダメな集団は、敵のあら探しばかりをして、自分たちがどうしてもやり遂げたいものについて考えることから逃避してしまう。だから何も達成できずに、コンプレックスが蓄積され、ますます敵への攻撃に明け暮れることになる。
そんなスパイラルに陥ったら、現実的にはリカヴァリーは無理なんですね。

(終了)
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発信後記

抑圧的な人間は、行動も言葉も二重否定的なもの。
先日の総選挙の大敗を受けて、自民党の新しい総裁を選ぶとかの話になっていますが、その中の有力候補の一人として、石破大臣がいます。
その方の物言いが、驚くほど二重否定。以前に取り上げたアルベール・カミュの「異邦人」におけるムルソーに匹敵するほど。

たとえば選挙直後の「火中のクリを拾いたくないわけではない。」という表現は、「拾いたくないわけではない。」と歴然たる二重否定表現。
あるいは、その後での「出るとも言わないし、出ないとも言わない。」という表現は、シリアル形式だけではなく、パラレル形式の二重否定表現も含んでいる。まさに二重否定の権化といえるくらい。

ちなみに、自民党は国会の首班指名選挙では白紙を投票することになりそうですが、そのことについて石破大臣は、「白票で臨むのは、衆院議員としての国民に対する大事な仕事を放棄している。」とコメントしたそう。
上記のコメントにおいて、「白票」は、何も書かないことだから、否定の意味。そして「放棄している」という述語も、意味的に否定形。
単純な肯定形の表現となると、「オレの名前を書けばいいじゃん!」となるわけですが、肯定形ではなく、二重否定となっているわけ。

政治家なんだから、色々と差し障りもあるでしょうが、ここまで徹底していると、ちょっとねぇ・・・そんな物言いから、石破大臣の精神的抑圧が見えてくるわけ。
もし、その石破大臣が次期の自民党の総裁になったら?
「悪くはない」でしょうが、「よくもない」でしょうね。 
R.10/12/27