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カテゴリー ダメダメ土曜講座(表現と作品 編)
配信日 09年10月17日
タイトル 東アジア統一歴史教科書構想について
先の選挙(09年)で、日本の民主党が政権をとったので、従来の自民党の政策とは様々に変更が加えられております。まあ、それは当然のこと。
国内的にはともかく、対外的にはアジア重視といえる雰囲気です。
どうも民主党の皆さんは「アジア好き」のようです。

そんな新しいアジア重視の政策の一つとして、新たに外務大臣になった岡田さんが、中国や韓国との統一の歴史教科書を制定しよう・・・そんな考えを提唱しておられますよね?

そのアイデアが出てきた時には、「まさかね・・・タチの悪い冗談だろう・・・」と思っていたのですが、どうも冗談とは言えない覚悟を持って発言なさっておられるよう。
まあ、覚悟を持つこと自体は結構なこと。

しかし、じゃあ、岡田さんは、今現在使われている韓国や中国の歴史教科書を自分で読んだことがあるのかな?逆に、「反日をモットーとしている韓国、中国との間で、統一した歴史教科書を制定することには反対だ!」と息巻いている人たちも、実際に韓国や中国の歴史教科書を読んだことがあるの?
その手の人たちが問題視している反日の記述を修正すれば、教科書を統一してもいいの?

このメールマガジンでは、韓国中国の歴史教科書を実際に読んで取り上げて考えております。

実際に韓国や中国の教科書を読むと、何も「反日」という観点が問題というよりも、もっと根本的な面で、色々と問題が見えてきます。歴史を考える知の枠組みというか、パラダイムが根本的に違っているわけです。

一般の日本人が歴史を考える際には、ある種の科学的な思考が基本となっています。
基本的には複数の史料をつき合わせ、あるいは、歴史的な事物を合わせて、その事件の姿を客観的に記述していく・・・それが日本の、あるいはヨーロッパの(ここであえてアメリカは除外したします。)歴史研究のスタイルでしょ?

多くの史料の中から、主観に依存する部分を可能な限り排除していく・・・そんな科学的な姿勢が、歴史研究の基本的な精神であることには、日本人の皆さんは、「それは当然のことだろう?今更何を言っているの?」と思われるだけなのでは?

主観を排除していく・・・そんなスタイルにおいて、歴史研究は、物理学などの自然科学と変わるものではないわけ。片や、実験や観測を行い、片や、史料や証拠のつき合わせを行う・・・そんなちょっとした違いがあるだけ。データーを重視する発想は共通で、データーの種類が違っているだけ。

個人的な主観を排除して、客観的な知見へ・・・それはそれでいいとして、以前にこのメールマガジンで、抑圧的なダメダメ家庭の人間は、「客観というものが心理的に理解できない」ことについて書いています。
そもそも「他者というものを心理的に認識することができない」ので、他者が持つ認識といえる客観というものも、心理的には理解できないわけ。
客観を理解できない人間にしてみれば、やり取りにおいても、ただ双方の主観が飛び交っているだけ。
そして、「序列意識」に基づいて、あるいは「支配・被支配の関係」に基づいて、支配者なり上位の序列のものが、被支配者や下位のものに命令して、それで議論はオシマイとなってしまう。客観的な「生データー」を元にして、一緒に議論し、考える・・・そんな発想は持っていないわけです。

韓国の歴史教科書においても、執筆者の主観が述べられているだけであって、そこには客観がない。つまり韓国の歴史教科書には「科学的な思考」がないわけです。

まさに魯迅が「狂人日記」の中で言うように、「年代がないのに、仁義道徳の文字がくねくねと踊っている」歴史書となっている。
しかし、逆にいうと、仁義道徳の文字が踊っているので、その教科書は、実に「倫理的」に見えてしまう。ボンクラな人だったら、韓国の歴史教科書を読むと、「実に立派だ!」「高潔な精神に満ちている!」と思ってしまう可能性もある。

日本の歴史教科書が、過去の事件を科学的に記述したものであるのに対し、韓国の歴史教科書は倫理的に記述していると言えるでしょう。
逆に言うと、韓国の歴史教科書においては、事件の客観的な記述なり因果関係はどうでもよくなる。「どっちが正しいのか?」「どっちが悪いのか?」そんな視点が優先され、5W1Hなどの具体的な記述は無視されることになる。

今まで韓国の歴史教科書について、取り上げましたが、中国の歴史教科書は、もうちょっとヒネリがある。年代によって、記述のスタイルが変化してくるんですね。
それこそ漢や唐など古代の記述は、客観的であり、別の言い方をすると科学的。
しかし、時代を経ていくごとに、倫理的になっていく。
つまり中国の歴史教科書は、現在の中国共産党の支配の正当性を、倫理的な観点から説明する・・・そんな意図が見えてくる。

おまけに、中国の歴史教科書には読者を洗脳する工夫もある。
演習問題を組み合わせることによって、読者に作業をさせ、その作業によって、歴史的な事件の見方を限定させる・・・そんなシステムになっている。

それこそ、「○○の事件における、中国共産党の政策がなぜ正しいのか?説明せよ。」なんて演習問題が登場してくる。
そのような演習問題は、先の日本の選挙で当てはめると、「民主党の政策がどのように正しいのか?自民党の政策がどのように悪なのか?記述せよ。」なんて演習問題に該当することになる。

日本の選挙はあったばかりだから皆さんもよく覚えているでしょうが、民主党が勝ったのは、政策が正しいとか、自民党が悪とかの問題ではないでしょ?選挙戦略の巧緻とか、トップの能力とか、問題意識の欠如とか、民衆の飽きとか・・・むしろ、そのようなプラグマティックな問題でしょ?

しかし、「どうして正しいのか?述べよ。」なんて演習問題があったりすると、学生はそれに対応するような文章を自分で作らないといけない。そしていったんそんな文章を作ってしまったら、自分が作った文章を「正当化したいという心理的な欲求」が起こり、その自分の文章と相反するような情報なり考え方を、心理的に拒否するようになってしまう。
そうやって、自分自身で認識なり考え方を縛っていって、結果的に洗脳されてしまう。

いずれにせよ、韓国も中国も、支配者が被支配者を管理しやすいようにする・・・そんな目的があるわけです。別の言い方をすると、事物そのものを教えるのではなく、事物の見方を教え、規定するための教育なんですね。

「このように物事を見なさい!」と教え込んでいく。
そういう意味では、中国も韓国も実に倫理的な教科書と言えるでしょう。

しかし、科学的な態度とは、事物をしっかり、そして様々な見方から見ていくもの。
そして、従来存在しなかった、新たな視点を提示できれば、それこそが創造的といえるでしょ?科学でも、芸術でも、創造的ということは、今まで無かった視点を見いだすということですよね?中国も韓国も、そのような創造性を拒否しているわけ。これではノーベル賞が出ないのは当然ですし、芸能人は出てきても、「芸術家は出てこない」でしょ?

しかし、新たな視点というものは、心理的には不安に繋がる。
それこそ、中世の天文学において、天動説で満足している人たちに、地動説を主張したら、一般の人は不安になりますよ。あるいは、ルノアールの絵を見て喜んでいる人に対して、ピカソの絵を見せても、ヘタをすれば不安になるだけ。新たな視点や創造性というものは、従来の枠組みで得られていた心理的な安定を揺り動かすもの。

政治的にも、「共産党政府様のおかげで、ワタシたちは天国にいるように幸せ!」「悪いのは全部日本のせいだ!」と見方を規定してしまえば、後は自分で考えなくてもいい。
それは、心理的には安定といえるでしょ?

そんな心理的な安定は、まさに「平和」な状態。
みんなが、上から言われたことを何も不平を言わずに、というか、何も考えずに、従っている・・・そんな状況は、どこかのカルト宗教の姿といえますが、ある意味においては、この世の楽園ですよ。
そして、「何も考えないことによる」心の安寧を得ている人間は、「アンタはどう考えるの?」「別の見方もあるのでは?」などという指摘に対しては、過激な報復を行うもの。
・・・そんなことは、この私は実感を持ってわかっていますよ。

思考から逃避する抑圧的な人間に対し、「心の安定」を提供する・・・そういう意味では、中国も韓国の教科書も、よくできている。
まさに「倫理的」な歴史教科書なんですね。

心の安定を提供するのが目的であるがゆえに、芸術や科学の創造性は、無視というよりも、敵視されてしまうわけ。芸術などの創作活動においても、従来から規定されている革命精神を詠った作品や民族精神を詠った作品は作られても、自分自身の内面を直視した作品は生まれなくなってしまう。自分自身の内面や自分自身の眼前の事物よりも、周囲を見て、あら探しにいそしむような人間は、芸術的にも科学的にも新しい見方なんてできませんよ。
目の前の揺るぎない現実を直視するからこそ、「新しい見方」が必要になるわけでしょ?真の創造性は、単に夢見ることではないわけ。厳しい現状認識が基本になっているわけ。

逆に言うと、新しい見方が登場しない状況ということは、それだけ、既存のものに従っているだけということ。「心の安定」とは、別の言い方をすると、アジア的な停滞。それも、一つの考え方でしょうし、国のあり方でしょう。
私としては韓国や中国について、政治的な面からの反日云々を問題にしているのではなく、芸術や科学における創造性の問題に注目しているんですよ。
科学と芸術は、相反するものではなく、現実の直視という点で、基本的には同じもの。

しかし、じゃあ、現実問題として、どうやって、統一教科書を作るの?
双方の歴史学者がどのように議論するの?
日本の歴史学者が、史料のつき合わせをやろうとしても、韓国の学者はそのようなことには意味を見いださない。歴史的な事件を題材にして、韓国が正しいという主張を書くことが歴史研究であり、それが、歴史教育だと考えている人との間には、議論がかみ合うわけがない。

何度も書きますが、日本の歴史学と韓国の歴史学との間には、どの史料を採用するのか?史料をどのようにつき合わせるとかの技術的な問題ではなく、データーを重視し、客観を志向するのか?それとも、倫理を重視し、人々の安定を志向するのか?そんな根本的な志向が違っているわけです。
ということで、現実的には、統一教科書の制作はなかなか進まないでしょう。

ただ・・・長いこと、この統一教科書のプロジェクトが活動していると、ヘタをすれば、実際に出来上がる可能性もある。
日本の歴史研究の重鎮たちは、「発想の根本が違っている」韓国や中国の研究者とマジメにはやりませんよ。そうなると、そんな状況に対し、政治の側が業を煮やすことになる。
それに応えて、野心に燃える新進気鋭の若手の歴史研究者が、政府の意に沿った主張をするようになる。
そして「欧米の歴史学にかぶれた古き研究者を追放せよ!」などと過激な主張。そんな若手研究者を政府が「アジアの心を持った○○君によって、新たな歴史研究の黎明が開かれるのだ!」と擁護。そうして、政府の役職に就けて、ますます、その若手研究者と政府が結びつく。

歴史というものがアタマに入っている人は、そんなシーンが実際に登場した時代を思い浮かべることができるのでは?
その代表となると、ナチスが勃興した頃のドイツがその典型と言えます。
以前にエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を取り上げ、ナチス勃興期やマルティン・ルターの宗教改革の時代背景の記述を紹介したしましたが、その時代説明は、まさに今日の日本と瓜ふたつ。

何も民主党がダメとか、自民党を選択しなかった日本国民はケシカランと申し上げているわけではありませんよ。
それこそ、ナチス勃興期において、当時のワイマール共和国政府は、実質的には無能力。その点は先の日本の自民党と同じ。当時のドイツとしては、それに変わる政治勢力となると、ナチスか共産党しかなかったわけ。
当時のドイツ国民だってバカじゃない。ナチスの胡散臭さはわかっていましたよ。
にも関わらず、ワイマール政府は何もしないし、共産党はもっとヤバゲということでナチスしかなかったわけ。
ドイツ国民としては「とりあえずナチスにやらせてみて、ダメだったら、元に戻せばいいじゃん?」そんな発想を取るのは当然でしょ?

現在の日本も同じですよ。
選挙によって、政権が移動するのは当然のこと。
ただ、政権が移動しないようなシステムを、つまり国民を支配されやすいメンタリティにしてしまう教育にしてしまうのは、大いに危険と言えます。
ダムを作るのを止めるとか、行政組織の見直しとかのレヴェルではなく、教育というものは、まさにメンタリティと直結しているわけですからね。

まさか、民主党だって、軍事力を整備してアメリカに宣戦布告をするようなバカではないでしょう。しかし、多くの国民が、新しい視点や創造性がもたらす、心理的な不安に耐えることから逃避するようになると、新たな視点や考え方を生み出さない政策に安心を感じてしまう。さすがに秘密警察などは出てこないでしょうが、お互いが空気を読み合って、目立つことをしないようにしてしまう・・・そんな心理的な管理社会は、現実としてありうるでしょ? そして魔女狩りの儀式が随時行われ、抑圧的で、思考から逃避しているもの同士の一体感を確認する。

そうなってしまうと、ちょっとヘンテコな日本人は思うことになる。
「あ〜あ、こんな窮屈な時代を見ないで死んでいった昔の日本人は、今思うと、幸福だったなぁ・・・」
その程度なら、結構現実的でしょ?

このような支配されやすいメンタリティを志向する雰囲気は、民主党とか自民党の問題ではないわけ。
特に岡田さんは、「加害者認定への耐性が低く」、いい子ちゃん志向がある。
また、原理主義的で、別の言い方をすると「教条的」。
つまり、自分で判断することへの心理的な恐怖心があるわけ。
だからこそ、岡田さんは「支配されたがっているわけ」。
いわばマゾヒズム志向なんですね。

そんなマゾヒズムの歓びを、国民にも与えてあげたい・・・
いやぁ・・・岡田さんは、親切な人だなぁ・・・

(終了)
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発信後記

ちなみに、本文中にも書いていますが、民主党とか自民党の個別の政党の問題を指摘しているのではなく、それぞれの国の教科書に現れている心理を読み解く・・・今回の文章は、それが目的です。

韓国も中国も、国民を「支配しやすい」「従順な」メンタリティにすること・・・それが歴史教育の目的となっているわけ。反日という面も、その要素の一つに過ぎないわけです。
それだけ、「あらかじめ」回答を用意しておけば、生徒は自分で考えなくても済む。
それは抑圧的な人間にしてみれば、心休まるものと言えるわけ。

外務大臣の岡田さんが、日本人を支配しやすいメンタリティにしてしまおう・・・そんな野望を意識して持っているわけではないでしょう。ただ、岡田さん個人は、「支配されること」を、心理的に求めている・・・それは確実でしょうね。
そして、支配されることを求める心理は、まさに考えることからの逃避であり、それゆえに、自分が逃避していることを認識することができない。

この岡田さんの問題は、来週の土曜日の文章でも考えてみたいと思っています。
ある意味において、実に興味深く、かつ典型的な事例といえるんですね。
R.10/12/28