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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(発想と視点編) | |
配信日 | 09年12月26日 | |
タイトル | ゼロに焦点 | |
今週は立派な言葉に関係した文章を集中的に取り上げました。 その立派な言葉の代表として「人間は生きているだけですばらしい。」なる言葉について頻繁に触れたりしております。 その言葉でインターネットで検索を書けたら、私の文章が出てきたりしたんですね。 しかし、日を改めて、その言葉で検索を掛けると、全然でてこない。 検索に使用したのはYAHOOです。どうして違ってきてしまうのかな?検索エンジンがその状況によって違うのかな? まあ、そのような技術的な問題は私としてもわかりませんが、ただ、そんな「人間は生きているだけですばらしい。」という歯の浮くような言葉に対して、やっぱり怪訝な思いをなさっておられる方も多いんでしょうね。 以前にも書きましたが、そんな「人間は、ただ、生きているだけですばらしい。」と親が言っている家庭の子供は、「登校拒否」状態だったりする。 だって、「生きているだけですばらしい」んだから、子供が何かチャレンジしようとしても、それは余計なことになってしまうでしょ? もし、子供が失敗したら、「まったく・・・この子は、せっかく生きているだけですばらしいのに、余計なことまで手を出して・・・ホント!いつになったら手がかからないようになるんだか!」とイヤミを言われるだけ。これでは失敗を恐れて何もできませんよ。 ダメダメ家庭においては、何もしないというゼロ地点を肯定することで、それ以外のものを否定することになる。 子供が何もしないことを肯定しているだけではありません。 親としても、何もしないことを、積極的に肯定するもの。 それこそ、そんなゼロベースに徹するダメダメな親の言葉の代表としては、「生んでやっただけでも感謝しろ!」なる言葉があります。それこそ以前に取り上げた映画「マイ・フェア・レイディ」でイライザの親父のアルフレッドが言っていました。 あるいは、その変種として「殺さないでやっているんだから、感謝しろ!」なる言葉もあります。 ダメダメな親は、子供に対して何もサポートしないことがデフォルト状態。 だからこそ「せっかく・・・オマエを殺さないでやっているんだから、親であるオレに感謝するべきなんだ!」と子供に要求する。 ギャグを書いていると思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭というものは、こんなものなんですね。そもそも、そんな「ダメダメな人間ができるのは、子作りくらい」。 だから、どうしてもそんな家庭ができてしまう。 そして、そんな親を弁護するのに有効な正論として、「子供を愛さない親はいない。」なる文句が登場してきたりする。 この「子供を愛さない親はいない。」であるがゆえに、つまり、親はいつも子供を愛しているがゆえに、家庭内でうまく行かないことは、「愛され方が悪い」子供のせいになり、子供に「正しい愛され方」を習得させるために、「懐かないから殴る」という指導行為が、「倫理的に」正当化されてしまう。 あるいは、「生きているだけですばらしい」んだから、「生んでやったことを感謝するべき」となり、生んだ後に、その子供を「赤ちゃんポスト」に入れてしまうことも、倫理的に肯定されることになる。 そして「子供に命を与えてやったオレたちって、なんてすばらしいんだ!」と自画自賛の境地。 言われてみれば、実に「論理的」に筋道が通っているでしょ?そして、そんな流れは、ダメダメなりには「倫理的」にスジが通っている。 そんなゼロ状態で十分と考えている親に対して何を言ってもムダ。 それこそ、「昔はもっとひどかった。」とか「下には下がある。」とか、あるいは、お約束の「時代が悪い。」とかの通りがいい言葉を持ち出すことになる。 時代が悪いならそれでいいわけですが、「そんな悪い時代であることがわかっているのに、子供を作ってしまう、アンタは外道だよ!」と子供としては思うわけですが、殺さないことへの感謝を要求する親に対して、そんな言葉を言うと、殺されてしまいますよ。 ダメダメな親は「昔はもっとひどかったんだ!」という言葉を言ったスグ後に、「あ〜あ!悪い時代だなぁ・・」なんて言ったりするもの。 そういう意味では論理的にはムチャクチャですが、「生きているだけですばらしい。」という美辞麗句を基準とすると、そんな論理も通用するでしょ? そうやって、「通りのいい言い訳を踊らせて」、目の前の状況に対処することから逃避する。 目の前の状況から逃避して、イラクやアフリカまでボランティアするような始末。 そうやって、ただ生きているだけの人間を増殖させて、「ああ!下には下がある!」と大歓喜!しかし、自分の問題は相変わらず放置されたまま。 「生きているだけですばらしい。」という言葉でも、赤ちゃんポストに入れられ、施設で育てられ、様々な体験を経て、80年後になって、「生きているだけですばらしい。」と、その人自身が、しみじみ述懐するのならアリでしょう。 しかし、ダメダメ家庭においては、そんなストーリーを利用して、親が自分の子供を「赤ちゃんポストに入れる」口実としてしまう。あるいは、子供が親に対して頼みごとをさせないための問答無用の説教としてそんな正論が使われてしまう。 生きているだけですばらしいんだから、子供を殺さないでやっているワタシたちって、なんて立派な親なんだろう?!中絶せずに、そのまま出産してしまったワタシたちって、なんてすばらしいの?殺そうと思ったんだけど、オマエを生かしてあげようと、親切にもポストに入れたんだよ!だからワタシに感謝しなさい!感謝すべきなんだ! ギャグと思われるのも当然でしょうが、残念ながらこれがダメダメ家庭の現実なんですよ。 ダメダメ家庭では、何もしないというゼロ地点に焦点を当てて、その地点から発想する。 それを超えたサービスになると、「してやった」となり、相手に恩を着せようとし、その恩の分だけ、被害者意識を持つことになる。 キリストが言うように、もともとの木がダメダメだったら、その木に実になる木を接木しても、立派な果実は得られないでしょ? しかし、そんなダメダメな木ほど、繁殖力が強く、そして、周囲にある役に立つ木を枯らしてしまうものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 ちなみに、本文中ではかなり以前に配信した文章を多く引用しております。 昔の文章と今の文章は、その表現スタイルが変わってきているもの。 最初は、実感的でシンプルな文章だったのが、だんだんと一般化なり客観性を志向するようになり、そのうち、様々な技法なり過去の知的遺産を統合的に用いるようになったりするもの。 そんな流れは、和歌の世界でも、そんなものでしょ? 万葉集から古今集になって、新古今となる。 個人だったら、それこそピカソでもそんな流れを持っていたりする。 個別進化は系統進化を繰り返すというわけ。 実感や客観性、表現の多彩さ・・・ そんな観点で見てみると、どんなジャンルも、そして個別の表現者も、わりと似た流れになっているものなんですよ。 そして、それぞれエポックメイキングな作品があったりするもの。いわば方向性を決定付けるような作品があるんですね。後に続く際に、その充実した作品を意識しながら、自分たちなりの作品を作るので、方向性が決まってしまうわけ。 それこそ、音楽のロックの世界でも、個人的な実感を表現することから、客観性へと流れ、抽象性を帯び、そして表現の統合へ流れて行くという、お約束の流れになっています。表現の統合という面において、別の言い方をすると、新古今和歌集的な作品の嚆矢として有名なのが69年の「クリムゾン・キングの宮殿」という作品。 最近になって、そのアルバムを思い出したんですよ。 現在の日本の首相である鳩山さんについて考えていると、そのアルバムの第1曲目の「21世紀のスキゾイド・マン」・・・まあ、昔風に翻訳すると、「21世紀の分裂病患者」となるでしょうか・・・とか、ロックの歴史に残る名フレーズ「大混乱が私の墓碑銘になるだろう。」を思い出したんですね。 鳩山さんは意外にもロック野郎だったんだなぁ・・・と、実感。 私は、リアルタイムで聞いたわけではなく文献的に聞いたんですが、47年生まれの鳩山さんは、世代的にも重なるかも? ロックだって、最初はそれぞれの個人的な感情をシンプルに歌っていたのが、一般化され、抽象化され、だんだんと技巧的になってしまう。 それこそ曲の長さだって、10分を超えたりする。「チャック・ベリーが演奏していた時代から、それほど時間を経ていないのに、どうしてこうなっちゃたんだ?」そう思ったりするもの。しかし、そんなスタイルの変遷は私と重なっているかも? 皆さんも、年末年始のお休みで、どんな分野でも集中的に調べてみると、物事って、実に共通性が多いものだとおわかりになると思います。人間のやることなり考えることって、それほど違いはないわけ。 |
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R.10/12/30 |