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カテゴリー | ダメダメ家庭と「いい人」 | |
配信日 | 05年9月26日 (10年7月22日 記述を追加) | |
タイトル | 作られた「いい人」 | |
「○○ちゃん!いい子でお留守番しているのよ!」なんて、言葉はポピュラーな言葉ですよね? このような言葉は、マトモ家庭でもダメダメ家庭でもおなじみです。 ただ、ダメダメ家庭では、子供に与えるプレッシャーが違うわけ。 ダメダメ家庭では「いい子でお留守番しているのよ!」なんて言われた子供は、真剣に、というよりも切羽詰った心理状態で、「いい子でいなきゃ!」なんて思ってしまうんですね。 だって、ダメダメ家庭の親は被害者意識が強い。子供を育てる手間を、親である自分が背負わされた「被害」と捉えているわけ。だから子供がいい子でいなくて、余計に手間がかかってしまうと、自分の被害者意識が刺激され、大変なことになってしまうわけです。 「ああ!ワタシはハズレの子供をつかまされてしまった!!」と言った感じ。 マトモ家庭だったら、多少「悪い子?」でも、親は自分の子供の面倒を見るわけですが、ダメダメ家庭だったら「いい子」でないと面倒を見ないわけ。 まあ、そんなプレッシャーを感じ続けているので、子供だってモノホンの「悪い子」になっちゃうわけですが・・・ このように、「いい子でいなきゃ!」と自分自身にプレッシャーを掛けながら成長してきたので、ある意味において、本当に「いい人」になることもあるわけ。ただ、その「いい人」と言ってもカッコつきのもの。俗に言う「いわゆる」いい人。 別の言い方をすると、周囲から「いい人と見える人」であって、「いい人そのもの」ではないわけ。 「いい人」については、以前にもちょっと考えてみたことがあります。「天使のような善人」ということで、自分自身では決して手を汚さない人について書きました。 このような善人は、天然のものなんですね。本人が努力して天使のような善人になっているわけではない。本人自身はモノホンの善人であると言えるわけですが、その人の善良さを守るために、周囲の人間が「汚れて」しまうわけ。だからダメダメ家庭が出来上がってしまう。 まあ、このような天使のような善人のケースは天然なんだから、どうしようもない。そんな人の周囲にいないことがベストの対策。 しかし、このような天然のものの善人のケースとは違って、努力による「いい人」のケースもあったりするわけ。 周囲に気配りもするし、特に悪いことをするわけではない。「可」はともかく、「不可」はない。まあ、少なくともハズレとは言えない。 まさにダメダメ家庭が憧れる「ふ・つ・う」の人・・・と言えるのかも? しかし、一般的には人間というものは「可」もあるし、「不可」もあるもの。どうしてそんなに「不可」がないの?というよりも、ある人にとっての「可」というものは、別の人にとっての「不可」だったりするでしょ? 「可」もなく、「不可」もないということは、取り立てて何も特徴がない・・・まさに「ふ・つ・う」の人ということでしょ? 物事を減点法的にみてばかりで、何も成果を持っていない。 減点法に徹しているので、マイナスがない「いい子」となるわけ。 そんな「いい人」を見ていて思い出すのが、 「○○ちゃん!いい子でお留守番しているのよ!」という言葉。 そう!そんな人は、「いい子」の成れの果てと言えるわけです。 勿論のこと、「いい人」でいることが悪いわけではありません。しかし、無理しているんじゃないの?その手の人って、妙に無理があるんですね。 だって人間が生きていれば、色々と面倒なことが起こったりするでしょ?それだけ「不可」がないということは、面倒を避けながら、あるいは逃げながら生きているということですよね? その手のいい人は、ちょっとでも事態がマズくなって来たら、早めに逃げてしまうわけ。本人はそれで勝手でしょうが、そんな人が家庭を守れるの? メールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、ダメダメ家庭の具体的諸相を書いているものです。このメールマガジンをご購読いただいているということは、別のメールマガジンもご購読されていたりするでしょ? 私自身も、「他の発行者さんは、どんなメールマガジンを発行しているのかな?どんなことを書いているのかな?」と思って、他のメールマガジンをチェックすることもあります。 割とよく見かけるのが、「ありきたりな正論を、ありきたりな文章で書いたもの。」 そして、ちょっと時間が経つと、何を書いてあったのかまったく覚えていなかったりする。 ある意味、読んでいて安心できる文章とも言えましょうか? そんなメールマガジンの悪口を言うつもりはありませんが、その手の「可もなし、不可もなし。」と言った類の文章って、実際に多いものですよね? しかし、読み手というより、書き手の側にいる私のような人間にしてみれば、ちょっと不思議。 そんなありきたりで、どこにでもある文章をわざわざ書かなくてもいいじゃないの? メールマガジンを発行して、お金が入るわけでもないし・・・ それに、たぶん、読んだ人も、書いてあることを覚えていないだろうし・・・ こんな「屋上屋を重ねる」ような文章って、書いていても楽しくないでしょうに・・・ どうして、こんな文章を書くのかなぁ?そしてメールマガジンにして発行するのかなぁ? いったい、どうしてなの?? その手のメールマガジンを読んでいて出てくる感想は、 「なんだかなぁ・・・」というもの。 そうじゃないですか? そのように感じるようなメールマガジンって、実際にあったりするでしょ? 「なんだかなぁ・・・」 とは思うけど、その根底にある、読者としての具体的不満は自分自身でもわからない。 なんとなく不満なんだけど、どう言ったらいのかなぁ・・・ この文章の書き手が、各方面に配慮するデリカシーもあって、頭も悪くはないだろうし、文章だってヘタではない。書いてある内容にはケチをつけようもない。しかし、「だから一体何なの?」「一体、何の目的でこんな文章を書くの?」「そんなことは、わざわざ言われなくてもわかっているよ!!」 そう感じさせてくれる文章って、メールマガジンに限らず結構あったりしますよね? 「一体、何の目的で・・・・」 最近になってやっとわかったのは、その目的は、 「いい子にしていなさい!」という親からの要求への、子供としての回答なんだろうな・・・ということ。 だって、その手の「可もなし、不可もなし。」という文章から立ち上ってくるのは、「この文章の書き手は、いい人だなぁ・・・」というでしょ? 「ボクってこんなに『いい子』なんだよ!」・・・その手の文章は、そんな主張が込められているわけです。 だから読み手にしてみれば、「なんだかなぁ・・・」と思うのも当然。だってそんな文章は読み手は関係ないんですからね。その手の文章は書き手の心の中にいる自分の親に宛てたものと言えるでしょ?しかし、そんな文章を読まされても、読み手としては「アンタは勝手にいい子にしていなよ!」そう思っちゃいますよね? しかし、「自分がいい子」であることを伝えるための文章を書くような人は、本当にいい人なの? 確かに悪い人ではないでしょう。しかし、決して「頼りになる」人ではないんですね。 前にも書きましたが「いい子」でいるためには、面倒を避ける必要があるでしょ?その手の人って、事態がマズくなると、その現場から逃げ出しちゃうわけ。面倒な事態と直面していたら、「いい子」ではいられませんよ。 そうやってアッチコッチの問題に首を突っ込んで、面倒になりそうになると、早めに逃げ出す。そうして本人は「ボクは、いい子でしょ?」と、文章を書く。 しかし、本当の「いい人」って、本人が力説するものではありませんよね? 本人が「自分はいい子」であると力説すること自体が、多くの示唆を与えてくれるわけです。 以前から度々引用していますが、フランスの哲学者のミシェル・フーコーは「見えているものを、見えるようにすることが哲学の役割」と言ったそう。あるいは、イタリアの映画監督のフェデリコ・フェリーニは「ボクは映画を見ている観客の心をザワザワさせたいんだ!」と言っていたそう。 生物的な目では見ていても、心の目で見ていないもの・・・つまり見過ごしているものを見えるようにされてしまったら、受け手は安心してはいられない。それこそザワザワとなってしまう。 しかし、だからこそ書く価値があるわけ。 読み手が安心できるような文章など、書く価値などないわけ。 それに読者の期待通りに進む文章なんて、読者にとってすら、本来は、わざわざ読む価値がないでしょ? しかし、「いい子」であることを証明するためには、読む人が「安心できる文章」を書くことが必要。 努力により作られた「いい人」が、なんとなく安心できる文章を書く・・・一見、すばらしいことのように思う方もいらっしゃるでしょうが、本当のいい人は文章など書かないものです。だから組み合わせとしては不自然。 それに、そんな「読んで安心できる文章をわざわざ読むような人」も、どんな人なんだろう?どんな目的で読んでいるの? 「こんないい人の文章を読んでいるワタシって、なんていい人なの?!」 こんなところじゃないの? 本人がそんな形で自画自賛するのは勝手ですが、ちょっと不自然ですよね? その不自然さを「見る」ことが、ダメダメ家庭を理解するための鍵の一つなんですね。 その不自然さに対処しておかないと、いずれはドッカーンと爆発してしまうもの。 抑えに抑えていた本音が爆発してしまうわけ。 なんでもアメリカ生まれで、オーストラリア出身の俳優のメル・ギブソンさんが、ドメスティック・ヴァイオレンスなどを起こしたり、差別発言などをして、色々と問題になっているようですが・・・ 彼も、「ふつう」の、「いい人」になろうと無理をしていたのでは? 彼は、彼が映画の中で演じてきた「いい人」が、ウソっぱちであることを、誰よりも分かっている人と言えるのでは? 必死で自分を騙していて、騙すのに疲れてしまって、騙しきれなくなってしまって、抑えが効かず、大暴れとなったのでは? 彼は俳優ですから、演じることが仕事と言えるわけで、プロとして実際にできてしまうわけですが、「いい人」を演じるのは、心理的なストレスが大きいんでしょうね。 子供が「あの王様はハダカだ!」と、叫ぶように、「こんな『いい人』なんてウソぱっちだ!」と叫びたいのでは?「こんなウソっぱちの映画を見て喜んでいるオマエたちは、なんてバカなんだ!」と言いたいこともあったでしょう。 子供時代に甘える体験をしていない人は、「なあなあ」の加減がわからず、「ウソとの付き合い方」ができない。だから、過剰なまでに清廉潔白になろうとする。 だから、過激なほどに自分を抑え、それが結局は爆発して、転落してしまう。 日本だと、立派な家庭人として知られていたコメディアンの田代まさしさんの転落なんて、同じパターンといえるでしょ? 自分自身を騙すにも、限界があるわけ。 演技のプロとして、演じることに習熟しているので、一般人よりもはるか上のレヴェルまで自分を騙すことができてしまう。しかし、そんなことは、いつまでも続くものではないし、たとえ死ぬまで演じ続けても、そんな親の姿を見続けた子供からトラブルが発生してしまう。 それこそ演劇の周辺において、子供の側から無理が顕在化する例は多いでしょ? まあ、「積み木崩し」で名高い穂積さんや、女優の三田佳子さんのような事例もありますし、海外ではオペラの台本を手掛けたフーゴ・フォン・ホフマンスタールのお子さんが自殺されております。 演技のプロや、ドラマのプロは、まさに自分を騙し通してしまうわけですが、そんな虚偽の中にいる親を見続ければ、子供がどうにかなってしまいますよ。 それこそ、ホフマンスタールは、「自分は社会とのつながりを求めているんだ。」と公式的には言っていましたが、本心は違っていたわけ。そんなことは、彼の作品を読めばスグにわかること。 芸術家はその作品で本音を語るわけで、インタビューとか自作への解説なんて、本当のことなんて言いませんよ。その本音と建前の違いを、身近にいる子供は直視し続けることになる。 あるいは、「積み木崩し」の穂積さんは、「自分はふつうになりたいんだ!」と言っていたようですが、その本音としては、「不幸への憧れ」に執りつかれている。言葉と心理が乖離している人と、一緒に暮らしていたら、子供も対処不能ですよ。 本音と建前の乖離の状態の中で、子供の側は、親が隠している本音の面を指摘してしまう。 だからこそ、親は、子供に何も言わせないようにしてしまう。 子供が自殺する家庭というのは、何も、演劇業界に限らず、親が自分を騙している場合が多いでしょ? そして、自分を騙す習慣は連鎖してしまう。 実家について話題を振られると、「ワタシの親は立派な親だったわ!」とスグに言い出す人がいたりしますよね? しかし、本当に立派な親だったら、そんな人に育てられた子供が、どうしてグチばかりだったり、逆上してばかりなの? 結局は、親譲りのそんな姿を、自分が親になってもやってしまっているわけ。 自分を騙す無理が、世代を超えて積み重ねってしまう。 自分を騙すという無理があるから、その無理を突かれると大きな反応となり逆上してしまう。 「悪いのは全部コイツのせいなんだ!」「だからやっつけてやる!」 そのように、日頃から逆上する親の姿を見ている子供はどうなってしまうの? あるいは、自分を騙すための無理が加速することになる。 自分を騙すために、やることが儀式的になってしまう。 それこそ「子供のために離婚しない。」なんて言葉を、子供に対して言ったりする。 そんな言葉を、親から聞かされた子供はどうなってしまうの? そんなことは子供でもわかること。 そんな無理を、やり取りの相手から突っ込まれるのが怖いので、ボランティアなどをして、自分の善意を先制的に主張するようになる。まさに「作られた『いい人』」を演じるわけ。 しかし、それが本心のものではなく、単なる演技なので、その点を突かれると、過激な反応になってしまう。そんな過激な反応を見続けてきた子供はどうなってしまうの? まさに、率先して「ぼくは『いい子』なんだよ!」と主張し続けるようになってしまう。 そして、その「いい子」が崩れそうになると、逆上したり、自殺したりする。 そんなことが世代を超えて、積み重なっていくわけ。 「作られたいい人」は、まさに自分を騙している人。 自分を「いい人」として見せるために、心理的に張り詰めている人。 だから、ちょっとのことで大きな反応になりやすいんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 アメリカのハリケーンでまたニュー・オリンズが冠水したそうですね。 自然災害はどうしようもないので、お気の毒としか申し上げられません。 しかし、ニュー・オリンズがニュースになったおかげで、なるほど!と思いました。 ニュー・オリンズのオリンズをフランス語読みすると「オルレアン」と読めるんですね。 だから「ニュー・オリンズ」はもともと「ヌーヴェル・オルレアン」だったのでしょう。 まあ、オルレアンの窮地を救いに来るのは、あの女性!!とフランス人なら皆思っているんでしょう。まあ、ニュー・オリンズはフランスと関係が深いわけ。 ニュー・オリンズはジャズの発祥地と報道されていますが、別の面もあります。どうも歓楽街・・・もっと正確に言うと色街として知られていたようです。西部劇で「ニュー・オリンズから来た女性」という役柄ですと、そのような商売をされていた女性ということになります。 そのような歓楽の街(かつては)を、原理主義者であるブッシュ現大統領はどう思っていたのかな?ヘタをするとソドムやゴモラと同じと思っていたのでは?それにブッシュ現大統領は当然のこととしてフランスは嫌いでしょうしね。 そのような背景を考えると、「オレたちは見捨てられたんだ!」というニュー・オリンズの人たちの主張にも、それなりの根拠が出てくるわけ。 オルレアンを救った少女を「たった一人の小娘の命で済めばお安いもの。」と見捨てたように、「新しいオルレアン」も、「街ひとつで済めば安いもの」、って政治家は思うのかな? いずれにせよ、日本の報道だけでは、やっぱり色々な事情はわかりませんので、なんともいえません。しかし、せっかく報道するのなら、嵐の中でカッパ着て「大変だ!大変だ!」と叫ぶだけでなく、そんな歴史的背景から報道してほしいものですね。 |
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R.10/7/22 |