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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(発想と視点編) | |
配信日 | 10年3月6日 (10年9月13日 記述を追加) | |
タイトル | 倫理的な視点と心理的な視点 | |
ダメダメ家庭の人間は、過剰なまでに倫理的な発想をするものです。 「この○○こそが正しい!」 「あの○○は間違っている!」 「あの○○はケシカラン!」 「あの○○をやっつけろ!」 そんな倫理的な主張は熱心にすることになる。 しかし、「じゃあ、アナタ自身はどうしたいの?」なんて聞かれると「どうしてそんなことを聞くのよ!キーっ!」と逆上するだけ。 その種の人にとっては、倫理というのが、いわば自分自身の問題から逃避し、他者のあら探しするための大義名分になっていると言えます。 そうやって、自分自身から逃避してしまう。 ああ!何て、すばらしい倫理なんだろう! 同じ物事や事態を考えるにも、「倫理的に見るのか?」「心理的に見るのか?」それによって見方が大きく違うもの。 今回の文章では各論的に例示しながら、2つの視点を比べてみることにいたします。 たとえば、学校などのイジメですが、 倫理的な視点だと、「イジメはよくない。」となり、 心理的な視点だと、「そんなことをしても、イジメる側にとっても、何も得にはならない。他にすることはないの?」という「プラグマティックな視点」からの疑問になる。 あるいは、成人後の「ストーキング」ですが、 倫理的な視点だと、「相手に迷惑だからやめなさい。」ということになり、 心理的な視点だと、「そんな面倒なことはせずに、自分ひとりで好きなことをサクサクとやったら?」という疑問になる。 しかし、倫理的であるがゆえに、「あの人を正したい!」という倫理的な信念を持ち続け、距離をとることができず突っ走ってしまう。 あるいは、父親を殺すような事件でも、 倫理の問題だと、「親を殺してはいけない。」という正論になるわけですが、 心理の問題だったら、「そんなダメな家庭から、さっさと家出したら?そこでやりたいことをやったら?」ということになる。 父親本人を殺すのだったらまだしも、心理的に抑圧しているがゆえに、父親への憎悪が潜在化されてしまって、「誰を殺したいのか?」そのことを考えることから逃避してしまう。 結局は、その父親への憎悪を抑圧し、アンタッチャブル化されてしまって「誰でもいいから殺したかった」に変化し、自分を騙す。 騙している無理があるがゆえに、無関係な人間を殺して、「自分が一番かわいそうなんだ!」と「認定する儀式」とする。 そして、そんな事件の際に犯人がよく言っている、「虫けらだから殺してもいい。」という言葉ですが、 倫理的な視点だと、「人間を虫けら扱いしてはダメ。」という正論になり、 心理的な視点となると、「しかし、虫けらをわざわざ殺しに行くのは面倒じゃないの?」という疑問になる。 また、未成年の妊娠の問題で、 倫理的な視点だと、「未成年がそんなことをしてはダメ。」という正論になり、 心理的な視点だと、「どうして避妊しなかったの?」という疑問になる。 心理的に抑圧していると、流れのままに行為することはできても、自分で判断することはできない。だから避妊するという判断ができない。逆説的な言い方になりますが、倫理的であるがゆえに、プラグマティックな観点や自分の希望を抑圧し、避妊という判断ができず、結果として未成年で妊娠してしまうことになる。 児童虐待の現場において、 倫理的な視点だと、「自分の子供を愛すべき!」という正論になる。 心理的な視点だと、「そんなに子供を育てるのが無理なら施設に預けたら?」というプラグマティックなサジェストになる。しかし、心理的に抑圧されている人間は「子供を愛すべき!」という命令の言葉はおとなしく聞くけど、「施設に入れたり、養子に出したら?」という、当人の判断をともなうサジェストには猛然と反抗するもの。しかし、何も判断はしないわけだから、虐待は相変わらず続くことになる。 事件があった後になって、関係者が、「問題を知らなかった、ワタシは悪くない!」と弁明することについては、 倫理的に見ると、その論理も妥当となってしまう。 しかし、心理的な観点だと、「関係者が事態を知りたくないがゆえに、何も対処されずに、結果的にトラブルが起こった。」と考える。 戦争に関連して、 倫理的な視点だと、「戦争は悪だ。」と主張する。 心理的な視点だと、「意見の相違があっても、できるだけ話し合いで解決できるようにしたら?」という考えになる。 倫理的に考えることによって、逆にいうと、「アイツは悪だから、悪いのは全部アイツのせいだ!」となり「アイツのせいだから、自分の側が考えたり、対処する義務はない。」となり、結局は、相手を恨むだけ。いわば、自分で判断しないための、倫理的な主張。 そして、「アイツが全部悪いんだから、アイツをやっつけるんだ!」と名目を掲げ、相手を攻撃することになる。 倫理と攻撃は、心理的に近いもの。双方とも、ある種の排他性を持っているでしょ?実際に、「戦争は悪だ!」なんて言っている人は、現実的には攻撃的でしょ? 日の丸反対の現場で、 倫理的な視点だと、「国旗を尊重すべきだ!」あるいは、「かつての日本の戦争責任に配慮すべきだ!」との「べき論」による主張になるけれど、 心理的な視点になると、「嫌いなら避ければいいだけじゃないの?」という疑問になる。 赤と白の布切れに、ハアハアと悶絶すること自体が滑稽ですよ。 そんな日の丸反対などの市民運動に近い存在であり、このメールマガジンで頻繁に言及しておりますボランティアですが、 倫理的視点ですと、「人助けをしているから立派だ!」となり、 心理的な視点となると、「自分の問題を直視することから逃避している。」となる。 このメールマガジンは、ダメダメの心理を考えているのであって、倫理を考えているわけではありません。 「で、結局は、自分自身はどうしたのか?」それを自覚した上で、それを周囲の人間と調整しながら進めていけばいいだけ。 しかし、倫理を持ち出すことによって、「オレは正しいことをやっているんだから、周囲からの合意は必要ない!」となってしまう。 ギャグを書いているように思われる方もいらっしゃるでしょうが、上記の倫理的な人って、実際にそんな感じでしょ?倫理を掲げるのは、一見は立派に見えるわけですが、それで、当人の目標達成には、どれくらいに実効性があるの? 「風邪を引かないようにすべき!」と「べき論」で説教しても意味はない。 「癌にならないようにすべき!」とアドヴァイスしても意味はない。 「ちゃんと定期健診をうけて、予防に注意して、早めのケアー。」と言うしかない。 ダメダメの問題は倫理ではなく、心理の病気と見た方がプラグマティックな対応を取れるもの。 しかし、倫理的な「べき論」を主張することで、そんな実際的な解決がなくなってしまう。 ヘタに現実的な案を提示すると、「自分だけが幸せになっていいのか?」「皆で幸せになることを考えるべきじゃないか?!」と逆上されるだけ。 しかし、そんな過激な反論こそが、自分の直近の現実を見ることからの逃避なんですね。 そして、そんな逃避的な人は、そんな逃避にふさわしいスタイルの判断をするもの。 トラブルが発生して、「オレは悪くない!」との弁明の言葉があると、 マトモな人は、「あの人は、事態をじっくり考えることなく、スグに弁解をする人だから、結果的にトラブルになるんだろう。」と判断して、 ダメダメな人は、「悪くはない」と言っているだから、その人のせいではないんだろうと認定する。 そんな事例だと、代表例がコレ。 居酒屋さんで、「オレは酔っていないぞ!」との大きな声。 マトモな人は、「まあ、すっかり出来上がってしまって・・・」と判断しますが、 ダメダメな人は、「彼は酔っていないと言っているんだから、車の運転も大丈夫だろう。」と考える。 児童虐待が疑われる家庭への訪問で、「オレは虐待していない。そんなことをいうやつは誰だ?ブン殴ってやる!」と、応対に出てきた親が反論する場合でも、 マトモな人は、そんな暴力的な反論をするということは、何かやましいわけだし、子供にもそんな調子で接しているんだから、虐待をしている可能性が高いと判断する。 ダメダメな人は、「強い調子で否定しているんだから、虐待はやっていないんだろう。」と認定する。 ドメスティック・ヴァイオレンスのような事態を見て、 マトモな人は、「そんな暴力オトコを見分けるコツって、どのようなものなの?」と問題意識を持ち、 ダメダメな人は、「この世から暴力オトコを根絶すべきだ!そのためには、どんな暴力的な手段を使うのもやむをえない!」と主張するもの。 同じように、「こんにゃくゼリー」で事故があれば、 マトモな人は、「どうしても食べたいわけではないから買わない。」と判断し、 ダメダメな人は、「こんにゃくゼリーを根絶すべきだ!」と強く主張。 社会において、「二極化」が進行している状況を踏まえて、 マトモな人は、「自分の子供が勝ち組になるようにするには、どうすればいいのか?」を考え、 ダメダメな人は、「二極化許すまじ!!」「何も考えなくても幸福になれるように、政府がなんとかすべきだ!」と主張する。 また、以前から言及しております歯並びの問題では、 マトモな人は、「自分の子供の歯並びが悪いようだから、歯並びを直そう。」と考え、 ダメダメな人は、「歯並びは人格に関係ないと、社会で徹底して教えるべきだ!」「その運動のためには、いくらお金がかかってもいい!」と熱く語る。 ある人から嫌われているとわかったら、 マトモな人は、「自分を嫌っているような人との接触は避ける。」という判断をして距離をとり、 ダメダメな人は、「ボクを嫌わないで!」と付きまとう。 あるいは、「人を嫌わないように、学校で教えるべきだ!」と制度の問題にしてしまう。 子育て支援での補助金が問題になると、 マトモな人は、「財政悪化の折にこんなにばら撒いてしまうと、子供の世代がとんでもないことに・・・これでは、うかつに子供を作れないぞ!」と将来を心配し、 ダメダメな人は、「お金がもらえるんだから、ドンドンと作っちゃえ!後は、子供がなんとかするだろう!」と大喜び。 つまらないメールマガジンを見たら、 マトモな人は、サクっと購読解除。 ダメダメな人は、抗議のメールを送ったり、インターネットの掲示板で騒いだりする。 倫理的な視点が肥大化してしまうから、被害アピールとか、「いい子ちゃん」アピールばかりになってしまう。 常に減点部分に視点が行ってしまって、「自分はどうしたいのか?」が自分でもわからない。 減点を除去するという二重否定的な対処ばかりを考え、自分が求めている状態を具体的に想定できなくなってしまう。 それこそ、「ふつうにしろ!」というばかり。 たとえば、ニートのような問題でも、「ニートをやめる」という二重否定的な対処ばかりを考え、「じゃあ、この人にどうなってほしいのか?」については何も考えない。それこそ自分の子供がニート状態だったら、「自分の子供が最終的には、どんな仕事をして、どんな結婚をして、どんな生活をしてほしいのか?」具体的には何も考えない。 ただ、「周囲に合わせてふつうにしろ!」と要求するばかり。 本来なら、その人の得意分野でも見つける手伝いをしてもいいのでは?あるいは、将来への希望に繋がるようなものを提示してもいいのでは? 「生きていても、何もいいことはない!」と子供の前で日頃から嘆いていれば、その子供がニートになってしまうのは、むしろ当然でしょ? しかし、自分の子供をニートにさせるような親は、「時代が悪い!」とか「政治が悪い!」とか、あるいは「ワタシは、できの悪い子供に当たってしまった!」と子供の前で嘆くばかり。 そんな嘆きを子供の前で言うような親だからこそ、その子供が将来に対して希望を持てずに、ニートになってしまうんでしょ? 「働かなくてはダメ!」という倫理的な問題にしてしまって、「生きていていいこと」「将来への希望」がなくなってしまっているわけです。 倫理的な視点が肥大化してしまっているので、過剰なまでに倫理的になってしまう。 それこそ、自分の子供が聖人君子になることを求めたりする。 しかし、必要なことは、それなりの一般市民になることであって、聖人君子になることではありませんよ。姦淫の感情を持って女性を見ても、それを実行に移さなければいい・・・それが現実の社会のルールでしょ? 逆に言うと、「姦淫の感情を持った時点で、ダメ。」となってしまうと、家の外に出られませんよ。 だからこそ、引きこもりとかニートになってしまうんでしょ? 過剰な倫理は、自分の心の抑圧に直結しているわけです。 第三者的な倫理を持ち出すことにより、自分自身の希望から逃避する。 あらゆることに倫理を絡めることによって、自分の心を抑圧してしまう。 そうなってくると、自分の被害者意識を晴らすのが唯一の生きがいになってしまい、対抗心に逃げ込んでしまう。 倫理的な物言いをする人に限って、「悪いのは全部○○のせいだ!」「だから、あの○○をやっつけろ!」と言っているでしょ? そんな人に対しては、「で、アンタ自身は、何をしたいの?」と聞くと、見事に逆上したりするもの。 そんな類の人は、ダメダメの周辺では実にポピュラーな存在でしょ? マトモとダメダメは、その発想に顕著な差があるもの。 普段から自分で考え、対処する当事者意識があるのか? あるいは、自分が可能な選択肢をわかっているのか? あるいは、スグに被害に目が行き、対応を人任せにするような被害者意識があるのか? そんな点に注目すれば、ダメダメなんて簡単に見分けがつくもの。 そして、一匹のダメダメを見つけたら、陰でもっと多くのダメダメが潜んでいるものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 本文中でイジメ問題に言及しておりますが・・・ チョット前に、上村・・・愛子さんの過去に関連してウィリアム・スタイロンの「ソフィーの選択」の文章を引用いたしました。 昨日、いとやんごとない愛子さんの学校でのトラブルが報道されておりましたが・・・ 「乱暴」な男の子という物言いが、なかなか含蓄がある。 まあ、色々な言葉の中から選択したことが見えてくる。 ちなみに、小学校の男の子の女の子への乱暴となると、それこそスカートめくりのような伝統的な事例を考える人もいるかもしれませんが、そんな事例だと女の子が集団となって、その男の子に抗議することになりますから、それほど大事にはならない。 今回のやんごとない方の事例だと、他の女の子が助けてくれない状況なんでしょうね。 そのような孤立が問題なのであって、単なる乱暴な男の子の問題ではないわけ。 単なるお行儀の悪さとか、「勢いがありすぎる」ようなパターンではなく、もっと対象を絞った形での「乱暴」なんでしょう。 そんな「乱暴」な人に対して、「イジメをやめなさい!」と注意しても効果がない。 そもそも、イジメる側は、その立ち位置としては、「非支配者」なんですね。 家庭内で被支配者だから、その被支配を、下に流そうとするわけ。イジメる側も、自由意志があるわけではない。まさに切羽詰った心情のもとイジメているわけ。 それは、まさに「ソフィーの選択」で記述されていた、アメリカ南部とかポーランドの状況と同じ。 家庭内が支配・被支配の構図となっているのか?それとも、それぞれの意向が反映される状況になっているのか?そんな点については、身分の問題とは関係ない。 イジメる側の子供も、いわば「炭鉱のカナリア」のようなもの。 早いうちに対応しないと、もっと悪くなるし、いわば、「ボクが悪いんじゃないんだ!アイツが悪いんだ!」そんな犯人認定の心理が習慣化されてしまうだけ。 しかし、ダメダメの領域は、その「炭鉱のカナリア」がまったく機能していない・・・それがまさにダメダメというものなんですよ。 |
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R.11/1/2 |