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カテゴリー | 弁解と謝罪 | |
配信日 | 09年1月23日 (10年11月7日 記述を追加) | |
タイトル | 犯人認定恐怖症 | |
備考 | 「犯人認定」されることは否定的な状況であり、それに対する過剰な「恐怖」は、意味的な二重否定状況と言えます。 | |
10年8月25日に管理者によって文章を追加 | ||
ダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強い。 被害者意識が強いので、「自分に被害を与えた加害者は誰なのか?」そんな犯人探しを常に行っている。 「コイツのせいで → ワタシが被害を受けた。」 そのような思考パターンの元に生きているわけ。 そんな人の周囲にいればどうなってしまうの? ウカウカしていたら、自分がその人から犯人認定されてしまうのは当然のことでしょ? まあ、大人同士の付き合いだったら、スグに誰かを犯人認定するような、そんな危険人物から離れればいいだけ。 しかし、家族にそんな人がいたらどうするの? それこそ、犯人認定を繰り返すそんな人が自分の親だったら、どうやって距離を取るの? 親だったら距離を取ることは実際問題としては不可能でしょ? 家族にそんな人がいたら、単に離れることができないというだけではありません。その手の被害者意識が強い人間は、会話の能力がないので、相手になってくれるのは、結局は自分の家族だけという状態。だからそんな人から離れるどころか、向こうから寄ってくる始末。単に距離的に寄って来るだけでなく、犯人探しの対象者として、つまり犯人認定の候補者として見られてしまう。 普段から相手をする自分の家族が、犯人認定の対象になりやすいわけ。 このメールマガジンで頻繁に書いていますが、そんなダメダメな親は、子育ても、親である自分がこうむった被害と考えている。 そして自分の子供を犯人認定して、つるし上げをやって、そのような儀式的行為を通じて、「加害者=自分の子供 ,被害者=親であるワタシ」という構図をより確かなものにするわけです。つるし上げは、「する側」にしてみれば、心理的には「報復」の意味合いとなっていて、つまり相手を攻撃することで、「自分こそが被害者なんだ!」という関係性を確定させようとしているわけ。 親がそんな人だったら、そんな状況は、子供としては、現実的には避けようがないわけ。 一刻も早く、そんな家庭から出るしかないわけです。 何とかしてそんなダメダメ家庭から出たのはいいとして、よく「三つ子の魂百まで」と言うように、せっかくダメダメ家庭の外に出ても、やっぱり親譲りの被害者意識を持っているもの。だって、普段からそんな雰囲気の家庭だったわけですからね。やっぱり「染まって」「なじんで」しまいますよ。 あるいは、大人となって、そんな家庭から出る前にも、たとえば子供時代に学校に通っているような時においても、そんな親譲りの強い被害者意識を持っている。 親譲りの心理を持っているんだから、親譲りの行動となってしまいますよ。だから、クラス内で、誰かを犯人認定して、つるし上げをするという、まさにイジメ行為になってしまう。 ダメダメ家庭の中の犯人認定の雰囲気で培った心理をそのまま持っていて、逆に言うと、家庭の外でも、周囲の人たちを、犯人認定の目で見てしまうことになる。自分以外の人間を加害者として見たり、あるいは、「あの○○さんが自分を加害者として見たりしているのでは?」という警戒心をスグに持ってしまうわけ。 まさに自分の家庭がそうであるように、自分の家庭の外においても、油断をしていたら、自分自身が犯人として認定されてしまって、つるし上げられてしまう・・・そのような恐怖感なり危機感を持っているわけ。 「油断をしていたら、自分が犯人として認定されてしまう!!」 そのような危機感があるので、そんな人は、当然のこととして、自己弁護傾向が強い。 何かトラブルがあると、真っ先に叫ぶことになる。 「ワタシのせいじゃないわ!」 「ワタシは悪くない!」 そんな人って、皆様の周囲に実際にいるのでは? 何も犯人探しをするための議論ではなく、直面している問題についてじっくり考えようということで集まって会議をしているだけなのに、そんな感じで、猪突に自己弁護されても、周囲の人間としては、 「いや・・・コッチは、何も、アンタのせいだって、言っているわけではないんだよ・・・」 「今は、そんなことを議論していんじゃないよ!」 「そんな感じで言い出すと、議論がしぼんでしまうじゃないの?」 「コイツ・・・何をヘンなことを言い出すんだ?」 と、呆れるだけ。 みんなからの犯人認定を避けるために、必死で自己弁護したら、逆に、周囲からの怪訝な視線が、自分に集まってしまった・・・ああ!どうしよう?! そうなっちゃうでしょ? となると、「ワタシのせいじゃない!」と言う自己弁護調ではないパターンを使うようになるわけ。 「アイツのせいだ!」 「アイツが悪いんだ!」 いわば、他者を犯人認定して、その人に周囲の視線を向けるわけ。 ダメダメ家庭出身の人間にとっては、この手の「他者を犯人認定」する技術は、ある意味においては、親譲りの卓越した技術がある。 だって、四六時中、誰かを犯人認定している人を間近で見てきたんだから、上手に、そして自然にできますよ。そもそもダメダメ家庭の人間は、「あら探し」が得意。得意というか、他に能がない。 他者の「あら」を探し出し、「アイツの○○のせいで、ワタシはうまく行かない!」と力説することになる。そんな論理も、まさに親譲りの技術がある。「あら」を探す技術も、そこから被害に結びつける技術も、一般のマトモな人には及びも付かない見事なものなんですね。 そして、それは単に技術の問題ではないわけ。 油断していると、自分が犯人認定されてしまうという危機感や恐怖感があるので、まさに必死なんですね。 そんな危機感があるので、「さて、これから、今回のトラブルの解決のための議論を一緒にやっていこうよ!」と、皆の機運が盛り上がっている最中に、猪突に、「アイツのせいだ!」などと声高に叫ぶわけ。そして「あいつの○○のせいで → この件はうまく行かなかったんだ!オレたちは、かわいそうな被害者なんだ。」と語ることになる。 その手馴れた犯人認定のための説明と、その声高さゆえに、せっかくの議論が、いつのまにか犯人探しの会議に変貌してしまう。 そして、その議論の結果として「全部あの○○が悪い!」となってオシマイ。 そんな会議って、実際にあるでしょ? 何回も書いていますが、犯人認定ばかりを繰り返すダメダメ家庭の人間は、油断をすると、自分が犯人とされてしまうと危機感を持っている。 だから、過剰なまでに、「ワタシって、いい子でしょ?」と、「いい子アピール」に精を出すようになってしまう。 それこそ、ボランティアの連中がその典型でしょ? あるいは、いかにも「ボクって、いい子でしょ?」というアピールに満ちた文章などを書いて自己満足したりするわけ。 「こんな『いい子』のボクなんだから、うまく行かないのは、ボクのせいじゃないんだよ!」 要はそのように言いたいわけ。 まあ、その程度の、自己弁護系というか自己満足系の犯人認定回避の手法もあるわけですが、現実的に多いのは、他者を犯人認定して、自分への犯人認定を回避する手法です。 学校でのイジメなんて、その典型でしょ?あるいは、市民運動の活動において、他者を犯人認定してつるし上げる姿は、「油断すると自分たちがつるし上げを食らってしまう!」という危機感の反映なんですね。あるいは特定の人物をつるし上げる以外にも、「時代が悪い。」とか「政治が悪い。」とかの、いわば一般的で抽象的な存在を犯人認定する事例もポピュラーですよね? 誰かをイジメたり、クレームをつけている側は、心に余裕があるから、あるいは、ある種のレジャーのような感覚で、誰かをイジメているわけではないわけ。 学校などでイジメている側も、市民運動などでつるし上げを行っている側も、「好き」で、あるいは、考えた上でそんなことをやっているわけではない。当人なりの判断に基づいているわけではなく、切羽詰った心理的な恐怖感が元になっているもの。だからそんな人たちに対して、「そんなことをして何になるの?」などと言っても意味もない。 イジメる側としては「アイツを犯人としておかないと、自分が犯人認定されてしまう。」という危機感なり恐怖感があるわけ。 と言うよりも、学校などで『イジメている側』も、むしろ「親に迷惑をかけてはいけない!」と切羽詰っているわけ。もし、自分がイジメられる側になってしまったら、親に迷惑をかけてしまう。だから親に迷惑をかけないように、自分がイジメる側に回ろうとするわけ。 専守防衛ではなく、先制攻撃することで、親が陣取る自分の領地が攻撃されないようにしているわけ。 攻撃側になれば、当人なりの加減ができますが、守備側に回ってしまうと、相手都合になってしまって、対処不能でしょ?だからこそ、先制的に相手を攻撃することになる。過激な平和運動なんて、逆説的になりますが、まさにその典型でしょ?過激な攻撃は、自らの守備的な能力に対する不安の裏返しなんですね。 子育てを親がこうむった被害と考えているダメダメな親に対して、自分が受けたイジメへのサポートを求めたら、どんな事態になるか?それは、ダメダメ家庭の子供には恐怖そのもの。 まさに「ほんっとに、オマエのせいで、また、面倒なことに!」「いったい、いつになったら、親に面倒をかけないで済むようになるんだか?!」と怒り出すだけ。結局は、学校内のイジメと、家庭内での親からのプレッシャーでダブルバインドになるだけ。 イジメられることを回避するためには、誰かを先にイジメるしかない。 だからこそ、他者をイジメるのにも必死にならざるを得ない。 しかし、そんな「心にある危機感」が深刻化する前の、ちょっとしたトラブルの際にも、犯人認定への恐怖感は、明確に見て取れるもの。 ちょっとした議論にも、「ワタシのせいじゃないのにぃ・・・」とスグに言い出す人は、実に危険人物というわけ。あるいは、必死で「ボクっていい子でしょ?」と主張したがる人も要注意人物。 そのような必死さは、そのように先行的に防御しておかないと、我が身が危ないという家庭の雰囲気が発現したものなんですね。 そんな人は、他者への犯人認定以外にも、その他のダメダメ家庭の要素を持っているもの。そんな言葉にヘタに同調したら「入れ込まれて」しまったり・・・と、ややこしいことになる。 そんな人の自己弁護や犯人認定に対して、何気に反対したら、逆に「アンタが反対したせいで・・・このワタシは!」と犯人認定されて、「ワタシはアンタによる被害者なんだから、アンタには何をやってもいいんだ!」と、犯人確定の儀式の生贄にされてしまう。 そんな光景が、頻繁に繰り広げられているのがダメダメ家庭の周囲というもの。だからこそ、そんな兆候を見つけた段階で避けるしかないわけです。 「ワタシのせいじゃないのに・・・」なんて言葉を能天気に聞いていると、それが「アンタのせい・・・」にいつの間にか変わってしまったりするもの。 そんな体験を、実際になさった方もいらっしゃるのでは? そんな犯人認定も、その人の家庭の雰囲気や、その人の親の行動の正確な反映なんですね。 イジメ行為も、まずは「子は親の鏡」ということを理解する必要があるわけ。 そして、頻繁に書いていますが、ダメダメな親は、自分たちのダメダメさが「ふつう」とされてしまうダメダメな環境を求めることになる。 だから、今回の文章で考えている「犯人認定」行為も、周辺環境的には「ふつう」となってしまう。 そんなダメダメな親は、親自身が犯人認定されないように、必死に子供を犯人認定しているわけですし、そんな親に育てられている子供は、クラス内で必死に誰かを犯人認定し、つるし上げる。 そして、「犯人認定が自分に返ってこない」ということが極めて重要になる。いったん設定した関係性が崩れてしまわないように、その関係性の維持に注意することになる。 だからこそ、イジメも止めることができないわけ。 イジメというものは、「あの○○に、△△という問題がある。」から、「あの○○をイジメる。」というものではないわけ。 「自分が犯人認定を食らわないためには」→「あの○○を犯人としてしまうと、その関係性を維持し、確定させることができやすい。」という流れになっている。 対象の存在に意味があるのではなく、対象との関係性に意味があるわけ。 だからこそ、その関係性を維持しやすいことが重要となる。 だから、反撃して来ない弱い立場のものがターゲットになるわけ。 イジメ行為自体が問題になって、それを止めるように指導が入っても、犯人認定の心理があるんだから、「我々がイジメをするのは」→「全部あの○○のせいだ。」という犯人認定の関係性になるだけ。 それこそ、「ワタシたちはイジメ行為なんてしたくはなかったんだけど」→「アイツが△△だから、こんな行為をしてしまうんだ。」という理屈になってしまって、その理屈を確定させるために、更につるし上げをすることになる。 中途半端な介入は意味はないわけ。 ますますイジメ行為がエスカレートするだけ。 犯人認定が日常化してくると、「類は友を呼ぶ」形で同類が集まってきてしまって、ますます、犯人認定の心理が加速し、だからこそ「犯人認定されること」への恐怖も増大することになる。だからこそ、ちょっとのことで火がついてしまう。 重要なことは、犯人認定が充満している心理の問題であり、自分の側が犯人認定されてしまうことへの過剰な恐怖の問題なんですね。 イジメ行為も、その元となる犯人認定の心理と、犯人認定されることへの恐怖感を元に考えてみると、理解しやすくなるわけですし、先日(10年11月)に起こった群馬県での小学校6年生の自殺事件においても、まさにそんな様相になっているわけ。 それはイジメをした側の小学生だけでなく、「ボクが悪いわけじゃないんだよ!」と先制的に弁解している校長の態度にも共通して見えてくるでしょ? まさに、「子は親の鏡」であり、「生徒は教員の鏡」そのもの。 だからこそ、そんな状況の改善を学校側に要求しても、対処は無理なんですね。 それこそ、キリストが言う「盲人が盲人を道案内して、一緒に井戸に落ちてしまう。」状況そのもの。 イジメ問題も、いささかテンポラリーな形で起こっているのなら、それは対象そのものとの相性の問題と言えるでしょう。しかし、常態化している状況だと、それはその背景となっている心理にまで目を向ける必要があるわけです。対象の問題ではなく、対象との関係性の問題になってしまうと、犯人認定の固定化のために、儀式としてのイジメは継続されることになる。 イジメ行為も、犯人認定というイデアが洞窟の壁に映った形象に過ぎないわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 今回のような文章は、頻繁に配信しております。 学校などのイジメ事件において「イジメをやめましょう!」なんて呼びかけても意味ないわけ。 だって好きでイジメているわけではなく、恐怖からイジメているわけですからね。 止めたくても止められるものではありませんよ。 そういえば、埼玉県で女子中学生の自殺の問題で、学校でのイジメとの関連が言われていました。 中学校の発表では、イジメと自殺との因果関係は認められないとか・・・ まあ、そんなことを平気で言うような学校側の発想も、いわば「犯人認定恐怖症」があるわけ。まさに先行防御的に「ワタシたちは悪くないっ!」と言っているわけでしょ? 「悪くない」から事件が起こらないのではなく、「悪くない」と言うような人だからこそ、事件が起こるわけ。 学校の校長も、クラスメートを自殺に追い込んだ生徒も、その心理としては、共通しているわけです。 |
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ここで、発行者による追加の文章です。 (10年8月25日 追加) | ||
この犯人認定恐怖症を理解していると、実によく見えてくるのは09年にお亡くなりになった、アメリカのマイケル・ジャクソンさんのご家族・・・とりわけ「両親」の心理です。 2010年になって、マイケルさんの母親が、やっとのことで、夫・・・つまりマイケルの父親と離婚することになったとのこと。それまでは、離婚の申請はしても、夫の反対で「離婚できなかった」とのこと。 今回、どうしても離婚したいと思いつめた背景には、夫から「マイケルの死は、母親であるオマエのせいだ!」と夫から言われたことが原因とのことです。 マイケルの「両親」は、まさに、今回のお題の文章のためにあるような夫婦といえるでしょう。 マイケルの父親は、マイケルがお亡くなりになった直後は、「薬を処方した医者が悪い!」と医者を犯人認定していましたよね? そして、その後では、今度は、マイケルの母親であり、自分の妻を犯人認定したわけです。 そんな姿は、自分とは別の誰かを犯人認定しておかないと、自分が犯人認定されてしまう・・・という恐怖心から来ているわけ。 そんな父親の姿は、まさに典型的なまでにダメダメであり、つまりは、息子であるマイケル自身も、その犯人認定の対象となっていたことを十分に示しているもの。 そんな親によって育てられたんだから、突拍子もないことをするようになりますよ。 そうなってくると、周囲からの視線が、父親に集まることになり、その父親としては、ますます「オレが悪いんじゃないんだ!」「あの○○が悪いんだ!」「オレこそが被害者なんだ!」と主張するようになるわけ。 まあ、周囲からは、マイケルの父親に対して、非難があったのかもしれませんが・・・ マイケルの父親が、まさに絵に描いたようなダメダメなのは明確として、じゃあ、マイケルの母親は、そんなにマトモなの? そもそも、マイケルの両親は、60年近くを夫婦としてやっていたわけでしょ? 話がまったくかみ合わない状態だったら、60年も夫婦をやっていませんよ。 そもそも、どうして、そんなオトコと結婚したの?教祖様が「てきとう」に決めたの? あるいは、どうして、そんな、しょーもない男との間で、子供を作ってしまったの?それも、5人の子供でしょ? 本来は、夫の本性なんて、結婚後スグにわかりますよ。 その時点で離婚すればいいだけ。 結婚するまでは、天使のような男だったのに、結婚し、子供を持ったら、悪魔のようになったとでも言うの? 離婚するにせよ、もっと早く決断しないとダメでしょ? 少なくとも、そんな男との間に子供を作ってはダメでしょ? そのように考えると、実は、マイケルの母親も、自分の夫と同類なんですね。 だからこそ、夫から「オマエのせいで、マイケルが死んだんだ。」と犯人認定されそうになると、必死で対応することになる。 逆に言うと、「マイケルが死んだのは、母親である自分のせいではない。」となっていれば、特に心が痛まないわけ。実際に、真剣には離婚しようとしていなかったでしょ? 「とりあえず」の形としては、離婚の意思は示しても、今回のような不退転の決意というわけではなかったわけでしょ? 「自分が犯人認定をされそうだ!」となると、必死に対応して、「いや!アイツこそが犯人なんだ!」と主張はしても、「トラブルにならないようにするためには、何をすればいいのか?どうしていけばいいのか?」という点については、何も考えないわけ。 そんな面においては、マイケルの両親は、実に同類なんですね。 自分に犯人認定が降りかかってこないようにしたいがために、犯人認定するための候補者といえる子供をたくさん作ることになる。 そうして、「ワタシたちが、うまくいかないのは、子供たちのせいだ!」と、自分の子供を犯人認定して、後は「あ〜あ、ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と自己憐憫するだけ。 事前には何も対応しないのに、いざ実際に事件が起こってしまったら、「ワタシは悪くないわ!」「あの○○が悪いのよ!」と言い出す人は、それこそ、子供の自殺事件などの後の親の対応に典型的に見られるものでしょ? それこそ、「ワタシは悪くない!」ということを、権威筋に認定してもらうために、裁判などに打って出たり、手記を発表したりする。 しかし、逆に言うと、「ワタシは悪くない!」「あの○○が悪いんだ!」ということを家庭内でもやっていることを想定すれば、その子供の自殺の理由も見えてくるでしょ? ダメダメな親は、子供が自殺するような事件があったりすると、「どうやって、このワタシに犯人認定が降りかかってくることを防止しようか?」という点ばかりを考える。 逆に言うと、それこそがトラブルの理由なんですね。 |
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この文章と似た内容の文章となると「09年2月9日 配信文章 加害者認定への耐性の低さ」という文章もあります。 | ||
R.10/11/7 |