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カテゴリー ダメダメ土曜講座(トピック編)
配信日 10年2月27日
タイトル 判断の積み重ね
「人間が生きることとは、いったいどのような意味なんだ?」
などと言うと、人生論なり倫理的な問題と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、このメールマガジンでは倫理的なり人生論的には考えません。
このメールマガジンでは、どっちかというと心理的に考えております。

だから、ここでは「人間が生きると言うことは、判断し選択することの積み重ね。」そのように定義いたします。「どんな判断をするのか?」そんな問題もあるでしょうが、選択すること・・・それ自体に注目して考えます。
二重否定表現は好ましくはありませんが、選択のない人生はありえない・・・そうとも言えるでしょう。

とはいえ、自己逃避で抑圧的なダメダメ家庭では、そもそも状況認識から逃避し、だから判断からも逃避し、そして選択することからも逃避する。
そんな人間は、生きているのではなく、「死んでいない」という二重否定の状態にすぎない、と言ってもいいでしょ?
このような考えは、皆様も納得されるでしょ?
選択から避けたり、逃避すると言っても、それこそ避けるという選択からも逃避する。

それこそ、このメールマガジンに対しても、「何回読んでも不快だ!」「どうしてこんなメールマガジンを発行するんだ?」とクレームの声を上げることはあっても、購読解除とかの判断はしない。読んで不快だったら読まなければいいだけなんですが、そんな判断ができないわけです。

まったく同じような事例だと、ドメスティック・ヴァイオレンスの状況において、「暴力オトコはケシカラン!」とクレームを付けることはあっても、そんな暴力オトコと別れるという判断はしない。別れないどころか、「あの人はワタシが付いていないとダメになってしまう!」と名目を掲げ、そんなダメオトコといつまでも一緒にいる始末。そして相変わらずグチる。そして周囲に対しては「ドメスティック・ヴァイオレンスを根絶すべきだ!」と主張することになる。そんな立派な主張はしても、ダメオトコと別れるという選択はできないわけです。

あるいは、以前に取り上げた漫画家の家への抗議ですが、本来ならそんな珍妙な家は見なければいいだけ。しかし「見ない」という判断ができない。
避けるという判断も避けるという典型的な事例だと、例の「こんにゃくゼリー」を買わないという判断もできないなんて、まさに典型でしょ?

判断したくないがゆえに、根絶でないと困ってしまう。何も考えなくてもいい状態を正当化しようとする。逆に言うと、「根絶」を主張する人は、判断から逃避する人。
抑圧的な状況下においては、トラブルを避けるという発想自体ができなくなってしまう。そして自分自身の認識なり思考を抑圧しているんだから、そのこと自体も自覚できない。

ダメダメ人間は、当事者意識がないので、判断から逃避してばかり。
そして、うまくいかないと、それをすべて被害ととらえ、自分が判断をしなかった問題にはしない。だから、すべて「ひとのせい」。
そんなことだから、いつまでも判断能力が向上しないまま。
そんな人は、『アナタは今までに、いつ、どんな判断をしたの?』なんて聞いても答えられない。むしろ「どうしてそんなことを聞くのよ?!キーっ!」と「逆上する」だけ。

問題意識がないのでコケやすく、当事者意識がないので、コケたら、人のせい。
そしてトラブルにおいても、被害者意識があるので、「どうして周囲のみんなは、ワタシに対して手を貸してくれないの?」と周囲を恨む。「恨んでいるばかり」なので、周囲からアドヴァイスも得られない。だから、ますますコケる。
そんな流れは、ダメダメ家庭の周囲では、お約束のように繰り広げられているでしょ?

「避けるという選択はできない」人間は、マトモな人間からは避けられる。
だから、「避けるという選択ができない」という事情を「理解」してくれる同類をはべらすようになり、グチで共鳴し、ヘタをすれば結婚してしまう。

以前に書きましたが「スカがスカを選ぶ」ようになってしまう。
ただ「選ぶ」と言っても、積極的に選んだわけではなく、「選ばれなかった」「選ぶことができなかった」人間による、二重否定的な吹きだまりというだけ。

結婚前に「これは問題なのでは?」「このまま行ってはマズイのでは?」というような事態があっても、何も考えずに、つまり「別れず」にそのまま突っ走ってしまうわけ。
振り返る勇気」がない状態となっている。
しかし、そんなカップルが結婚してもうまくいくわけもなく・・・結局は、結婚した後になって「結婚前の問題についてグチる」ことになる。
避けるという判断もできない人間なので、離婚するという判断もできない。
子供のために離婚しない」と周囲に説明して、当人たちは何もしないまま。
しかし、その「子供のために離婚しない」という言葉も、「離婚しない」が先にあって、「子供のために」はどうでもいいわけです。ただ「子供のために」と言っておくと周囲には通りがいいというだけ。

情報に接するにも、自分が判断するために情報を集めるのと、自分が判断の場から回避するために情報を集める場合の2つのパターンがあるもの。判断から逃避する人間は「ワタシはかわいそうな被害者なんだよ!」ということにつながる情報だけを集める。いわば「いいとこどり」のスタイル。
だから、「ワタシは被害者なんだから」→「何もしなくてもいい」「何も考えなくてもいい」という結論になってしまう

それまで判断を積み重ねてきた人は、ちょっとしたやり取りにおいても、自分の判断につながる認識なり、自分の判断のもとになる論理展開があるもの。それが自分の判断とは直接関係のないマターであっても、選択をするための認識や思考というスタイルは発揮されているもの。だから、そんな積み重ねをしてきているということは、話しているとスグにわかる。
常に自分で判断してきている人は、その言葉や文章の流れに重みがある。

逆に言うと、判断から逃避している人も、ちょっとやり取りをすればスグにわかるもの。
事態の認識がいい加減だし、論理展開も、客観的なものではなく、感情的。
それに自分に関係のある事項は、除外して認識し、考え、そして伝えることになる。
まさに「情報の小出し」が頻発することになる。
そんなやり取りは、判断し、結論を得るためのやり取りではなく、判断から逃避し、結論を「先延ばし」するためのやり取りになってしまう。

結論をまとめることから逃避する人間は、結論を出さなくてもいい状況に首を突っ込む。このメールマガジンで頻繁に言及しておりますボランティアがその代表と言えます。

彼らは、相手にアドヴァイスするけど、自分では判断しないでしょ?
そして、必死になって「かわいそうな人」を弁護したりする。
周囲からの情報に対して無反応で、判断から逃避する別の人を、「他人弁護」することで、抑圧的な自分自身を弁護する。

購読者の皆様が実際にやり取りをされる際にも、相手が無反応だと、腹がたってしまうはずです。暖簾に腕押しなら、やっぱり腹が立ちますよ。理解力が劣っていても、笑ってすむだけですが、反応がない相手だとイライラするものでしょ?
ドメスティック・ヴァイオレンスでも、暴力を振るわれた「被害者」が逃げるなり怒るなりするならともかく、相変わらずヘラヘラしていたら、マトモな人でも腹が立つでしょ?
しかし、抑圧的な人間は、反応が苦手。殴られる状態を避けるという反応もできない。
だからこそ、相手からの攻撃性を呼び込んでしまう。
無反応だから、何も起こらないというものではないわけ。無反応だからこそ悪くなるのが人間の現実。
しかし、そんな人が言うのが「ワタシは悪くない!」。

まあ、確かに当人としては何もしなかったわけですから、論理的には「悪くはない」と言えるでしょう。しかし、そんな人は悪くないがゆえに危険な存在。自分を「悪くない」被害者と認定できる状況を自分で求めてしまい、そのために、加害者を求めてしまうわけ。
それこそ「子供のために離婚しない」という言葉は、「子供のせいで離婚できない」となり、「子供のせいでワタシは不幸に!」という感情になる。
だからこそ、加害者たる子供に「復讐」することになる。

判断や選択を積み重ねることによって、人は成長するわけでしょ?
失敗したら、それを踏まえて反省して、次には成功できるようにすればいいだけ。
しかし、判断や選択から逃避しているんだから、知識なり学力の問題はともかく、判断能力年齢でいうと、マトモな小学生以下の低いまま。

むしろ、選択できる状況を破壊しようとしてしまう。それこそ「こんにゃくゼリー」の根絶などと途方もないことを言い出す始末。
しかし、選択できる状況は、自分で考えることができてしまうので、それを義務感として捉え、逆に言うと、自分が追いつめられたような気がするわけです。

判断から逃避するダメダメ人間は、そんな判断の場においては、実に二重否定的。
結婚しないという判断を避けて、結婚する。
グチグチいいながら、離婚する判断を避けて、そのまま。
避妊する判断を避けて、そのまま妊娠。
そんな親に育てられる子供がマトモなわけがなく、親は自分の子供についてのグチばかり。
養子に出したり、施設に入れるという判断から避けて、そのまま養育。
それからでも避妊すればいいのに、また妊娠。
近くにある学校は、問題のある学校なのに、避けると言う判断を避けて、そのまま通学させ、やっぱりトラブル。
そして、そんな家庭に育った子供は「虫けらだから殺してもいいんだ!」と暴れたりする。しかし、虫けらだったら、わざわざ殺すよりも、避ければいいだけ。
そして、自殺するという判断から避けて、そのまま生きている。
もし、自殺事件を起こして、それが未遂に終わっても、たとえば睡眠薬とかカミソリのおき場所を変えるという判断もせずに、そのままの場所でおいている。

そして、そんな家庭では、何も考えずに、周囲の人に合わせているだけのスタイルを「ふつう」と呼び肯定し、自分の周囲の人間にも要求する。
とにもかくにも、何も判断しないわけ。
判断なり選択から逃避しているんだから、死んでいないだけで生きているわけではない。
そんな人は、周囲の人間としては、たまったものではありませんよ。
というよりも、この手の人は、判断することを避けるため、避けることを避けるために、結婚したり、子供を作ったりするわけ。

そして、「これでもういいや!ワタシはふつうになったわ!あとは、この子供にまかせておけ!」

まあ、そんな人の身近にいる側が、死んでしまいそうになる・・・それが現実でしょ?

(終了)
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発信後記

今カナダでオリンピックがやっています。
私としては、特に関心はありません。そんなヒマないもん。
ただ、ちょっと興味深かったのは、上村愛子さんという選手が、学校時代にイジメを受けていたとの報道。
長野県の学校でイジメられていたんだそう。
今頃イジメていた側の人はどのように思っているんだろう?

長野県となると、ちょっと前にリニア新幹線の路線で、突拍子もない路線案を提示し、日本国民の度肝を抜いたところですよね?
そんな長野県について考えていると、以前に配信した文章を思い出しました。
ウィリアム・スタイロン作の「ソフィーの選択」という作品です。
その中に、アメリカ南部と、ポーランドの心理的共通性について触れた文章があるわけです。
以前にも引用いたしましたが、ここで再度、引用してみましょう。

『国の魂、内奥深く荒らされた陰鬱な心、苦悩の中から形成されたその心が、逆境と貧困と敗北からなるアメリカ旧南部のそれと類似しているのだ。・・・退屈なほど一定の間をおいて「よそ者」に規則正しく踏みにじられ、搾取されてきたポーランドは、南部と同じく貧困にさいなまれた農民的な封建社会だ。古い昔からの屈辱に対抗する一つのとりでが精神的な誇りである点も旧南部と共通している。
家系や家名への誇り、それに概して作為的な貴族や身分への誇りがあることも記憶すべきだろう。敗北して、ポーランドもアメリカ南部も熱狂的な愛国主義を生んだ。その他にも、馬や軍事的な肩書きへの情熱、女性を支配下におきたいという欲望、民話を語る伝統、火酒の恵みに耽溺することなども共通だ。それに意地の悪い冗談の対象になることなども・・・
・・・どちらも、何世紀に渡ってすべてを包含する精神分裂病の悪夢を生み出してきた。ポーランドもアメリカ南部でも、残忍と憐怒、偏狭と理解、敵意と友愛、搾取と犠牲、焼き焦がすような憎悪とやるせない愛情と言った相対するものを、同時に作り出してきた・・・』
(「ソフィーの選択」前巻 346ページから)

06年11月に、この文章を取り上げた際には、ここで言及されているアメリカ南部と、ポーランドとの共通性だけでなく、韓国人のメンタリティとも実に近いことについて考えております。
そして、上記の文章は、長野県を語る文章としても、かなりいい線を行っているのでは?

ダメダメのメンタリティというものは、実に近いものなんですよ。
ある種の視点ができると、実に見通しがよくなるもの。
イジメ問題も、ただ「イジメをやめなさい!」と上から説教するだけでは効果がないわけ。その精神的な土壌まで目を向ける必要があるわけです。
 R.11/1/2