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カテゴリー ダメダメ土曜講座(事件・トラブル編)
配信日 10年11月13日
タイトル ユーチューブへの動画流出事件
以前(10年9月)に中国漁船が日本の海上保安庁といざこざをやった事件があり、その問題については、「中国漁船衝突事件」ということで、このサイトで取り上げております。
もちろん、政治的な観点から取り上げているのではなく、トラブルを起こして相手を計る関係チェックの問題なり、日本側の責任者である管さんの、判断不在の「いい子ちゃん」志向の問題を取り上げております。

ダメダメ家庭は減点法であり、何も問題のない「いい子ちゃん」を目指すことになる。
もちろん、何も問題のないことは、結構なこと。
しかし、問題のないのはいいとして、じゃあ、加点法的には何が達成されたの?
あるいは、何を達成するつもりなの?
本来は、そんな問題になるでしょ?

あるいは、事件が起こった際に、「我々の対応は何も問題のなかった。」「我々は悪くはない。」のはいいとして、その人は、どんな役割を果たしたの?あるいは果たそうとしているの?あるいは、どんな認識だったの?

「自分としては、この事件について、このように認識し、このように考えて、このように対処する。」
そのような明確なメッセージを出していれば、逆に言うと、「何も問題がない。」とは言えませんよ。具体性を持った見解なり対応策には、それぞれの立場による利害の違いがあるわけですからね。
つまり、「何も問題がない。」ということは、その存在感が何もないということ。
これは、政治信条の問題ではなく、純然たる論理の問題でしょ?

そんな「存在感がない」リーダーに対して、現場の方が業を煮やしたようで、中国漁船の映像が、例のユーチューブにアップされる事件がありました。海上保安庁の人がやったようです。
その「媒体」としてのユーチューブについては、ここで説明する必要はないでしょう。今は、Googleの傘下に入っている動画投稿サイトですね。

今回の文章では、中国漁船による事件そのものではなく、そのようなもっとも重要な資料が、ユーチューブにアップされてしまったことについて考えて見ます。

そのような重要な資料をどのように扱うのかについては、現実的に政治上の判断もあるでしょう。そして、その判断が当時は物議をかもしても、後で的確な判断だったと言われることもあるでしょうし、やっぱり間違っていたと言われることもあるでしょう。
政治上の判断は、国民感情ではなく、歴史によって検証されることになる。
それこそ、イギリスのチェンバレン首相のような事例もあるわけですしね。
重要資料の扱いだって、そんな面はあるでしょう。
重要な資料の扱いは、まさに高度な政治的な判断であって、現場の一担当者が勝手に流出させていいものではない。

しかし、そんな重要な資料は、重要であるがゆえに、その情報を求める人なり組織は多いもの。
それこそ、日本には、マスコミなるものがあって、形の上では報道を仕事の一つとしている。だからこそ、もし、流出させたその担当者も、重要な情報を、国民に明らかにしたいと覚悟を決めているのなら、その手の既存の報道の組織に持ち込むのが、オーソドックスなやり方でしょう。

つまり、ユーチューブへの流出の問題は、別の観点から見ると、従来のマスコミが素通りされているという面の問題も無視できない。
それこそ、大昔には、沖縄問題の内部情報を入手するために、毎日新聞の記者が役所の女性と「ねんごろ」になり、機密情報を入手するような事件がありました。
そんな取材行為は褒められたことではないにせよ、情報を入手するということは、それなりの覚悟が必要となるもの。それこそが、ジャーナリストの仕事でしょ?
あるいは、内部告発だったら、たとえば、アメリカのニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件というものがあり、政府からの内部情報が、有力な新聞社であるワシントン・ポストにもたらされました。

もちろん、沖縄の機密流出事件でも、アメリカのウォーターゲート事件においても、その当時は、インターネットなるものはない。報道の部外者としては、自分が持っている動画を公開する方法そのものが当時は存在しませんでした。
しかし、今はインターネットがあるから、素人でも、簡単に自分の持っている動画を公開できる。まあ、動画だけでなく、様々な文章も素人でも公開できる・・・今回の私の文章のように・・・

しかし、新聞社だって、テレビ局だって、まだ存在しているし、まだ大きな影響力がある。
テレビで動画を放送してもらえば、インターネットのユーチューブよりも、今の時点ではインパクトは大きいでしょう。
しかし、今回の動画を流出させた人というか内部告発者は、従来からの報道機関を素通りして、いきなりのユーチューブで公開を行いました。
どうして?

まあ、その人は、その手の従来からのメディアを信頼していないんでしょうね。
メンツを潰された格好の政府と従来からの報道機関は、犯人探しに血道をあげて、容疑者を確保しました。
しかし、まあ、そんな様相は独裁国家のお約束といえるでしょう。

しかし、その内部告発者が特定されたと言っても、それが信頼につながるの?
「コイツが犯人だ!」
「悪いのは全部コイツのせいだ!」
「だから、オレたちは悪くはないんだ!」
と、主張したいのでしょうが、たとえ、政府の側が「悪くはない」としても、信頼に繋がるものではないでしょ?今後はこのようなことが起きないようになるの?
起きないようにするには、一担当者の意向も上層部に上がるシステムにすることも必要でしょうし、あるいは、マスコミの側も、重要な情報が持ち込まれやすくする必要もあるでしょ?

今回の流出事件の本質は、信頼というものがなくなっている状況でしょ?
内部告発者だって、雇い主たる政府を信頼していれば、流出による告発などはせずに、直接的に政府に言いますよ。
そもそも、組織というものはその意向が円滑に流れるように運営されているもの。情報なり意向の伝達ルートはもう出来上がっている。
あるいは、内部告発者が日本のマスコミを素通りしたのも、マスコミに対して信頼を持っていないからでしょ?情報を一般国民に伝えるのが仕事の一つとなっている組織に乗せれば、動画の公開は、本来は簡単なはず。しかし、今回の当事者にしてみれば、そんな出来あがっているルートを信頼していないわけです。
この流出事件では、その信頼の不在という様相が顕著になっているんですね。
だから、犯人を特定して、つるし上げても、信頼がない状況は変わらないでしょ?

逆に言うと、信頼とは無縁の状況だからこそ、信頼ではなく好意を志向することになり、素通りされ、相手にされなかった側は、「悪いのは全部コイツのせいだ!」と言おうとする。信頼回復ではなく、「ボクちゃんを好いてよ!」「迷惑を受けたボクちゃんに同情してよ!」というアピールになっている。

今回の流出事件と、その後の政府やマスコミの対応を見て、この私が感じざるをえないのは、これ。
「やるせないなぁ・・・」

今回の政府の対応は、たまに発生するこんな事件の後の周囲の対応とそっくりでしょ?
家庭内で自分の子供を虐待している親がいる。ヘタをすると性的な虐待のケースもある。
虐待されていた子供が思い余って、親を殺害する。
そんな事件が発覚した後で、周囲の大人たちは、親を殺害した子供を逮捕して、「親を殺すなんてケシカラン!厳罰にするんだ!!」「公開処刑だ!」と息巻く。

そんな事件の流れとまったく同じでしょ?
そこにはお互いを肯定するような関係、別の言い方をすると信頼関係が何もない
本来なら、親から虐待を受けていた子供も、親を殺害する前に、周囲の人間に助けを求めることができれば、ことは大きくならないでしょ?
しかし、周囲としては、知らん振りを決め込んで、事が起こってから大騒ぎする。
そして、今まで子供を見捨てていた周囲の側が「オレたちこそが、被害者なんだ!」と騒ぐ。
騒ぐことそれ自体によって、「自分こそが被害者」という関係性を自分で確認してしまう。

たまにそんな事件が起こったりするものですが、そんな事件の報道に接すると、皆さんだって「やるせないなぁ。」と思うでしょ?
だって、地震のような自然災害ではなく、その手の事件だったら周囲の人がしっかりしていれば、防ぐことができた事件ですしね。そして、周囲の人が、その反省を口にしていればまだしも、むしろ、追い詰められていた子供の側を糾弾して、大喜びしているだけなんだから、やるせなく思いますよ。

「自分こそが被害者」という感覚は、それこそ今回の動画流出事件で言うと、政府だけでなく、従来からのマスコミも全く同じでしょ?
「どうして、そんな価値ある動画を、自分たちに持ち込んでくれなかったのか?」
そんな問題意識は何もないでしょ?

それこそ、虐待されていた子供が親を殺害した後で、「そんなに思いつめていたのなら、オレに相談してほしかった・・・」と自ら反省する大人だったら、まだマシなんですが、現実の大人は「親を殺すなんて、ケシカラン!」と立腹しているだけ。
ただ、「悪いのはアイツだ!」「オレたちは悪くはない!」と言っているだけ。
そして、「こんな状況になっていることなんて知らなかった。」「ワタシたちは何も間違った判断はしていない。」と繰り返すことになる。
逆に言うと、そんな弁解を言うために「何も知ろうとしないし」「何も判断しない」んでしょ?

そして、逆に言うと、「悪くはない」がゆえに、存在感もなくなってしまっている。
だって、何も知らないし、判断もしないんだから、存在感どころではありませんよ。
何か不祥事があると、「何も問題がない。」とかの言葉で弁解をされるケースも多いわけですが、問題がないがゆえに、信頼感も価値もなくなってしまっているといえる。

そもそもマスコミというかメディアというのは、まさに媒体であって、情報を素通りされてしまったら、その集団としては、何の価値もありませんよ。
情報を持ち込んでもらわなければ、あるいは、情報を取りにいかなければ、自分たちの中に情報がなく、その役割自体が存在しないわけでしょ?情報の発し手と受け手をつなぐのがメディアというもの。

しかし、自分たちで判断し行動してしまうと、何かあった時に「悪くはない」「問題がない」とは言えなくなってしまう。
逆に言うと、スグに「悪くはない」「問題がない」と弁解の言葉を言い出す人は、「何も知らないし」「何も判断していない」といえる。
つまり、結局は、当人たち自身にしても素通り状態に徹しているわけです。
だからこそ、重要な情報も素通りしてしまうし、情報だけでなく、人も素通りしてしまう。

自分たち自身では何も判断しないから、相手から合意を取るという発想がない。
だって、わかってほしいことそれ自体が存在しないわけですからね。
だからこそ、会話による合意形成ではなく、支配・被支配の関係性を作り上げ、その中で自分の意向を通そうとする。
合意による統治ではなく、支配・被支配による管理なので、そこから外れたものに対しては、厳罰で対処することになる。
そんな聞く耳持たぬ姿勢によって、ますます信頼から遠くなり、ますます素通りを生んでしまうことは、小学生でもわかること。

どんな事件においても過程があり、そして結果がある。
今回の流出事件では、動画流出という結果だけを見ると、インターネットの問題なり、流出させた保安官のモラルの問題といえるでしょう。
しかし、その過程をみると、信頼の不在という状況があるわけです。

そして、信頼の不在という状況は、国家でも家庭においても、末期症状の典型と言えるでしょう。
だって、お互いが不信の目を向け合っている状態で、どんな善後策を取るの?
何かを一緒やっていこうとする場合には、そのベースとして信頼関係が不可欠でしょ?
しかし、「知らなかったから」→「ワタシは悪くない」という人が、首相になったり、親になったりする。
結局は、立場の弱いものにそのしわ寄せが集まってしまい、そして、その歪みが集約し、ドッカーンとなってしまう。
そういう意味で、今回の動画流出事件は、衝突事件だけでなく、もっと普遍的な問題もよく教えてくれているわけです。ただ、そこから問題点を「知ろう」とするのかどうかは、個人の問題でしょう。
「ワタシは悪くはない。」という弁解を言いたがる人は、犯人探しにつながるセンセーショナルな点については詮索しますが、その事件から見えてくる普遍的な問題については見ようとしないもの。
だからこそ、何も対処せずに、同じ問題が繰り返されることになるわけです。

知るということは、付随した責任を背負うということ。
それを回避したがるのも、また人間の姿と言えるでしょう。
ただ、そこには尊厳がないというだけですし、そんな人との間には信頼関係を築くことができないでしょ?
反論がないことが信頼につながるものではありませんよ。
いつでも反論が言えることの方が信頼につながりやすいものですよ。

「ワタシは悪くない。」という弁解の言葉を聞いて、『この人は信頼できる。』と思ったことはありますか?
逆に言うと、そんな弁解の言葉がスグに出てくる状況だと、その周辺に信頼というものがなくなってしまっていることを示している。
ダメダメの問題は、あることから考えるのではなく、「何が不在なのか?」を見る必要がある。
実際に、今回の動画流出事件について考えるに際し、信頼の不在という観点からだと、実に見えやすいものでしょ?
 R.11/2/4