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カテゴリー ダメダメ土曜講座(トピック編)
配信日 09年4月18日 (10年7月29日,11年2月10日 記述を追加)
タイトル ワタシはボランティア♪
休日に家にいるとチャイムが鳴る。
新聞の勧誘の場合が多くありますが、別のパターンもあります。
玄関のドアを開けると、新聞の勧誘の人とは趣が違った人が立っている。
立っているその人が言う、「ワタシはボランティアをやっています!」そして「何か困っていることはありませんか?」

まあ、「何か困っていることはありませんか?」と初対面の人から言われて、自分の困りごとをべらべらと言う人はいないでしょう。
そんなことは、ちょっとでも自分で考えればわかること。
逆に言うと、そんな程度のことも、自分で考えることができない人が、「ワタシはボランティアです。」と言っているとも言えますよね?

このメールマガジンではボランティアとダメダメ家庭の関係について言及することが多くあります。そんな人間の元に「ワタシはボランティア!」と宣言されても・・・
それって、「ダメダメ人間見参!」と宣言するようなもの。
しかし、現実に「ワタシはボランティア!」と宣言する事例が多いもの。
そんな人は、以前に書いた「ボランティア顔」をしている。

貧相な作り笑いで、オドオドした雰囲気。
自分のやっていることに信念なり使命感がある顔とはとても言えない顔。

ボランティアと名乗っても、宗教団体の例もありますし、市民団体系のボランティア団体の例もあるようです。だったら、その団体の趣旨なりバックボーンを説明してもいいのでは?
どうして冒頭に「ワタシはボランティア」と、一般論的で、「あいまいな物言い」で名乗るの?

ボランティアは、「してやる!」という上からの立場の宣言でしょ?
物言いも「上からの物言い。」
上からの立場なので、ダメダメにお約束の「序列意識」とつながっている。
それに加えて、「してやる」という物言いは、自分たちが「持ち出しがある」「わざわざしてやっている」という「被害者意識」とつながっている。
「わざわざしてやっている。」という発想が基本となっているので、不都合な事態になるとスグにトンズラしてしまうもの。

やり取りの冒頭で「ワタシはボランティア!」と名乗ることで、自分自身の「持ち出し」と、相手との序列関係と、イザとなったら逃げてもいいという大義名分を確定させようとするわけです。
ダメダメ家庭の人間は「見返り義務感」を持っているので、「恵んでアゲれば」、実際に支配しやすい。
支配・被支配の構図」を作り上げるのは、比較的容易な対象といえる。
しかし、その手のボランティアが言う、「困ったことはありませんか?」などと、上からの親切心の表明が、よりにもよって、その面におけるエキスパートたるこの私に通用するわけもなく、見事に切り返すと、本当にあっさりとトンズラするものですよ。

それこそ、「後で連絡する」なんて、穏やかな捨てせりふを残してトンズラしてしまうもの。
逆に言うと、スグにトンズラできるように、相手の都合は考えないで、「攻撃的に自分の善意を語る」わけです。
結局は、自分でやり取りをリードしないと対処ができない
言いたいことはあっても、相手に分かってほしいことはない。
わかってほしいことがないので、やり取りにおいて、相手から合意をとるという発想もない。だから、説明能力が低い。だから、一方的に言い渡すだけになってしまう。
言葉のサプライサイドが暴走しているだけ。ただ、「言った」という事実を作りたいだけ。
当事者意識がなく、自分ひとりでやることがないので、ダメダメ人間は「ワタシに構って!」と周囲に期待する。
しかし、被害者意識があり、自分のペースを守りたいので、そんな人は「アナタに構ってアゲル!」と上からの物言いになってしまう。

その手の、自称ボランティアは、被害者意識が強いので、相手が語る「被害には食いつきがいい」わけですが、日常的な問題には対処はしない。
そして、結局は、グチの共鳴になってしまい、「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くだけ。

「構ってアゲル」というスタンスの人が親になってしまうと、自分の子供を呼びつけて、「今はヒマだから、オマエの相手をしてやるぞ!」というような親になるのは当然のこと。
そして、ボランティア活動によって、「人々の失敗例を収集」し、自分よりもかわいそうな人間の事例を集めて、自分の子供に対しては、「こんなに困っている人がいるんだから、オマエは幸せなんだ!」「下には下があるんだぞ!」、「だから、オレに対して何も要求するな!」「頼みごとをするな!」と主張し、自分の家庭などの身近な問題から逃避してしまう。
そして、「いい人」としての自分を、アピールし、周囲の人にふりまくことになる。

いわゆる「いい人」というのは、現実的にみると、目の前にいる人が困っているかどうかには関心がない。
困っている人の周囲にどんな人がいるのかが重要となっている。
周囲にいるギャラリーから「アナタはいい人ねぇ!」と絶賛してほしいだけ。
だから、ボランティア自慢をしたがる。
「ほめて!ほめて!ボクちゃんをホメて!」「ボクちゃんは、こんなにいい子なんだよ!」
そんなオーラが漂っているもの。
自分自身をボランティアと名乗る人や、ボランティア体験を語りたがる人って、そんな人が多いでしょ?
そのまま突っ走ると、ボランティア顔どころか、北朝鮮のような「押し付けがましい笑顔」になってしまいますよ。

「ワタシはボランティア!」という冒頭の宣言から見えるものは、相手からの突っ込みに対する恐怖心です。それだけ自分では何も考えていないし、考えたくない。あるいは、会話が怖いという心情がある。
そして実際に突っ込まれたりすると、お約束のようにトンズラ。
人物は違っても、そんな対処の仕方は共通している」もの。

「ワタシはボランティア!」との宣言は、当事者意識でもないし、部外者意識でもないでしょ?いつでも逃げられる腰が入っていない立ち位置からチョッカイを出すという宣言でしょ?
そんな人が「頼り」になるわけがないじゃないの?

あるいは、「ワタシはボランティア!」と宣言する以外にも、「ワタシはボランティア活動は立派だと思います。」なる賛同の宣言をなさる方もいらっしゃります。
それこそ、そんな文言はインターネットでの書き込みには多いのかな?
ボランティア活動に賛同するのなら、それは個人の信念ですから、それは個人の問題ですよ。たまに、誤解なさっておられる方もいらっしゃいますが、この私は、この一連の文章において、ボランティアを「非難」しているわけではありません。ボランティアとの距離の取り方を考えるための視点を提示しているだけです。私としては価値判断をするつもりはありません。
私個人の価値判断などは、無理に公開する必要はありませんよ。
考えるための視点だからこそ、提示することに価値があるのでは?

同じように、「ワタシはボランティア活動を高く評価しています。」という価値判断も無理に相手に伝えなくてもいいのでは?高く評価しているのであれば、それを誰かに伝えることよりも、その活動に参加するのがスジというもの。
しかし、ボランティア活動への賛辞を語ることは、実際に活動すること以上に、「逃げ口」に近くなるでしょ?当事者意識もいらないし、明確な部外者意識もない。それだけでなく、それ相応の「いい人」認定も得られる可能性もある。

私としては、ボランティア活動そのものよりも、「ワタシはボランティア!」と言葉がでてくることに対して警戒を持つ必要性を指摘しているだけです。
まあ、「ワタシはボランティア。」と語る人とやり取りをすると、まさに虫唾が走るような不快感があったりするもの。
「ワタシって、いい人でしょ?」という押しつけがましい人とのやり取りは不快そのものですよ。
いい人志向のダメダメ人間は、困っている人を助けるというよりも、「ワタシはボランティア。」と言いたいがためにボランティア活動をするわけです。活動そのものよりも、「いい子ちゃん」としての自己紹介のためのネタとして有効となっているわけです。
ボランティア活動が主なのではなく、「ボランティア活動を語ること。」が主になっていて、実際の活動は従になっている・・・そのように見ると、その手の人の言動も理解しやすいものなんですよ。
逆に言うと、その人には「嫌われてもやり通す」信念もないので、周囲からの評価を異常に気にすることになる。

インドで活躍されたマザー・テレサさんは、「ワタシはボランティア!」と周囲に語ったでしょうか?逆に言うと、あえてその言葉を語ることから見えてくるものも多いわけです。
「ワタシはボランティア!」と語っても、「このようなことが得意ですから、もし、この分野で困ったことがあればご連絡ください。」という具体的な形では言えない。
しかし、だからこそ、宣言された側としては、何ともしようがない。
そんなことは、ちょっと考えれば、誰でも分かることでしょ?
つまり「ワタシはボランティア!」と宣言する人は、人の気持ちが分からないし、分かろうともしないんですね。

いや、ホント。
人物以外は、全部同じ・・・顔から、服装から、物言いから、態度まで・・・それが、「ワタシはボランティア」と名乗る人。
皆様のところに押しかけるボランティアも、そうじゃないの?

(終了)
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発信後記

前回配信の文章で、最近のアニメ作品である「とらドラ!」を取り上げました。
抑圧に起因する共依存を描いた作品としては、実によくできていると思います。
抑圧とか共依存をテーマにする作品は、実は、それほど多くはないもの。

抑圧というものを、作品として纏め上げるのは、難しい。
作品としてまとめることができないことが、抑圧というもの。
そもそも「一つの案件について、一つの文章」にまとめることすら出来ない人が多いのに、それを客観的な作品にするなんて、至難の業ですよ。

あの「とらドラ!」でもそうですが、その心理を読み解くためには、アニメばかり見ている人にはできないこと。ヘンな話になりますが、このメールマガジンの文章を「ある程度」理解するくらいにならないと無理でしょう。
このメールマガジンでは、ダメダメの心理を考えるにあたっては、その人が「言っていること」「していること」から考えるのではなく、「言おうとしないこと」「しようとしないこと」から考える必要があると、頻繁に書いています。

抑圧をテーマにした作品であればあるほど、その傾向が強いわけ。
共依存となると、今回の文章で言及しているボランティアの連中がその典型ですが、彼らは「他人のこと」については色々と言及しても、自分のことは何も言えないでしょ?
自分自身について「言おうとしない」ことから、彼らの問題が見えてくるものなんですね。
R.11/2/10