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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(発想と視点編) | |
アップ日 | 10年12月4日 | |
タイトル | 二重否定的生活 | |
ダメダメ家庭は、当事者意識がなく、自分で達成したい目標がない。 肯定方向にアクションを起こすことはしない。常に何かを否定しているだけ。 そして、その否定が積み重なって、二重否定となる。 そのようなことは、このサイトで頻繁に言及しております。 そして、そのような二重否定的な表現や行動については、カテゴリーとしてまとめたり、トピックとしてまとめたりしております。 今回は、時系列的なまとめ方で、ダメダメ家庭の二重否定的なライフスタイルを記述してみましょう。 そもそも、子供を作ることも二重否定の結果となっている。 自分で自分の将来を考えることがイヤだから、判断を丸投げする対象がほしくて子供を作るパターンが多い。そんな発想は、自分で考えることの不快さという否定形と、子供の人格の否定という形での二重否定と言えるでしょ? 将来を考える際も、いわば否定形であり、現状認識も否定形が基本となっている。 不快なことに、しぶしぶ、対処する・・・そんなスタイルになっている。 発生したマイナスに対処するスタイルしか持っていない。 あるいは、子供を持つことも、「子供がいないと、格好が悪い。」とか、「他にすることがないから、子供を作る。」パターンが多く、そのパターンは、別の言い方をすると、「子作り以外は、することがない。」という二重否定でしょ? また、抑圧的であり、選択から逃避するので「子供を作らないという選択をしない。」という二重否定の結果として子供ができてしまう。 そんな思考停止状態を「ふつう」と言って肯定する。 あるいは、「いつの時点で子供がほしいのか?」などについて何も考えないから、何も対処せずに、スグに妊娠してしまう。そのようなケースは、子供が好きだから、子供ができたのではなく、親になる覚悟がないから、子供ができたという否定的な心理の結果なんですね。 あるいは、「他に相手になってくれる人がいないから、子供がほしい。」というパターンは、「子供以外に自分の相手になってくれない。」となり、まさに二重否定。 子供を持つ際にも、「避妊するのが面倒だから、結果的にできてしまった。」場合には、「避妊」と「面倒」という二重否定。 ダメダメ家庭においては、子供は生まれた段階から、否定形の心理の結果として生まれてくることになる。当然のこととして、そんな親から、子供自身のアイデンティティを肯定してもらえるわけがありませんよ。 そんな子供は、親から適切に保護されない。 気分次第で構われるだけ。 「他にすることがない」という二重否定状況になった時のみに、構われることになる。 そんな親は、子供に対し「ふつうの子供になれ!」と要求する。 「ふつうの子供」というのは、「特に顕著な欠点がない。」という二重否定的な状態の子供ということでしょ? 発想が減点法であり、親としては、あら探し的な観点で子供を見ることになる。 そして、気に入らない点を見つけると、つるし上げをすることになる。 「つるし上げ」って、「気に入らないもの」を「攻撃する」という二重否定的な行動でしょ? そうなってくると、子供も失敗を恐れ、引きこもりのような事態になってしまう。 引きこもりも、その家が気に入っているから、家にいるわけでもない。外の世界でトラブル状態になると、家庭において、何もサポートがないがゆえに、家にいるしかない状態。 外の世界でちょっとでもトラブルになると、親から弾劾さえるんだから、外にも出られませんよ。 つまり、サポートとかメンテナンスができないがゆえに、外にはいられないという二重否定となっている。 そのような状況に対処する際には、その家庭が機能不全に陥っている点に対処する必要があるわけですが、「自分の子供を愛さない親はいない。」という堂々たる二重否定の正論が登場して、ダメダメな親を弁護することになる。 子供としても、そんなダメダメな家庭から脱却することを考える。 それこそ、進学とか就職を利用して、そんな家庭を出ようとする。 しかし、ダメダメな親は、日頃から子供についてのグチばかりなのに、いざ、子供がその家庭を出ようとすると妨害する。 「出ようとすると、妨害する」という二重否定的な行動となる。 それこそ、「外に出て行くと、もっと悪くなるぞ!」と、二重否定的なアドヴァイスをし、「信じられるのは、血が繋がった家族だけ!」と言ったりする。 以前も書きましたが、「信じられるのは、血が繋がった家族だけ」ということは、「血が繋がっていないものは、信頼できない」という二重否定的な意味でしょ? その言葉は、「血が繋がっている間柄は信頼しあえる。」という肯定的な状況を意味はしていない。 あるいは、「ここから出て行けば、もっと苦労するぞ!」というのは、ダメダメ家庭だけでなく、それこそカルト団体ではお約束の文言でしょ? 逆に言うと、ダメダメ家庭は、カルト団体とメンタル的に近いといえます。 出身家庭と、何とか、完全に断絶状態にすることができれば、それなりの成果といえるでしょう。それはそれで一つの判断といえるでしょうからね。 しかし、外の世界でトラブルになることも多く、あるいは、親からの圧力に屈して、結局は、実家にい続けたりするパターンも現実的には多い。まさに、「他に行くところがない。」という二重否定的な状況に収まってしまう。 あるいは、場所的には近いけど、なんとか同居は避けているという、「つかず、離れず」というパラレル形式の二重否定的な状況になるパターンもある。「つかず、離れず」の状態は、実家のダメダメをまだ自覚していない状態といえます。というよりも、認識や判断から逃避しているといえるでしょう。 ただ、「な〜んとなく」一緒にいるとイヤ・・・という雰囲気的な次元でとどまっている。 だから、結局は、「ふつうにしなきゃ!」ということで、「な〜んとなく」結婚したりする。 結婚相手について、当人なりに考えて選択はしない。 まあ、「この人くらいしか、こんなワタシとは結婚してくれないだろうなぁ・・・」という、消去法的な選択があるだけ。そんなことだから、結局は、その人の親と同じようなダメダメ家庭を作ることになってしまう。 生まれたことからして二重否定なので、その手の人は、まさに二重否定的な言葉を頻繁に使ったりする。 それこそ、ダメダメにお約束の「ふつう」という言葉も、前にも書きましたが、「変わったところがない」という二重否定でしょ? そして、その「ふつう」よりも、少しはマシといえる、「いい子」とか「いい人」も、「人に迷惑をかけない。」という意味になり、本質的には二重否定であって、「○○を達成した。」とか、「△△といういい点がある。」という肯定的な意味ではないでしょ? そんな人は、誰かとの結びつきも、「離れられない」という依存的な関係となってしまう。 愛情とかの肯定的なものではなく、あくまで二重否定なんですね。 そして、やり取りにおいては、スグに「正しい」とかの言葉を使うことになる。 「正しい」という言葉は、「それ以外は認めないという」排他性を持った二重否定でしょ? もし、単純な肯定だったら、「適切」とか「有効」とかの言葉になりますよ。 そして、その手の人は、平和運動などが好き。 平和というと、「争いがない」という二重否定でしょ? しかし、「争いがない」と言っても、そこがすばらしいとか、楽しいということを意味しているわけではないでしょ?楽しさという感情を認めてしまったら、不快という感情も発生してしまう。平和という状況は、不快という状況が発生しないように、感情全体を抑圧する状況になっている。まさに北朝鮮のような状況なんですね。 あるいは、この手の人は、アジア好きだったりするもの。 アジア好きと言っても、「アジアにある○○という国の、△△が好き・・・」という具体的なものを肯定したものではなく、むしろ、アジアでないもの・・・つまり欧米が嫌いという二重否定的なパターンに近いでしょ? そして、この手の人は、よく「ワタシはあの□□を反面教師としている。」と語ったりするもの。反面教師は、「気に入らないもの」とは、別の行動をする・・・ということで、まさに二重否定。 そして、その手の人は昨今話題の言葉である「いのち」という言葉を使うことになる。 「いのち」とは、「死んでいない」という意味の二重否定でしょ? もし、生きていることに実感があるのなら、「いのち」なんて言葉は使わずに、そのまま「生きる」という言葉を使いますよ。 そんな人は、まさに「死んでいない」という「いのち」を守るために、「生きること」を捨ててしまっている。 本当に「生きる」ためには、「肉を切らせて、骨を切る。」くらいのチャレンジをする必要があるでしょ?以前にも言及いたしましたが、とにもかくにもチャレンジすること、それ自体に意味があるというパスカルの賭けの理論は、「いのち」には役に立たなくても、生きるためには必要ですよ。 しかし、ダメダメ家庭では「ふつう」というお題目を掲げ、「いのちを守る」という大義名分を掲げ、「生かさず、殺さず」の状態にしてしまう。 「生かさず、殺さず」は、パラレル形式の二重否定であり、「殺さず」という点ではシリアル形式の二重否定でもあるでしょ?まさに、二重否定の王様のようなもの。 しかし、そんな「生かさず、殺さず」の日々が楽しいわけでもなく・・・ かと言って、当人としては「生きる意欲もないし、自殺する覚悟もない」まま。 まあ、何をするのもいいわけですが、その前に、ちゃんとしたチャレンジをしてみてもいいのでは? しかし、当事者意識がないので、チャレンジしないための言い訳を持ち出し、「あーでもない、こーでもない。」とパラレル形式の二重否定のやり取りになるばかり。 それこそ、「子供がいるから離婚しない。」なる言葉を持ち出すことになる。「離婚しない」なんて、まさに二重否定でしょ?二重否定であって、肯定形の「やり直す」「この点を改善する」にはならない。 常に否定的な精神なので、故意のあら探しをして、自分が否定する対象をわざわざ探すことになる。 ダメダメ人間は、何かを否定してばかり。 しかし、「生きているだけですばらしい。」という文言で「死を否定」して、結局は、ダラダラと生きている。そして、その負担を自分の子供に押し付ける。 そんな環境で、肯定の精神なんて、どうやって得ればいいの? ということで、よほどの自覚がない限り、ダメダメというものは、結局は、連鎖してしまうものなんですね。 |
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R.11/2/12 |