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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(表現と作品 編) |
配信日 | 10年3月13日 (11年1月20日 記述を追加) |
タイトル | 読解力 |
チョット前(10年)に、いとやんごとない方の学校でのトラブルが話題になりましたよね? このメールマガジンで、たまにそのやんごとない方々の問題を取り上げることがありますが、私としては、制度として、その家族のことを考えているわけではありません。 一人の人間として、あるいは子供として、その人なりの幸福を得ていくためにはどんな視点が有効なのか?あるいは、様々な境界領域的な家庭における問題点を顕在化して、解決していくための方法論・・・そんなことを考えているだけです。 さて、その手の事件がインターネットのニュース欄にあったりすると、それこそ閲覧者のコメントが載ったりしますよね? その手のコメントは結構役に立つもの。 「なるほど!ボンクラな人は、こんなことを考えたりするんだねぇ・・・」 ダメダメというものは、「何を言っているのか?何をしているのか?」そんな点から考えるよりも、「何を言おうとしないのか?何をしようとしないのか?」あるいは、「どんな点を見ていないのか?理解できないのか?」そんな「不在を認識する」ことが必要になってくるもの。 そのためには、ボンクラな人の実際の表現に当たることも必要になってくる。 さて、今回のやんごとない愛子さんの事例において、宮内庁がコメントを発表しましたよね?それこそ、「かばんを投げる、廊下をすごい勢いで走る、大声を出す、授業中に教室で縄跳びの縄を振り回す。」とか。 そんな宮内庁のコメントに対して、『それくらいなら、ふつうじゃないのか?』などとインターネット上に書き込んでいるコメントがありしました。 そんなコメントを読んだ私としては、まさに「なるほど!!」と感服した次第。 「サスガにボンクラは、スゴイ感想を持つもんだ!」 宮内庁がコメントを出すのはいいとして、そしてそのコメントの中に、「かばんを投げる、廊下をすごい勢いで走る、大声を出す、授業中に教室で縄跳びの縄を振り回す。」なる記述があったとは言え、「じゃあ、それだけなのか?」というと別問題でしょ? その他のトラブルは、起こっていないとも書いていない。 発表した側は、多くのトラブルのうちで、都合のいい、そして事態解決のために効果的な事例を上げただけでしょ?そして、その事態解決と言っても、当然のこととして発表した側が有利になるようなものに決まっていますよ。 それこそ、ダメダメ家庭によく出てくるグチの言葉である「夫は子育てに非協力的だ!」と同じ。 その言葉はいいとして、「子育て以外には協力的なのか?」その点は、語られない。 そんなグチは、周囲への通りのよさが優先され、実態を正確に記述したものではない。 宮内庁だって、4つのトラブル事例の全部を公表したのか?それとも、20のトラブル事例のうちで、「代表的な」4つの事例を公表したのか?それによって違うでしょ?それに20のトラブル事例の中から4つの事例を選択したとしたら、その選択には、それなりに意図がありますよ。 宮内庁のコメントは、多くの人に宛てたものであって、いわば他者が読むことを前提としている。個人が持ったり語ったりする、単なる感想ではない。他者に読まれることを前提としたプロが作成した文章であって、表現だって微妙にオブラートをかけたりもしますよ。 しかし、ダメダメ家庭の人間は、「他者というものが心理的に認識できない」。このことについては、以前に配信しております。 他者を認識できないんだから、「客観」というものも、心理的に認識できない。 そんな人は、文章があると、その字面を読むことはできても、その背景までは視点が行くことはない。 「言葉で記述されていること以外はどうなっているのか?」考えることができないわけです。言葉からイマジネーションが膨らまない。 そんな人は「自分の書いたコメントを他者がどのように読むのか?」そんな想定をした上でコメントを出したりはしない。 だから「他者が読むことを充分に意識した」宮内庁のコメントも、まるで個人のグチと同じ感覚で読んでしまう。 まるで「あ〜あ、困ったなぁ・・・実はこんなメンドウなことが起こってしまって・・・何とかならないかなぁ・・・」いわば、そんなフィーリングの言葉として読んでしまうんですね。 しかし、宮内庁はそこまでバカではありませんよ。と言うよりも、プロ中のプロですよ。 組織においては、組織運営の用語なり進め方があるわけで、何気なく実績を作っていって、後でその実効支配を主張する方法なんて、その典型と言えます。 そして、それはいわゆるお役所ではよくあるわけですし、その頂点といえる宮廷こそは、宮廷政治の手法の典型が見られるもの。 宮廷がそのものズバリの物言いをするわけがありませんよ。 ちゃんと逃げ道を残しながら、実効性を上げていく練達のテクニックを持っていますよ。 書いていることにウソはないとはいえ、もっと重要なことを言っていない可能性も高いわけです。 宮廷関係者の物言いから、その裏の事情を読み取れなくても、これはしょうがない。 しかし、宮廷関係者がそのものズバリの物言いをしているという前提で考え行動したらバカですよ。 以前より書いていますが、他者に向けて発表される文章は、「自分がどう思ったのか?」を伝えることに意味があるのではなく、「読み手をどう思わせるのか?」そんな視点で書かれているもの。 報道されているニュースに、その人なりのコメントを書き込むのはいいとして、そのコメントだって、自分とは別の人が読むわけでしょ? その読み手を意識しないとね。 この私のように、「フフフ・・・このコメントの文言は参考になるし、使えるなぁ・・・」なんて、ニヤニヤとメモする人だっていますよ。 もちろん、本当に伝えたいことがあるのなら、すべての人から合意を取る必要はないでしょう。分かってほしいことを、分かってもらいたい相手に伝わればいいだけですし、誤解を恐れていたら、何も表現できない。 しかし、自分からいったん発せられた文章は、「書いた自分がどう考えていたのか?」という点については、もう意味がないことは、いつだって認識しておかないとね。 たとえば、学校や仕事などで作成するレポートなんて、その典型でしょ? レポートの作成者自身が、どう思うのかなんて、どうでもいいことですよ。 レポートは読書感想文じゃないんですからね。 レポートを読む人に対して、どんな知見を伝えたいのか?それを自覚して、それが伝わるように書くことが必要でしょ? 「感想ばかり」のコメントを書き込んでいる人は、そんなレポートを作成したことがないの? あるいは、ダメダメ家庭の領域で現実として発生するのは、相談の文章です。 この私に相談をお寄せになる方もいて、そのこと自体は、私としてはウェルカムです。 しかし、その相談の文章は、客観的なスタイルにしないとダメでしょ? 文章を書いている当人の感想が色々と書き連ねてあっても、事態がどうなっているのかさっぱり分からないと対処のしようがないじゃないの? 「あ〜あ、困った!困った!ちょっと聞いてよ、あの人ってヒドイのよ!」 それはいいとして、具体的にどんな行動でヒドイのか全くわからない場合も多い。 もちろん、トラブルが起こっているのなら、実際の関係者としては、相談相手に対しても言いたくないことは色々とあるでしょう。できるかぎりの情報を相手に伝えると言っても、それこそ、生年月日から、身長体重までのレヴェルまで事細かに伝える必要は、一般的にはないでしょう。相談相手に提示する情報についても、それなりの取捨選択が発生するもの。しかし、たとえば離婚相談のような場合に、双方初婚なのか?それとも、双方バツ1同士で、おまけに略奪婚だった・・・そんな場合だったら、その点を伝えないと、相談の意味がないでしょ?事態を解決することが最優先だったら、そんな態度も見せないとね。 都合の悪い情報をぼかしたりするのはいいとして、だったら別の情報で補填するとか色々と方法があるでしょ? ダメダメな人は、自分にとって都合が悪くない情報なり、個人的な感情を、「てきとう」に、逐次的に相手に提示しているだけ。つまり文章を作成するにあたって、選択なり判断がないわけです。 まあ、そんな程度の人なら、それこそ宮内庁が発表したコメントを、その字面どおりに読んでしまうんでしょうね。 逆に言うと、そんな感じで字面どおりに読んでいる人は、周囲に対して分かりやすい形で、自分の考えなり現状を説明する意欲も能力がないことが見えてくるわけです。 まさに思いついたことを適宜、文章にしていく・・・そんなことしかしていないということでしょ?だからこそ、読む際にも、「思いつくままに読む」ことになる。 その当人に、客観的な文章を作成する能力がないと、文章読解力もない。 読解力というものは、オブラートのさじ加減とか、例示する事例の取捨選択とか・・・文章の「背景を読み取る力」も要求される。 主観的な感想しか書けない人は、心理的に他者というものが認識できていない。 そんな人は、どのみち、コミュニケーションでコケるわけですし、そんな人とヘタに一緒になってしまったら、それこそドメスティック・ヴァイオレンスなどの修羅場になってしまうだけ。 以前にも書きましたが、ダメダメ家庭の人間は、往々にして「独り言系の物言い」をしたりするもの。 言葉を発しても、他者に向けての言葉ではないことが多い。伝えたいという気持ちも、伝える技術も持っていない。そして、それを向上させようとも考えない。 だから、他者の言葉を字面どおりに読むことしかできない。 そんな人は、読解力が低く、別の言い方をすると、「おだてに弱く」、いかにもなセールストークに引っかかったりするもの。まさに背景が読みきれないわけです。 それこそ「こうすれば確実に儲かります!」なんて言葉にすぐに乗ってしまう。 ちょっとでも考える力があれば、「そんなに儲かるのなら、アンタ自身がやってみたら?」と思うでしょ? あるいは、相手の全体的な意図を読み取ろうとしないので、言葉と接する際にも細部にだけ目を向けたりする。 細部にだけ目を向けるパターンのやり取りとしては、攻撃的なスタイルとなると、「揚げ足取り」ばかりすることになる。相手の文章の全体を踏まえ、それに対する自分なりの見解をまとめ、相手に分かりやすい文章にする・・・そのような発想自体を持っていない。 そんな人のメールは、細部にだけ注目し、そして勝手に逐次的に反論するような「スサムメール」のスタイルになったりするもの。 あるいは守備的なスタイルで、「自分への攻撃がないか?」そんな点ばかりに注視して、その話の全体像なり、その背景まで目を向けない。 細部に注視してばかりなので、結局は内容全体に対する読解力がない。 単なる警戒的な注意力があるだけ。 そして、そんな感じで周囲を警戒してばかりなので、注意力が燃え尽き、大きなトラブルに巻き込まれてしまう。 宮内庁のようなプロ中のプロの表現を読みきれなくても、それは一般人としては、恥じることではない。 しかし、搦め手を使った表現に全く対応できない人は、抑圧的な人間なんですね。 それだけ、他者というものを心理的に認識できていないことが見えてくるわけです。だから相手に分かりやすいように語るという発想がない。そして、結果的に理解されずに、怒り出す。 まさに「どうして、分かってくれないんだ?!」と顔を真っ赤にして怒ることになる。 そんな人は、頼りにならないばかりではなく、危険な存在といえます。 以前にルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を取り上げましたが、その中で「論理と意味の乖離」の問題を考えております。 抑圧的なダメダメ人間は、言葉によるやり取りにおいて、第3者的な「論理」は追えても、自身の実感につながる「意味」を見いだすことができない。 そんな人がする描写は、実に空気感がないものなんですね。 まあ、日頃からコピー&ペーストばかりやっていれば、空気感を感知したり、表現する能力とは無縁になりますよ。 そんな空気感のない表現しかできない人間に限って、「オレは情報強者だ!」と自称したりするんだから、ギャグそのもの。 それが単に笑い事で済めばいいわけですが、空気感が理解できなかったり、表現できないということは、人の気持ちが分からず、他者を心理的に認識できない人といえます。 つまり、危険人物なんですね。 言葉を字面どおりにしか理解できず、空気感と無縁な人は、同類同士で結び付き、結局はトラブルになってしまう。 そうして、「ああ!どうして、こんなことに?!」とお約束の嘆きの言葉。 しかし、言葉から、論理だけでなく意味を理解できる人だったら、そんなことは簡単に予想できるものなんですよ。 そんな事態は、インターネットの掲示板ではいつもやっていることでしょ? そんなところでの書き込みの文章は、ロジックはあっても、意味を消失した空気感の欠けた文章でしょ? 逆に言うと、その手の人は、空気感のない断片化されている文章が許容されるところにしか住めないわけです。 ちなみに、ここでちょっとしたムダ話をしてみましょう。 宮廷に限らず、世の中には、様々な搦め手を使った表現があったりします。 芸術分野においても、そんな搦め手表現を多く使った作品もあります。 まあ、差し障りのあることを、遠くの人に伝えたり、後世に残すためのテクニックのようなもの。 それこそ、ソビエト共産党の支配の下で、命がけで創作活動をしていった作曲家のドミトリ・ショスタコーヴィッチなども、そんな搦め手を使った表現が多くあります。 独裁体制下では、ヘタすれば、収容所送りで、殺されてしまうわけですからね。実際に彼の友人たちが、そんな目にあっているんだからシャレにならない。 もちろん、彼の作品から、字面だけというか表面上の音符だけを読んでしまって、それが搦め手表現であることがわからない人が現実としては多いもの。まあ、音符にも表と裏の二重の意味があったりするわけです。 まあ、「分かりやすい」表現ができる人は、「あえて分かりにくくした」表現もできるわけです。 ここで、そんな搦め手表現テクニックを列挙してみましょう。 1. 枯れ木作戦・・・「枯れ木も山の賑わい。」とばかりに、ムダな木をいっぱいおいて、その中に最重要でヤバゲな内容のものをドサクサにまぎれて通す。いわば森を作ることによって、肝心な木を隠す。 2. 混乱作戦・・・あえて、混乱させた部分を作って、その中でドサクサにヤバゲなものを表現したり、スタイルを混乱させることで、その中にヤバゲなものを入れる。 3. 一粒の麦作戦・・・当局に猛烈に受けのいいものを作っておいて、そのついでにヤバゲな作品をドサクサにまぎれて通す。1つの大きな弾除けの作品を作って、その作品に関心を集中させ、周辺の多くの作品は、その弾除け作品のせいで、生きることができる。 4. 引用作戦・・・ヤバゲなテーマに関連のある事件なり作品を引用する。ヤバゲな本音の面はその引用の部分で語る。いわば作品の主の流れは建前で、脇道が本音となる。 5. モンタージュ作戦・・・ヤバゲな内容を分割して、別々のところにおいておく。そして、受け手が、頭の中で組み合わせるようにしておく。 6. 強弱転倒作戦・・・ヤバゲな内容を弱く、どーでもいい内容を、強調して表現する。あるいは、流れのいいところに、ヤバゲな内容をコソっと入れておき、鈍感な人は読み飛ばすようにする。 7. 名札作戦・・・「受けがいい」タイトルを付けることで、ヤバゲな中身をごまかす。 8. 遠方埋め込み作戦・・・ほとんど無関係な部分に、こそっとヤバゲな中身を埋め込んでおく。その場所を指し示す指標となる表現は、目立つ部分におく。 9. ずらし表現作戦・・・直接的に対象としているものとは分野が違っている「似て非なる」ものについて、様々な角度から表現する。そして、鋭敏な人だったら、「これって、まんまあの○○と一緒じゃん!」と分かるようにしておく。 ・・・等々色々とありますよ。もちろん、それらの技法を更に組み合わせるようなこともしたりします。 あるいは、文章単独や音楽単独だけでなく、別の表現手段・・・たとえば、BGMとか壁の絵画などと組み合わせて、メッセージを伝えたり・・・まあ、色々とありますよ。 そんな搦め手表現は、分かる人が見ると「あっ!これはあのことね!ああ、この人も苦労しているねぇ・・・」と思うことになる。同類同士だと分かり合ったりするものなんですよ。 ムチャクチャ書いていると思われているかもしれない、このメールマガジンの文章ですが、こんなヤバゲな内容の文章がもうすぐ配信1000回を迎えようとしているんだから、実はこの私は表現のオブラートや搦め手表現の分野では、練達の境地なんですよ。 ちなみに、この手のオブラート技法は、ソビエトだけでなく、たとえばナチ支配下のドイツでも見られたりします。 逆に言うと、そんな技法に習熟している状況は、社会としては、かなりマズイ状況なんですね。 まあ、購読者の皆さんは、そのレヴェルまで読解力をつける必要はありませんが、せめて、字面しか読めない人間にはならないでくださいな。 そして字面しか読みきれない人間は、危険人物であることは覚えておいてください。 それだけ、相手に対して分かってほしいことを、相手に分かりやすく伝えるという発想がない人なんですからね。別の言い方をすると、他者という存在を心理的に認識できない人ともいえる。 そんな人は、他者の表現を受け取る際にも、字面の細部には、過激に反応したりするものですが、全体的な意図を読み取ろうとはしないもの。 結局は、トラブルになったりするものなんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 本文中で言及しております、「ソ連」の作曲家のショスタコーヴィッチですが・・・ 彼は、ある人に「才能もないのにもてはやされている人に対して嫉妬なんかするな!それよりも、モーツァルトとかベートーヴェンのような、とんでもない才能に嫉妬しろよ!」と言っていたそう。 まあ、我々も生きていると「アイツは、能力もないのに、うまいことやりやがって・・・ケシカラン!」と思いたくもなるわけですが、そんな嫉妬は、何も生み出さない。 しかし、「このベートーヴェンってヤツは、なんてスッゲーんだ!悔しいほどスッゲーよ!」なんてパターンの嫉妬なら、自分なりに参考にしてみるとか、そんな付き合い方もできるでしょ? ちなみに、ショスタコーヴィッチは何も理想論を言っているわけではないんですよ。 なにせ、ソ連というところは、「才能がないのに、当局とうまくやっているだけで、出世していく人」が山ほどいた社会。 そんな人たちを見ながら、命がけで、創作活動をしていったわけ。 そして、そんな社会の姿は、それこそ2000年前から全然変わらないんですね。 だから、人それぞれが覚悟を決めて、やるしかないわけ。 |
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R.11/1/20 |