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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の状況
配信日 10年8月21日
タイトル 書く前と書いた後 (文章が書けなかった人による文章)
読者投稿の文章を中心とした文章です。)
 今回の文章は、購読者さんからの投稿の文章です。
いつものように、投稿の文章の後に、サイトの管理者による追記があります。


******ここからが、投稿の文章です。****

私は、このサイトに収録されている「ダメダメ家庭」についての文章を、メールマガジンとして配信していた頃から読んでいる。それらの一連の文章の中で、「自分なりに文章をまとめてみることが、ダメダメからの脱却に有効である。」と頻繁に書いておられる。
私もその言葉を受けて、文章をまとめてみようとした。
しかし、結果的に、いつも途中で挫折してしまっていた。

では、この私が、なぜこれまで文章が書けなかったのか、または書こうとしなかったのかについて、私なりの経験と考察を文章にしてみたい。

まず、以前の私は、何らかのきっかけで、ある日突然に、私自身の内面に潜む潜在能力(?)のようなものが目覚め、いきなり大量の文章が書けるようになるのではなどと空想していた。だから、「文章なんて、その気にさえなれば、いくらでも書けるさ。」などと、愚かにも安直に考えていた。

それに加え、地道にコツコツとやるのが面倒くさく感じていた。文章を書いている自分の姿を頭の中で想像することはあっても、「思い通りに書けたらいいなぁ・・・」などと、ただ願望しているだけで、自ら積極的に文章を書こうとはそれほど思わなかった。

「聞き流すだけで英語が話せる」との英語の教材の宣伝文句じゃないが、「○○するだけで文章が書けるようになる!」と言うような教材なり本があるのかなぁ・・・、そんなのがあったらいいなぁ・・・と、ただ漠然と思っているだけだった。

しかし、そんな教材ですらネットなどで検索して、自分で調べるようなことはしなかった。
そこまでのやる気もないし、本気で文章を書こうとは思ってはいなかった。
とりあえず数行書くことはあっても、その段階で「ひょっとすると、俺って、文章が書ける人なのかも?」と思い込もうとしていた。とにかく現実逃避で、すぐに妄想に逃げ込んでしまう状態だった。しかし、その実としては、それから先がなかなか進まないのである。

文章をまとめることができないことを直視せず、頭の中で物事を考えるだけで充分で、それさえ毎日のようにやっていれば、無理に文章としてまとめる必要はないと思い込んでいる状態だった。世の中に「形から入る。」との言葉があるように、文章が書ける人の言動さえ真似ていれば、そのうちに文章が書ける人に自然になっていくのではと、そのように漠然と思っているだけであった。

自分の考えをまとめるため、あるいは自分自身を見つめなおすために文章を書くことよりも、すぐに安易な方法に逃げようとした。
例えば、ある権威者の言った言葉や、いかにも素晴らしいとされる内容の文章などの一部を頭に叩き込んで、さもそれが自分の考えそのものであるように思い込んだ。
その「ありがたい言葉(?)」を人に話したりして、一段高い位置から人に教えると言うようなことをしたことがある。自分はさも立派な人間であるかのように、相手に印象付けようとした。

自分をいかに大きく見せるかが重要になってしまっていて、相手の反応が自分の期待どおりであった時は、人から自分が認められた気分になり、非常に満足感を覚えた。その満足感によって、自分が生まれ変わったつもりになっていた。

しかし、そのようなかりそめの満足がいつまでも続くわけもなく、いつかは私なりの体験や考えをまとめたいという希望が頭の片隅にはあり続けていた。しかし、現実としては、まとまった文章が書けないままであった。どうしても、内容が断片的になってしまい、文章としてのまとまりに欠けるのである。

文章を書くに際し、まずは恰好をつけようとしてしまう。それに、うまく書こうと気負ってしまう。人に読まれる、または読ませることを、必要以上に強く意識してしまう。
いわば、最初の段階から人に読ませるという前提で、文章に取り掛かっていた。書く際にも、テーマにだけ関心が向いて、肝心の書く内容については関心があまりなかった。
と言うより、内容をどう書けばよいのかわからなかったので、なるべくそのことを考えないようにしていた。

どうせ文章を書くのなら、立派なテーマの文章を、そして、人から好意や好感を持ってもらえるような内容の文章を書こうと考えた。あるいは人に読まれても恥ずかしくない文章を書かなければならないと、文章を書く前から自意識過剰的に考えていた。
今思うに、いかに自分を大きく見せるかにしか関心がなかったように思う。

また、生意気にも、文章を書くからには、「すらすらと文章を書けるようにならなければならない。」などと強迫的に思い込んでしまっていた。
書くことに対する自分の立ち居地が揺れ続けてしまっていて、自分なりに文章と向き合うことができず、いざ書こうとすると、「どうせ書いても意味がない、いまさら文章を書いていったい何が得られると言うのか?」というような声が心の中で聞こえた。
自分が書くことが、全く無駄なことに感じてしまっていた。

日頃から、自分の頭の中には愚痴や不平、不満などしか思い浮かばないので、文章を書くとしても、そのことしか書けないだろうと思い、だったら書いても意味がないと自分で判断してしまい、結局は文章を書くのをやめたことがある。
文章を書かなくても自分なりにうまくやっていけるはずだ・・・そのような、自分にとって都合のいい理由を探していて、自分に対し言い訳ばかりをしていた。

あるいは、文章が少し書けた状態で、その文章を無意味で無価値なものと自分で評価してしまっていた。結果的に、完成に至らない文章ばかりになって、達成感がなく、自信が持てないままであり、それゆえに、更に書けなくなってしまうという悪循環に陥ってしまった。また、過去に書いた自分の文章を読み直しても、全くつまらないし存在する意味もないし、くだらない内容に思えていた。

文章が書ける人や、書くのに慣れた人は、私の文章を読んで、絶対に馬鹿にして笑うだろうと思い込んでいたし、また、そのことを恐れもした。劣等感が本当に強かった。
その恐怖や劣等感から、自分なりに文章に取り掛かることが難しかったし、最後まで書くことができなかった。

しかし、最近になって、周囲からの評価を気にしないように心がけるようにした。実際に、それほど気にならなくなった。もちろん全く気にならないという境地には至っていないのだが・・・。
それは、「下手でもいいから、まずは、とにかく書く。」ということを心がけるようになったからである。まずは書いてみて、それなりの形にすることを優先した。それが下手くそでも、恰好悪かろうが、内容が面白くなかろうが書くようにした。確かに、最初に出来上がった文章は我ながらひどいものだった。

実際に、私は子供のころから勉強が苦手で嫌いだった。だから学歴にも劣等感を持っているし、十分な知識もない。また、機能不全家庭出身者なので、一般社会常識にも自信がない。現実として、私の文章には、私の無知や非常識が現れてしまっているであろう。

でも、だからと言って、それが文章を書く必要がないという理由になるのだろうか?
そんな人が書いた文章が存在する意味がないと言えるのだろうか?
学歴がなかろうが、常識外れだろうが、それが今の私なのである。
そう考えて、「私には、私にしか書けない文章が絶対にあるはずだ!」と考えるようになった。
だから今、このように、下手ではあるが文章が書けたのである。

自分が書いた文章を読み直してみると、自分の思いや言葉が形になったことに満足感を覚える。それは、借り物の言葉を披露して悦に浸っていた満足感とは別の満足である。もちろん、含羞のようなものとは無縁ではありえないが、私なりの誇りのようなものを実感することもできた。
今回の私の文章が、文章を書くことを手掛け、何とかして形にすることの意義を伝えることができたのなら、私の喜びとするものである。

*********投稿の文章はここまで****

ここからが、サイトの管理者の文章になります。
ちなみに、念のために申し添えておきますが、投稿された方からいただいた文章に、私なりに手を入れております。
まあ、最初からこのレヴェルの文章というわけには、なかなか行きませんよ。
ですから、もし、投稿を検討されておられる方がいらっしゃいましたら、とにもかくにも、ラフな文章を送っていただけると、私なりに加筆なり修正をいたします。
ラフであっても、形となっていれば、なんとかできるわけですが、何もない状態からはどうしようもないでしょ?

さて、以前に「書かない人の意向」という文章をメールマガジンとして配信しております。
ダメダメ家庭の正式名称である「機能不全家族」における様々な不全な機能ですが、その代表的な機能不全として、「表現力」なり「説明能力」があります。

しかし、それゆえに、この「機能不全家族」の問題を考えることは難しいわけ。
「説明能力」が機能不全となっている状況を、実感を持って客観的に説明した文章は、基本的には存在しない・・・このことは、小学生でもわかるくらいの簡単な論理ですよ。
説明能力の低さを実感できるような人は、現実として、その人自身が説明能力が低いんだから、その不満を上手に説明できるわけがないでしょ?

しかし、客観的な説明がないがゆえに、周囲の人も、その機能不全家族の実情がわからず、現実的には、何も対処しないし、できない。
そんな状況の中で、ボランティア市民団体やいかがわしい宗教団体のような連中がやってきて、自分たちに都合がいい論理を設定し、その機能不全家族について説明し、そして利用してしまうわけ。

機能不全家族に対するサポートにおいても、「説明することが不全となっている。」ことを理解した上で対処をする必要があるわけですし、たとえ、ボランティアや市民団体が、「あの人たちは、かわいそうな被害者なんだ!」という理屈を展開し、説明したとしても、その理屈が、その機能不全家族の実情に即しているとは言えないわけ。
むしろ、ボランティアや市民運動の連中としては、表現力や説明能力が高い人から相手にされないので、いささか消去法的に、「説明能力の低い」集団の近くに集まってきてしまっている・・・それが、実情なんですね。

そんな吹き溜まりのような状況から脱するためには、ダメダメな状況に対して盲目的なスタイルで同情を表明するだけのボランティアのような連中よりも、しっかりとした洞察力や分析力や表現力を持った人間との協力が不可欠となります。
しかし、自分への協力を要請するためには、当然のこととして、自分たちの現状を客観的に説明する必要がある。
自分には説明能力がないという点についても、客観的な説明をしないと、協力も得られない。
何度も書いていますが、それは論理的には矛盾そのもの。

しかし、やるしかないわけ。
そして、説明能力が低いわけだから、最初から上手な説明を期待しても無理がある。
まずは「どうしてもわかってほしい」ことをしっかり自覚した上で、相手に対して説明することが必要になってくるわけですし、その説明も、自分なりに時間をかけて、練り上げる必要があるわけです。

説明の表現がヘタならヘタで、とりあえずはしょうがないわけですが、まずは「形」にしないと、練り上げようがないでしょ?
たたき台のようなものがあるから、それを修正したりもできるわけで、ゼロの状態から、いきなり見事な文章がでてくるものではありませんよ。

それこそ、作曲家のモーツァルトでも、作曲をするに当たって、色々と推敲したわけでしょ?それがアタマの中で推敲するケースもあれば、とりあえずは楽譜に書き出して、そのラフなスケッチを推敲していくケースもあったというだけ。
紙の上で、推敲の跡が残っていなくても、別のところでは、ちゃんと推敲しているわけです。その推敲の積み重ねが、結果的に、「見事な作品」や、「わかりやすい」説明の文章になるというだけ。
しかし、説明能力が低かったり、文章表現力が低い人ほど、推敲をしない。
だから、推敲にあたって必要となるラフなドラフトも作成しない。
推敲を積み重ねていけば、それなりに説明能力も向上していくわけですが、そんなスタイルとは無縁なので、説明能力なり表現力が低いまま。

そうして、周囲に対して、まとまりのある客観的な説明ではなく、断片的で主観的な不満をぶつけ、「どうして、ワタシたちのことをわかってくれないの?!」とグチを言うだけ。
しかし、だからこそ、何も達成できず、結局はコンプレックスが膨らんでいくばかり。
自分自身に自信がない状態なので、周囲に対しては、「自分の弱みをみせられない」と警戒心が強くなるばかり。
だからこそ、そんな人は、「自分の弱み」とは遠いテーマについて、語るようになってしまう。

それこそ、何かと言うと、「それはユダヤ人の陰謀だ!」などと訳知りの陰謀史観を展開する人がいるでしょ?まあ、ユダヤ人の問題にしておけば、当人自身の問題とは無関係。だから、やり取りにおいて、警戒は特に必要なく気分的にはラクとなる。
しかし、ユダヤ人の問題を議論しても、我々日本人の、特に機能不全家族の問題は、現実的には何も改善しませんよ。

あるいは、この手の人は、まさに今回の文章の投稿者さんが書いておられるように、「通りがいい」借り物の表現を使って、当人自身が、さも偉くなったかのような振る舞いをしたりするもの。
しかし、そんなことをして得られた賞賛なんて、意味がないでしょ?
そもそもそんな借り物の言葉に対して賞賛するような人は、低レヴェルの人ですよ。
それなりのレヴェルの人は、借り物の言葉しか使えない人などは相手にはしませんよ。

ということで、当人としては、格好をつけたつもりなんでしょうが、結局は、環境として吹き溜まりが進行してしまい、当人としてもダメダメが進行するばかり。

さて、以前に、メールマガジンとして配信した文章で、ドイツの詩人のライオネル・マリア・リルケの「若き詩人への手紙」を紹介したものがあります。
リルケとしては、文章作品を制作するにあたっては、その人自身の内面を見つめることで、「どうしても伝えたいこと」「どうしても残したいこと」まずはその点について、当人自身が「確たる」状態にしていくことの重要性を語っております。

まあ、リルケが語りたいことと、ダメダメ家庭の人間が語りたいことは、そのテーマとして色々と違っているでしょう。しかし、たとえそうであれ、「どうしても語りたい」という思いが、その人自身を強くすることにつながるわけ。
以前にも書きましたが、たとえ、脆い土壌であっても、花を咲かせ、実をつけるためには、しっかりと根を降ろす必要がある。その根によって、脆い土壌も、それなりにまとまることになるわけ。

たとえ、自分の不満を伝えたいというレヴェルであっても、それを客観的な文章にするには、多大な労力が必要になってくるもの。
自分の不満の意味を自分なりに考察するにあたって、かなりの精神力が必要となりますし、自分の現状を客観的に描写することは、ラクなことではありませんよ。

しかし、ラフなドラフトを作成し、第1次推敲ヴァージョン、第2次推敲ヴァージョン、第3次推敲ヴァージョン・・・と、推敲を重ねていけば、それなりのレヴェルの文章には到達しますよ。そして、そんな推敲作業の積み重ねが、文章表現力の向上につながり、そして、自分自身との対話になり、自分にとっての再生につながっていくわけです。
文章という実をつけるために、自分の脆い心に根を降ろすことそれ自体が、自分を見つめることにつながっていく。そのことは、ダメダメからの脱却の第1歩となるわけですし、単に、有効ということではなく、必須なことなんですね。