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カテゴリー ダメダメ土曜講座(トピック編)
配信日 10年2月13日
タイトル 「似たもの同士」の補足
以前に配信した「似たもの同士」というタイトルの文章の中において、「夫婦で片一方が子供好きで、もう片一方が子供嫌いということはありえない。」と書いております。
ちょっと前に、その件についての質問があり、今回の文章はその質問への回答であり、そして、以前に配信したその文章の補足のようなものです。

ワタシの夫は子育てに非協力的だ!」と嘆く女性がいますが、そもそもそんなことは、出産前からわかることですよ。家事全般に非協力的なのに、何も考えずに、子供を作ってしまって、「ああ!ワタシの夫は、どうして子育てに協力してくれないんだ?!」と言われても・・・言われた方が困ってしまいますよ。

結局は、そんな嘆きの声を上げる女性も、子育てがキライなんですね。
キライなことだからこそ、「分担」を求めることになる。
別の言い方をすると、子育てを「被害」とみなしているからこそ、応分の負担を求めることになる。
子供のためではなく、あくまで目線が当人自身だけを向いているわけです。
好きで好きでたまらないことだったら、むしろ独占しようとしますし、少なくとも、協力してくれないことを怒ったりはしませんよ。
あるいは、本当に子供のことを考えていたら、家事全般に非協力的な夫との間に子供を作ったりはしませんよ。

さて、最初にありえない状態として書きました、「夫婦で片一方が子供好きで、もう片一方が子供嫌い。」という状態ですが、一見はそんな「片一方だけが子供好き」の状態に見えることもあるもの。
それこそ、「夫は子育てに非協力的だ!」という嘆きの声も、ボンクラな人の中には、その女性が子供のことを真剣に考えているように受け取る人もいる。
あるいは、よりシリアスな事例になると、「妻が子供たちを虐待している!ああ!困ったことだ!子供たちがかわいそうだ!」と嘆く夫もいたりします。

そうなると、見た目には、片一方が子供好きで、もう片一方が子供嫌いと見えるでしょ?
だって、片一方は子供への心配の言葉を、声を大にして語っているわけですからね。

じゃあ、「子供好き」って何?

そんな話になるでしょ?
子供が好きと言う人は、子供の何が好きなの?

あいくるしい姿?その声?笑った表情?あるいは、成長していく過程?
それとも、自分とよく似ている部分?

子供と言っても、自分の子供となると、単に見た目が楽しいとかの問題ではないでしょ?
自分の子供との間では「やり取り」が発生する。
つまり、親の側からのアクションがあれば、それに対して、子供の側からのリ・アクションがある・・・そんな往復運動があるものでしょ?
そんな往復運動を肯定的に捉えれば、それは子供好きと言えるのでは?単に姿形が好きということなら、逆に言うと、子供からのリ・アクションを肯定的に見ていないということ。
別の言い方をすると、子供の「人格」を否定的に見ているということになるでしょ?

「子供の姿形は大好きだけど、子供と会話するのは苦手だ!」
そんな状態だったら、本当の意味での子供好きとはいえないでしょう。
まさに、ぬいぐるみとか、マネキンと同じ扱いなんですからね。

しかし、ダメダメ家庭の人間は抑圧的であり、相手からの反応・・・つまりリ・アクションに対してぎこちない対応しか取れない。
自分が幼少時において、養育者とのやり取りが不全であったので、相互の反応が往復運動するという「やり取りの基本」ができていない。
自分の思いを一方的に投げつけることはできても、それに対する相手方からのリ・アクションには対応できない。
それこそ、先日話題になった大阪の女性のように、「地震で困っているハイチに千羽鶴を送ろう!」なんて発想になってしまう。その女性としてみれば、好意なり善意は投げつけたいけど、相手からのリ・アクションが返ってきては困ってしまう。だからこそ、一方的で、「ばら撒きのスタイル」に安心感を持つことになる。

チョコレートを好きとか、色の中で、ピンク色が好きとか、あるいは、パンツよりもスカートの方が好きとかの、そんな類の好きなら、一方的な感情次元でもOKでしょう。しかし、対象が、動物、特に人間となると、こちらからのアクションに対する、相手からのリ・アクションを肯定的に捉えない限り、相手の存在を肯定したとはいえないでしょ?
子供が好きという言葉においても、その子供からのリ・アクションを肯定的に捉え、いわば子供の要望を聞き、状況に配慮する・・・そんな「思いやりを持ったスタイル」でない限り、子供好きとは言えませんよ。

今週配信いたしましたが、「子供が好き」という言葉はいいとして、「子供からのリ・アクションに対応していく」という、フォローを含めて考えているか?そんな問題になってきますよ。
別の言い方をすると、単なる子供好きと、責任感を持って子育てをしていることとは違っているといえます。

夫婦において、片一方が子供好きで、もう片一方が子供嫌い・・・見た目はそんな状態でも、子供からのリ・アクションに対して肯定的ではないという点において、結局は夫婦双方とも共通していたりするもの。子供の姿形や単発的なしぐさをどう評価するかの問題ではないわけ。人間の形をした「ぬいぐるみ」を好きであることは、自分の子供を好きであることとは一致しない。子供の心情や子供からの反応へのセンシビリティを見ることが重要になってきます。

それこそ、「妻が子供たちを虐待している!ああ!困ったことだ!子供たちがかわいそうだ!」と嘆く夫の例ですが、そんなに子供が気の毒に思っているのなら、あるいは、子供を本気で守りたいと思っているのなら、さっさと離婚しますよ。
妻が子供を虐待しているんだったら、その妻との離婚も簡単ですし、慰謝料もかかりませんよ。
妻の側が子供を引き取るわけではないんだから、経済的な問題も発生しないでしょ?
なぜ、そのようなアクションをしないの?
「ああ!子供たちがかわいそうだ!」
と嘆きの声を上げ、自分の善意の言葉をばら撒くよりも、さっさと行動すればいいだけ。

しかし、その手の人間は、嘆きの声を上げるだけで、何もアクションをしない。
「ああ!子供たちがかわいそうだ!」「オレは子供たちを愛しているんだぞ!」と安全圏から呼びかけるだけ。そして、相変わらず、子供の養育は妻に押し付ける。そして、やっぱり安全圏から「母親たるものは、もっと子供に優しくすべきだ!」とのご高説。

安全圏からの傍観者然としたご高説によって、養育を押し付けられた妻の側は、ますます苛立ってくるのは、誰でもわかること。ということで、子供はますます「かわいそうな」状態になり、夫の側の同情の「声」も、ますます鳴り響くことになる。
そうやって、邪悪な母親と、高潔な父親という構図が見事に形勢され、それが父親にしてみれば、タマラナイ快感となる。
「ああ!オレって、なんてすばらしい父親なんだろう?!」
もちろん、父親と母親の役割?が逆転するケースもあります。

父親の側が虐待して、母親の側が、安全圏から、「アナタもツライだろうけど、がんばってね!」と、子供に呼びかける。
同情の声は上げても、何もアクションを起こさないことは、男女の役割が変わっても、同じ。
本気で、子供のことを考えているのなら、離婚すればいいだけなのに、それこそ「父親も子育てに協力すべきだ!」「子供を虐待してはいけない!」と高潔な一般論をばら撒くばかりで、自分では何も対処しない。

同情の声や愛情の言葉はばら撒いても、子供の人格には配慮がない。
言葉を一方的に投げつけても、子供からのリ・アクションには反応しない。
逆に言うと、相手からのリ・アクションが発生しないように、過度な同情を表明したり、あるいは、自分の側の持ち出しを主張したりする。
「オマエもツライだろうけど、オレも辛いんだ!」
そうやって、相手からの要望ない困りごとを言わせないようにする。
それこそ、「アフリカの子供は、食べるものもなくて、困っているんだぞ!オマエは、まだ、幸せじゃないか!だからガンバレ!」そんな調子で励ますばかり。

こうなると、子供まで、ますますイライラしてしまうのは誰でもわかること。ということで、事態がますます悪化する。
しかし、事態が悪化すればするほど、同情の声や愛情の言葉が輝かしく響くことになる。
だから、安全圏で何もアクションを起こさない「その人」は、見た目には光り輝くことになってしまう。

トラブル状況を温存し、安全圏ぁら一方的に投げつける美辞麗句や自分の善意に酔いしれる・・・となると、このメールマガジンで頻繁に言及しております「ボランティアの連中」がその代表例といえるでしょう。
ボランティアの連中も、相手からのリ・アクションには対応できないでしょ?
だからこそ、善意を一方的に投げつけるだけで、相手からのリ・アクションがない領域に行きたがる。あるいは、自分の考えを主張する際にも、「つるし上げ」のような、相手からのリ・アクションのない形を取ろうとする。

子供を作る際に、相手が「子育てにふさわしい相手なのか?」「現在の社会情勢や家庭の状況は、子供を育てるのに適した状況なのか?」ちょっとは考えればいいのに、何も考えずに子供を作ってしまう。ヘタをすれば、1人目で虐待しているのに、もう一人の子供を作って、やっぱり子供を虐待し、その子供たちに対して、「ああ!気の毒だ!」と更なる同情の声。
そして、そんな自分の同情の声に酔いしれてしまう。
そんな発想や行動は、虐待する親も、ボランティアも同じ。

うまく行っていない状況ほど、その関係者の心理は共通していたりする。
ダメダメ家庭の現場でも、それに関連したボランティアの現場でも、一方通行の善意はあっても、相手からのリ・アクションには無頓着となっている。それは、反応を統合する主体としての人格を肯定していないということ。
相手からのリ・アクションを踏まえて、自分で対応する発想がないので、事態が悪化したら、それはすべて相手方のせいになってしまう。まさに「懐かないから殴った。」というお約束の言葉になるだけ。
「懐く」という相手からのリ・アクションをどうやって得ていくか?そんな発想がなく、ただ一方的に自分の感情を押し付けるだけ。

「子供が好き」という言葉はともかく、そんな言葉を語りながら、子供の人格を肯定的に見ていないケースも多い。しかし、そんな美辞麗句がばら撒かれる分だけ、その言葉が結果的に目立つことになる。その手の人は、相手からのリ・アクションやリ・アクションに対するフォローを考えていないので、平気でばら撒くことができてしまう。
そんな環境に育ってしまったら、自分自身もそんな要素を持っていることを自覚するしかないわけですが、親譲りに、遺伝子をばら撒いたり、善意をばら撒いたりする人も、現実に多い・・・そんな人を皆さんもご存知なのでは?

さて、結びつきにおいては「似たもの同士」の面が強い。
それもダメダメの領域ほど、そんな面が強い。
ダメダメな結びつきとなると、たとえば「傷のなめ合い」による結びつきがダメダメの領域ではポピュラーといえるでしょ?
それこそ事件になってしまうような結びつきほど、お互いがダメダメの面で似ているもの。

先日、宮城県で発生した、未成年による殺傷事件ですが、まさにこのメールマガジンの実例集といえるくらいに典型的なエピソード満載でしたよね?
あの関係者が、このメールマガジンを読んで、私に相談したのなら、あのようなカタストロフにならないようにすることもできたでしょう。
そもそも、あそこまで入れ込まれているということは、被害者の側にマイナス面があって、そのマイナス面を「アイツのことは、オレだけが理解して上げられるんだ!」と加害者の側の少年に認定されてしまっていた・・・まあ、そんなもの。

被害者となってしまった女性ですが、クラス内で明るくゲンキで、クラブ活動に熱心とか・・・
それが、「ふり」で「演技」であることが、見破られてしまったゆえに、「入れ込まれて」しまったわけです。
そんなに典型的に「いい子」に見えるということは、それだけ「張り詰めた子供」だったわけです。だからこそ、女の子も内心では安らぎを求めてしまう。

連れ合いのできの悪さは、自分自身のできの悪さの鏡のようなもの。
まずは自分自身の現状を認識し、向上させるのが先なんですね。
しかし、ダメダメな人間は自己逃避であり、「自覚から逃避」して、誰かにすがってしまう。

だから、何かにすがってしまう人間と一緒になって、今度は、相手から「すがられて」しまって、入れ込まれ、「ストーカー」され、暴力を振るわれてしまう。
未婚で、ティーンエイジで妊娠」する時点で、自分たちの問題に目を向ければ、あのようなカタストロフにならないで済みますよ。
逆に言うと、その点から目を背けているという、似たもの同士だったりするんですね。
自己逃避という似たもの同士でくっついてしまって、トラブルになり、そうなると、ボランティアのように、やっぱり自己逃避している人間たちが寄ってきて「どっちが悪いのか?」という倫理的な議論を始め、自己逃避が加速するばかり。
似たもの同士の間で「どっちが悪いのか?」なんて議論しても、結論に至らないのは、誰でもわかること。しかし、似たもの同士だからこそ、「被害者と加害者の区別」にこだわってしまう。

子供好きも、子供嫌いも、被害者という立場も、加害者という立場も、現実にトラブル状況になっているということは、その違いは、外見的なものであって、心理的には共通性が高いといえます。
その共通性に気が付かないと、同類がますます寄ってきて、ますます面倒な事態になるばかりなんですね。

(終了)
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発信後記

このメールマガジンも、もうすぐ終了する予定です。
なんといっても03年からやっていますからね。合計配信数が1000に届きそう。
ということで、来週は、このメールマガジンの総括とか位置づけとかの文章を集中的に配信する予定です。

ちなみに、メールマガジンの配信はやめても、既存の文章の修正などは適宜やっていく予定です。もし、ご意見等がありましたら、お気軽にどうぞ。
 R.11/2/9