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カテゴリー 認識からの逃避
配信日 10年4月5日 
タイトル 見せられると言う恐怖
 追記  発行者からの追加文章があります。(10年4月12日 追加)
ダメダメ家庭の人間は抑圧的であり、自分自身の希望もない。
だからこそ、自分の希望を達成するための判断も存在しない。
と言うか、ヘタに自分で判断してしまうと、後になってトラブル状況になった際に、「ワタシは悪くない!」と言えなくなってしまう。
だからこそ、ダメダメ人間は、判断なり選択できるというシチュエーションが嫌い。

このことについては、このメールマガジンで頻繁に言及しております。
今回は、その選択の必要性の認識すること・・・その認識の時点からして恐怖してしまうことについて、中心的に考えてみましょう。

抑圧的なダメダメ人間は、自分で判断しなくてはならない状況そのものを、見ようとしないわけ。
このようなことは、頻繁に参照しておりますトルストイの「アンナ・カレーニナ」で、見事に描かれています。
アンナは、何かマズイ事態になると「そんなものをワタシに見せないで!」「ワタシはそんなものを見たくないっ!」と言って、そんな状況からトンズラしてしまう。
トンズラしても、トラブル状況そのものは何も改善するわけがない。ただ一時的に先送りしているだけ。
やがては、以前にはあった、出口も塞がれてしまっていて、結局は、出口がなくなってしまい、ドッカーンとなってしまう。

アンナにしてみれば、自分で選択すること、あるいは、選択の必要性を認識するよりも、列車にダイビングすることの方が心理的にラクなんですね。
まあ、本人は勝手にダイビングすればいいだけ。
しかし、そんな人間に育てられている子供としては、たまったものではないでしょ?

子供が親に相談を持ちかけても、「そんなものを見せないで!」と言われるだけ。
認識することに恐怖心を持っているんだから、そんな人に対し現状を報告することは、相手の被害感情を引き起こしてしまう。
「せっかく・・・心穏やかに生きていたのに・・・あの子が、余計なことを言い出すから・・・」
そうなってしまうでしょ?

実際に言葉に出して言うかどうかは別として、普段からそんな雰囲気がありあり。
これでは、子供だって親に相談できないでしょ?
単にトラブル状況になって、親に相談できないというくらいならまだしも、それだけ現状認識から逃避する家庭環境なんだから、子供だって、親と同じような現実逃避人間になってしまいますよ。目の前にある危険などを何も考えずに、「な〜んとなく」で行動することになる。
だからこそ、トラブルも起こってしまう。

こんな流れが典型的に発生しているのは、未成年の女の子が妊娠してしまい、いつの間にか出産して、その嬰児を殺害してしまう・・・そんな事件です。
その手の事件があると、性風俗の乱れ云々の問題にされてしまうようですが、そんな見方ではこの手の事件の本質が理解はできません。もし、女の子が自分の希望を自覚して、確信を持って性交渉をもっているのなら、それなりの対策をしますよ。避妊だってするでしょう。
スケベ心でそんな行為をしているのなら、それなりに判断できる。
考えることに対して恐怖心を持ち、何も見ず、何も考えないがゆえに、結局は大事件になってしまうわけです。
まさに、見たくないがゆえに、ドッカーンとなる流れなんですね。

それこそ、そんな家庭では、子供のことなんて、親は何も見ない。
だから普段から、子供は何事も自分独りでやっていく必要がある。
だから子供としては、普段から切羽詰ってしまっていて、精神的に余裕がない。
そんな切羽詰った心情を共有するもの同士で、意気投合。
意気投合はいいとして、自分の将来について、何も考えず、見ようとしないまま。
だから現時点において、「何をしておく必要があるのか?」、あるいは、「どんなことをしては致命的にマズイのか?」と言う点について何も考えていない。

相手からの依頼を断るという選択や判断もできず、「な〜んとなく」の流れのままで、関係を持ってしまう。「な〜んとなく」で、何も考えない状態だからこそ、何も処置もしないのだから、妊娠してしまう。避妊について考えるのがいやだから、子供もできてしまう。

抑圧的な人間は、自分の将来を考えないわけだから、親となる資格なり資質を考えない。そもそも、自分の親が見本となっていない。自分の親が、普段からグチばかり言っているので、親となることを考えた時点で不快な感情がいっぱいになり、思考停止となってしまう。
ダメダメ家庭では、親が子供に与えるという発想ではなく、親が子供からもらう発想なので、気軽に子供を作れてしまう。愛情さえも、子供からもらうという発想をしたりする。
自分が与える側なら、資格も考えますが、受け取る側なんだから、資格などは考えませんよ。

ダメダメ家庭の親は、普段から思考停止なので、「何か面倒なことがあれば、子供に投げればいいや!」そんな雰囲気になっている。逆に言うと、面倒なことを投げる対象がほしい。その点は、未成年の妊娠も、「子は親の鏡」状態。

本来なら、妊娠が発覚した段階で、その状況を踏まえ、対策を取ればいいわけですが、現実逃避の抑圧的な人間は、そんな状況を「見ない」という対処をするだけ。
おまけに、子供のそんな状況を、親の側も「見ようとしない」。
別の例だと、借金の返済の催促状が来たら、催促状を「見ない」という対処をとっても、借金が減るわけでもないでしょ?しかし、まあ、見たくないもの。しかし、見て対処しないとね。
借金ならまだしも、妊娠だったら、本当にシャレにならない。

子供の状態を実際に見てしまえば、ダメダメな親にしても、対処する必要が認識できてしまう。見なければ、知らなかったことになり、対処する必要はない。だから、見てしまうと、娘がマズイ状況であると分かってしまいそうだ・・・という雰囲気があれば、もはや意識的に見ようとしなくなってしまう。
それこそ、問答無用の形で「オマエを信じているぞ!」「悪いことはするなよ!」という言葉を投げつけトンズラしてしまう。そんな親は、「困ったことがあったら、いつでもワタシに言いなさい。」とは言わないわけ。

そんな思考停止の雰囲気なので、妊娠している娘の側も、「あのオトコのせいで・・・」と、関係者を恨んでいるだけ。
いったん、妊娠してしまうと、「見ない」という対策?をとっても、あるいは、誰かを恨んでも、状況は悪化するだけ。

本来なら、「このまま行けばどうなるのか?」という点から、事態を見ていけば、現時点で「やらなければならないこと」も、見えてくるわけですが、何せ「見ない」ということばかりやっているんだから、何もせず、そのままに徹している。
と言うことで、結局は、一人で出産。そして、その子供を見なくても済むように殺害してしまう。
その前に、現状をしっかり認識し、対策を取れば、そんなカタストロフは防げるわけですが、現状認識なり、判断を抑圧してしまう・・・それがダメダメ家庭というもの。

そして、事件が発覚した後になって、女の子の親は、
「へぇ・・・そんなことになっていたの?知らなかったよ・・・」と、まったくの他人事。そして、「ワタシは何も知らなかったんだから、ワタシは悪くない!」と言い訳。
あるいは、「こんな悲劇が起こらないように、社会全体で子供の性の問題を考えていくべきだ!」と一般論でご高説。

それどころか、「ああ!ふしだらな娘をもって、オレたちって、なんてかわいそうなんだ?!」と嘆くだけ。むしろ、嘆きの言葉を語る自分自身に酔いしれている始末。
逆に言うと、そんな嘆きが言えるように、親は何も知らなかったことにしておきたい
だからこそ、子供の状況を見たくないわけ。
まさにアンナ・カレーニナがそうであるように、現状を認識し、判断することに対して、心理的な恐怖感を持っている。以前にも配信しておりますが、それがダメダメ家庭における処世術なんですからね。

人は心理的な恐怖感があると、過激な行動を取るもの。
選択に直面している恐怖は、抑圧的な人間にしてみれば、実に大きいものであって、その恐怖に比べれば、命を捨てるくらいは造作もない。
逆に言うと、過激な行動の背景には、心理的な恐怖があったりするもの。
しかし、心理的な恐怖につながるがゆえに、その点は語られない。
もはや語ることができないくらいに怖いがゆえに、大きな行動につながってしまう。

選択への恐怖の例として、何回も例示します「こんにゃくゼリー」の根絶の問題ですが、そんな主張は、ちょっとでも考えれば、バカバカしいことだとスグにわかるでしょ?しかし、選択という場への耐え難いほどの恐怖心を理解していると、その手の運動の心理的な意味も理解できるようになるわけです。
「こんにゃくゼリー」それ自体が怖いのではなく、「買うか?買わないか?」の選択が怖いわけです。

そんな運動をしている人に対して、選択を伴った困りごとなど、その人の子供だって相談できませんよ。「お母さん・・・ワタシ・・・妊娠してしまったようなの・・・」なんて言ったら、母親はどんなことを言い出すか、分かりきったことでしょ?
見たくないと切望している人間に対しては、何も言いようがない。

最近、ちょっと話題になっていて、この問題と心理的に共通性が高いのは、マンガとかの虚構におけるポルノの問題です。
表現の自由とか、公序良俗の問題とか・・・いつものように議論されていますよね?
この手の問題は、どんな時代でも、どんな場所でもあったりするもの。

どんな時代でも、どんな場所でも議論はあったりしても、現実的には、そんなに規制が進むことはない。
ポルノなんて、役に立たないとはいえ、逆に言うと、たかがポルノですよ。
はっきり言うと、どうでもいいこと。
だって、不快だったら見なければいいだけ。

ただ、時代の雰囲気で、その規制が進むケースがあります。
それこそエーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」の中で指摘しているように、ナチス時代なんて、その典型と言えます。
あるいは、ナチス時代とのアナロジーでフロムが指摘している宗教改革の時代においても、ある種の「禁欲的な姿勢」が強調された場所があるでしょ?
画家のクラナハと友人関係であったドイツのマルティン・ルターはともかく、それこそクロムウェルとかサヴォナローラとか・・・彼らには禁欲的な姿勢が顕著でしょ?

判断なり選択に恐怖をもつ人間にしてみれば、その選択が「しづらい」ものであるほど、「見たくない」ものなんですね。
逆説的になりますが、ポルノの問題だって、抗しがたいほどの魅惑を感じる人にとっては、「見たくない」ことになる。逆に言うと、その手の本をパラパラとめくって、ちょっと笑って、「もういいよ!」と、別の人に渡すような人にしてみれば、選択なり判断はできるわけでしょ?
しかし、そんな判断ができないほどに魅惑を感じている人にしてみれば、「見た」時点でアウトですよ。あるいは、心理的に抑圧されていて、あらゆる面において判断なり選択から逃避する人間にしてみれば、やっぱり「見た」時点でアウト。
何回も書きますが「こんにゃくゼリー」を買わないという判断すらできない人間なんだから、ポルノを購入しないという判断なんてできませんよ。

抑圧された個人がそんな判断ができなくなってしまうのはしょうがない。
抑圧的なダメダメ家庭は、どんな時代にも、どんな場所にも存在するもの。
ただ、時代背景などの影響で、そんな抑圧が進行しやすい・・・そんな事態もやっぱりあったりするもの。時代的な状況として、従来からの方法論が通用しない状態だったら、人々の不安感の土壌があり、その不安感からの脱却の方法として、心理的な抑圧が使われてしまう。
前にも書きましたが、抑圧的な人間は、不安感を持ったら、「不安定な状況」に対処するのではなく、不安感の「感」の面に対処することになる。つまり感情全体を抑圧するわけです。あるいは、不安な状況を「見ない」という形で、認識を制限する方法で対処する。そんな方法論を取っているがゆえに、ますます心理的に抑圧されてしまうことになる。

前にも書きましたが、抑圧的な人間は、選択の場に恐怖を持つ。
そして、周囲の人間と、その恐怖心で共鳴することもある。となると、自分の恐怖心が解き放たれることになる。
普段は、感情を抑圧しているので、いったん解き放たれた恐怖心は暴走してしまう。
まさに恐怖が恐怖を呼び・・・と、スパイラル進行。いわゆるパニック状態になる。

もうこうなってしまうと、周囲の人間も対処のしようがない。
そんな姿は、それこそナチス勃興時のドイツがその典型と言えます。

何回も書きますが、人は「スケベ心」で動く分には、それほど大きなものにはならない。
恐怖心で動く際には、異常なまでに大きく動くことになる。
だから、心理的に見ても、歴史的に見ても、「スケベ心」と「恐怖心」との戦いがあると、恐怖心の側が絶対に勝ってしまう。
そうして、社会全体が禁欲化してしまう。「見なくても済む」「選択しなくても済む」という理想が実現されてしまうことになる。

しかし、人はスケベのみで生きているわけではないにせよ、禁欲ばかりだと、つまらない。禁欲とはそっちの方面ばかりではなく、料理とか、レジャーとか、あるいは、知的好奇心とか色々とあるでしょ?心理的な抑圧が進むと、本だって、「オマエたちは、余計な本は読まないでよろしい!聖書とかコーランとか『わが闘争』とか毛沢東語録などの『正しい』本を読んでいればいいんじゃ!」と規制されてしまう。
「見たくない」「選択したくない」という抑圧状況になると、そんな面まで規制され、結局は、生きる楽しさなんて、何もなくなってしまう。

しかし、「見ることは怖い。」と思っている人間にしてみれば、そんな規制された社会の方が住みやすい。そもそも抑圧が進行してしまうと、会話の能力が落ちてきてしまって、集団的な意思決定能力なり調整能力も下がってくる。と言うことで、社会的制度による問答無用のスタイルによる規制が強く要請され、実際に進行してしまい、ますます意見調整能力が低下し、結局は大規模でかつ凄惨な武力衝突となってしまう。

宗教改革後のドイツとか、ナチス時代のドイツとかばかりではなく、クロムウェルあたりのイギリスとか、もちろん、フランスにおけるユグノーとか・・・
「見ることは恐怖だ!」という人間と、「あんなヤツらと一緒だと、生きている意味がない!」という人間との間では、結局は恐怖と憎悪が増大してしまうだけ。
こんなことは、ちょっと歴史書を読めば、すぐに分かることですが、そんな思考能力が低下してしまうのが抑圧というもの。

まあ、現在の日本では、確実に、この流れで来ているようですが・・・
こうなってしまうと、止められないんですね。
そもそも「見たくない」「見ると恐怖を持つ」という人に対して、色々と説明する行為自体が、まさに「見せる」ということになり、恐怖をよりいっそう大きいものにしてしまう。
「見たくない」という人間に対しては、説明し説得することは絶対に無理なんですよ。
まさにアンナ・カレーニナのように、カタストロフに向けて突進するしかありません。

ちなみに、何も私はポルノの問題を議論しているわけではないんですよ。擁護も、いわんや賞賛もしていません。あんな程度のものを、選別したり、制御できる能力のない個人の心理的な能力を問題にしているだけです。
そんなものとの付き合いができない個人が、自分の子供の問題とどのように付き合えるの?結局は、子供も、自分のトラブルを親に隠すようになってしまう。まさに、「見たくない!」「見せないで!」という親の意向に対応してしまう。しかし、だからこそ、実際にトラブルになってしまう。皆様の周囲にもそんな実例は多いのでは?
「見たくない!」と親がスグに言い出す家庭の子供は、実に早婚であり、スグに妊娠してしまったり、結婚前から妊娠してしまう。
自分の将来を「見ようとしない」わけです。

ポルノの問題では、「表現の自由を守れ!」なんて、一生懸命に表現の自由を主張なさっておられる方もいらっしゃいますが、所詮は「スケベ心」は、恐怖心には勝てないもの。
結局は、規制が進むでしょうね。
後の展開は、歴史書なり文芸書にいくらでも書いてありますよ。

表現の自由とかの目的で表舞台でがんばる人もいるわけですが、そんな事態になってしまうと、それを横目で見て、あっさり隠遁してしまう人もいたりする。ロシアの文芸作品だったら、そんな世捨て系の賢人キャラが出てくる作品もあったりするでしょ?
まあ、洞察力がある人は、ある意味において、諦めが早いという難点がある。いい意味での蛮勇を持ちえない人ともいえる。
そんな流れに命を懸けて抗するのも、その人の尊厳でしょうが、傍からそんな流れを見ながら記述していくのも、それなりの尊厳でしょう。
そんな記述のおかげで、後世の我々は、この流れを予想できるわけですしね。まあ、予想はできても、結局は同じことになってしまうのが、人類と言うもの。

見ることへの恐怖を持っている人は、見たくないがゆえに、発生段階から押さえようとするもの。だから「根絶」なる文言が多くなる。
それこそ「こんにゃくゼリーの根絶」とか「ユダヤ人の根絶」とか「ポルノの根絶」とか、あるいは、自分とは違った意見を表明しただけで、役職を解任するようなことをしてしまう。
それは強権的と言われたりするものですが、その心理としては、相手に対しての恐怖なんですね。
「見てしまったら」対処ができない。だから「見ないようにしたい」と言うだけ。
逆に言うと、内心ではそれだけパニック状態になっているわけです。

そんなパニック状態の人間なんて、何するかわかりませんよ。
しかし、その手の人は、選択の場への恐怖心から、反論されにくい倫理的な主張なり、ご高説を掲げ、異質なものを排除していってしまう。
以前にも書きましたが、ナチスドイツによって追放されたユダヤ系の音楽家ブルーノ・ワルターは「不寛容に対しては、寛容であってはならない。」と言っていましたが、多様な考えを認めるということは、選択や判断を、そしてそれに伴う責任を自分で背負う覚悟がないとできないこと。
選択からも判断からも逃避してしまうと、「選択の場を見たくない!」「トラブルを見せないで!」と要求し、異質なものの排除ばかりが進行してしまう。「根絶」を掲げる不寛容な主張にシンパシーを持つことになってしまう。

まあ、日本だって、近いうちに、水晶が降ってくるでしょうねぇ・・・
そんな事態は、ホント、見たくないねぇ・・・

(終了)
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発信後記

今週は、「見ること」についての文章を集中的に配信いたします。
誰でも見えるものを、ちゃんと見ておけばトラブルなんてあわずに済むことが多いもの。
しかし、見ていないと自分を被害者とすることができる。
だからこそ、見ようとしない。
逆に言うと、事件後に大仰に騒ぐ人は、事件前には何もしていないわけ。

ちなみに、いつも書いていますが、このメールマガジンは、特定の政治団体の問題を考えているわけではありません。その心理を見ているだけです。
人の心理なんて、そんなに変わりませんよ。

そういえば、このメールマガジンでゲーテの「ファウスト」に言及いたしますが、その第2部の第1幕では王宮が舞台になります。
王室が財政危機に陥ったので、その打開策として、埋蔵金が提唱されるわけ。
「地下には、埋蔵金がきっとあるはずだから、それを前提に紙幣を増発しよう!」
「それで、経済が潤うぞ!」
そうやって、紙幣をばら撒くことになる。
まあ、その結果がどうなるかなんて、これもいつの時代でも変わらない。
結局は、外国から侵略されたりして、大騒動。
よく書きますが、この作品は、約200年前の作品です。
ゲーテも「勝手なことを書きやがって!起こった後では何でもいえるぞ!」と、逆上メールをもらっちゃうね。

人間のやっていることなんて、いつの時代でも、どんな場所でも変わらないもの。
そして、その結末も、お約束があるものなんですよ。
 以下にサイト管理者による追加文章です。(10年4月12日 追加)
 この文章をご覧になられた方から指摘がありましたので、文章を追加いたします。

この文章の「見せられるという恐怖」、その内容としての、思考停止状態・・・そのようなことを分かっていると、実に理解しやすいのが、88年に発覚した「巣鴨子供置き去り事件」です。
父親が蒸発して、残された5人の子供に対し、母親が、子供にお金だけを渡して、同居もしなかった事件です。事件については、例のウィキペディアで項目がありますから、ご参考になさってください。
ちなみに、カンヌで賞を取った、日本映画「誰も知らない」は、その事件を背景に制作されました。

そもそも、父親が蒸発することが意味しているように、ある意味において夫婦が不和なのに、何も考えずに子供を5人も作ってしまう。
避妊するという判断から逃避してしまっているわけです。あるいは、自分たちの家族の将来イメージを考えることから逃避して、「て・き・と・う」に生きているだけ。

生まれた子供に対しても、出生届を出すことについても、先送りで、届けも出さない。
まさに「なかったことにする。」という処置方法となっている。

そして、父親が蒸発した後でも、「子供をどうするのか?」という判断から逃避して、とりあえず、子供にお金を渡しておくという、問題先送りにしてしまう。
子供を施設に預けるとかの対応を取ればいいのに、その場から逃げるという方法で、「状況を見ない」という状態を獲得し、判断から逃避する。

この事件に対し、「どうして、この母親はこんなことをしたのか?」と考えても答えは出ません。この母親は何も見たくない、そして考えたくないだけなんですね。
しかし、考えたくないがゆえに、できてしまうのが子供。
そして、すべてのツケは、子供に集約してしまう。

この事件は、そのダメダメのレヴェルが極めて高いものと言えるわけですが、程度問題を別にすれば、「トラブル状況を見ない」そして「何も判断しない」という問題先送りを繰り返すダメダメ家庭の様相として、むしろ典型的と言えるでしょう。
R.11/1/2