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カテゴリー ダメダメ土曜講座(表現と作品 編)
アップ日 10年7月10日
タイトル ひとめあなたに (1981年刊行) (読者投稿の文章を中心とした文章です。)
 作者  新井素子
 今回は、以前にリーダース・チョイスを選定していただいた「みやこ」さんからの投稿の文章です。
新井素子さんというSF作家さんの初期の作品である「ひとめあなたに……」という作品から、ダメダメ家庭の問題を考えた文章です。
投稿の文章の後で、このサイトの管理者による追加の文章があります。

**** 投稿はここから****

 新しくでてきたジャンルというものは、往々にして叩かれることが多いものです。例えば、ほんの二、三年前には「ケータイ小説」と呼ばれるジャンルが登場し、今も批判を受け続けています。ケータイ小説に関しては、「誰でも作品を手軽に発表できる」というのが一番のポイントなわけですから、当然、玉石混交になり、その中でも石の割合が多くなってしまうのは、いたし方ないところがあるでしょう。その事実を見過ごして「あんなものは、けしからん!」と叫んでも、得るものはありません。

 そんなわけで、今回ご紹介させていただくのは、SF作家、新井素子の作品です。新井素子は「ライトノベル」「ライトSF」の先駆けと言われ、「口語体で書かれた小説」を広めた人としても知られています。そんな彼女も、もう作家デビューして三十年が過ぎてしまいましたが。
 彼女の作品の特徴を取り上げると、大体このようなところになります。

・口語体による砕けた語り口。台詞だけでなく地の文もそれで語られることが多い。
・S(Science)ではなく、F(Fiction)に比重が寄っている。
・極めて女性的な観点から物語が綴られる。
・作品の中で全てを説明してしまうことが多い。

 この中で、もっとも特徴的と言われ、批判を受ける理由にもなるのが、口語体による語り口です。彼女の作品は「ハイティーンの女の子が喋りかけてくるような、砕けた口調」で書かれているのです。彼女以前は、たとえ台詞であっても「それがなんだっつうの」と書いてしまう作家は少なくて、せいぜい「それが何なの」ぐらいだったわけです。それが彼女の場合、台詞だけでなく地の文も、このような書かれ方をしている。これが受け付けない人も多く、しばしば文体だけで「読めない」と言われてしまうことも多いですし、ランクの低い作品だと思ってしまう人もいます。

 私は十代の頃に彼女の作品と出会い、様々な影響を受けました。故に主要な作品にはひととおり目を通しているので、どれを取り上げるのか迷ったのですが、初期の代表作である「ひとめあなたに……」を取り上げることにします。1981年に発表されたもので、これを書いた当時、作者はまだ大学生でした。当時の出版社から発行されたものは絶版になっていますが、2008年に東京創元社から新装版が出ていますので、入手は簡単でしょう。

 作品の冒頭は、大体、次のような感じです。主人公は二十歳の美大生、山村圭子。彼女には同じ大学に通う、二つ年上の朗という恋人がいます。ところがその恋人から突然「自分はガンになった。余命幾許もないから別れよう。」と言われ、茫然自失状態に。ヤケ酒を煽り、二日酔い状態で目覚めた次の日、地球に巨大な隕石が衝突し、一週間後に滅亡してしまうことが判明します。圭子は「一週間しか残っていない人生、自分はいったい何をしたいのか?」を考え、「死ぬ前にひとめ、あなたに会いたい」との結論に達します。ですが圭子の自宅は東京の練馬。朗の自宅は鎌倉。世界中がパニックになってしまった現在、交通機関はすべてストップしてしまっています。恋人に会いたいという意志のもと、圭子は無謀にも歩き出すのですが……。

 こう書くと、どういう話かイメージが沸きにくいと思いますが、実際こういう話、としか言いようがないんですね。当たり前に続いていくと思った日常という日々、それが突然崩壊してしまい、「一週間後に世界の終わりが来る」という非日常を突きつけられてしまった世界。そんな中でどう行動するのか、それを描いた作品です。

 主人公の圭子は、鎌倉へ向かう途中で、四人の女性と遭遇します。物語の合間に彼女たちの物語が挿入されるため、読者はその四人の女性が「狂っている」ことを知らされます。非日常にぶつかれば狂うのは当たり前かもしれませんが、うちの三人は「非日常にぶつかったから、狂った」のではなく、「もともとおかしくて、それが非日常により、表面化してきた」のです。その女性たちのプロフィールを軽く紹介しましょう。

・田村由利子――世田谷在住の人妻。白いマンションに夫と二人で住んでいる。「理想の家庭」を築くことにこだわっており、夫が食べないのに毎朝朝食を作る
・坂本真理――目黒在住の高校生。両親と妹との四人家族。勉強以外することのない日々を送っている。友達はおらず、趣味もない。
・沢村智子――新横浜在住の小学生。共働きの両親と三人暮らし。夢の世界以外のことに興味がない。放っておくと十八時間は平気で眠る。
・本間恭子――西鎌倉在住の大学生。学生結婚していて、お腹に子供がいる。

 このうち、恭子のみ「ダメダメ」の気配を感じさせません。ということで、残りの三人を見ていくことにします。


――3LDKの、白い、デコレーションケーキみたいなマンション。芝生のあるお庭。南向きの、大きな窓。陽あたりのいいお部屋。朝御飯作るわたし。お夕飯の用意しながら、あなたの帰りを待つわたし。忘れずに、お風呂わかして。日曜日には、急造大工になる旦那様。子供ができたら動物園。肩車して、子供にパンダ見せてくれるやさしい旦那様。
――作文にも、書いたのよ。みんな――お父さんもお母さんも先生も、かわいくて女の子らしい夢だって、ほめてくれた。それの――かわいくて、女の子らしい夢の、どこがいけないの。

 マンションに夫と二人で暮らす由利子は、上記のような家庭生活を理想としています。「絵に描いたような素晴らしい家庭」が彼女の夢。確かに世間一般様からすれば、由利子の目標は褒められこそすれ、けなされることはないでしょう。ですがその夢だけを見て現実を見ない彼女のために、夫である明広は疲れ果ててしまい、会社の同僚との不倫に走ってしまいます。

 由利子はひょんなことからその不倫を知ってしまうのですが、そこで彼女がとる行動がダメダメの極み。「見ないふり。知らないふり。存在してないふり」なんですね。「そんなものは、いないのよ。存在しないのよ。あっちゃならないことなの。おばけなんだわ」そう言い続け、自分で自分に嘘をつきます。本人は幸せかもしれませんが、結局のところ問題の先送りになるだけ。

 ちなみに夫の明広の方も、現状維持のままずるずるやっています。愛人に対して由利子への不満を言いながらも、何故か離婚を切り出したりはしない。一応「いつかは由利子が変わって気づいてくれるかも」という期待はあるようですが、それならそれで、他にやれることもあるでしょう。このまま不倫を続けていて、由利子なり不倫相手なり、どちらかが妊娠したらそれこそ修羅場です。ある意味、似た者夫婦なのかもしれません。

 作中では、由利子がどのような家庭に育ったのかは出てきません。ですがおそらく、後に登場する智子のような家庭で育ったのではないでしょうか。両親が共働きで、母親は手抜き型の主婦。だからこそ引用した文章のような家庭を規範とし、それ以外のものからは目を背け続けていた。
 そして世界が後一週間しかないのなら、と不倫相手のもとへ向かおうとした夫を刺し殺し、その夫をさばいて料理してしまう最中に、由利子は夢の中に逃げ込んで、自分が料理しているのが夫だという事実すら忘れてしまえるのです。


――真理。私はあなたを、こんな風な子に育てるつもりはなかったのよ。もうそろそろ死ぬっていうのに、冷静に、そんな何でもないって顔をして、勉強を続けるような子になんか。ね、判ってるの。もう、もう、受験はないのよ。そんなことやっても、意味ないの。おねがい、真理ちゃん。もっと、普通の人がするようなことをして。そうでないとお母さん。何だかとってもつらいわ。
――お母さん。そんなふうに泣かれても、困っちゃうのよ。やっても、もう意味はない。お母さんはそういうけどね、受験勉強なんて、もともと意味ないでしょう。そんなこと、お母さんに言われなくたって、最初から知ってる。

 高校三年生の真理は、学校から帰って来ると即座に机に向かって夕食まで勉強し、夕食後は後片付けをして入浴まで勉強し、入浴後は就寝までまた勉強する、そういう日々を送っています。どう考えてもまともではない日常ですが、母親はその事実に気づかず「勉強熱心なだけのいい子。ちょっと普通以上に勉強しているけれど、これくらい、当たり前」と思っています。これも典型的なダメダメの発想です。

 真理には三つ下の、かおりという妹がいます。かおりは真理とは対照的な、明るい活動家の女の子。勉強もちゃんとするけれど、それと同じくらい友達と遊んだりテレビを見たり、漫画を読んだりお洒落をしたり、そういう「ティーンエイジャーの女の子」としての人生を楽しみたい、そう考えています。むしろこちらこそ「普通の女の子」と呼んで差し支えないのですが、母親はそう思ってくれず、「姉を見習ってもっと勉強をしろ」と叱るだけ。

 かおりには、かなりはっきりした「将来の夢」があります。それは水泳の選手になること。そのために、水泳のレベルが高い高校を選び、そこへ進学したいと考えています。ですがその学校の偏差値が低いというだけで、母親はそれに反対します。一方、真理には「将来の夢」がない。したいことが何もない。趣味もない。友達もいない。果たして、どちらがまともなのでしょうか? 母親は真理をまともとみなし、かおりを怠けていると責めます。でも、本当にそうなのでしょうか?

 真理の家では、「現実から目をそむけて、見ないふり」を決め込んでいるのは、真理でもかおりでもなく、二人の母親なんですね(父親は影が薄いタイプ)「こんなの、普通よ。これくらい、普通よ」そう言い聞かせて、目を塞いでいる。「私は悪くない!」という、お約束の台詞も登場します。
 意外なことに、真理は母親のその「見てみぬふり」に気がついています。ただその一方で、「母親には逆らえない」自分も認識しています。公園で会ったクラスメイトに、真理はこう説明します。

「割とあたしにとって、お母さんのいうことって絶対なんだ。何でだかよく判んない――お母さんはいつも優しいんだけど……何か、ふいに怖くなる時がある。とっても。何ていうのか……すごおく大事な時に見捨てられそうな気がして。だから……思うわけ。この人の言うことをきいておけばいいんだ、そしたら間違いはない。そしたらこの人は、何かあった時に助けてくれるって……。で、まあ……お母さんは、もう、口癖みたいに言うのよ。真理ちゃん、あなたは本当に素直でいい子でお母さん嬉しいわ≠チて。特に、あたしの場合、妹がかなり自我の強い子でね。お母さんが妹に手を焼いているのを知ってるから、余計、あたし、いい子でいなくちゃいけないって思っちゃうのよ」

 真理は頭がいいのです。現実を全く認識できていない由利子とは異なり、現実そのものは認識しています。自分に何も達成したいことがないこともわかっているし、そんな自分は異常なのではと悩んだこともある。最終的には「人生に意味なんてない」という結論に達し、復讐と自滅めがけて走って行ったとは言え。


――いつか、考えたこと。あたしのいる現実の世界って、これは誰かの夢の世界。あたしとか、パパとかママとか理絵とか、みんな、誰かの夢の登場人物。この考え方って、多分、正しかったのよ。

 小学六年生の智子は「眠って夢を見るのが趣味」です。感受性が鋭く、要領が鈍い。なので学校に上手く馴染むことができません。「いじめ」というほどハードな状況ではないけれど、学校に行くのが辛かったりします。真理とは逆のタイプといえるでしょう。

 智子の友達は、理絵という子のみ。彼女は唯一、智子を莫迦にしたり笑ったりはしない子なのですが、それ故に智子は激しい「入れ込み」を起こしてしまいます。ですが理絵は、父の仕事の都合で名古屋に引っ越してしまいました。
 入れ込み現象を起こしている智子は、それを「裏切り」と捉えます。また、理絵が向こうで友達を作ったという事実にも反発します。そうして、理絵が智子を心配して、別のクラスメイトに智子を心配する手紙を送ったことで、その反発感情は頂点に達してしまいます。冗談抜きで長崎の少女殺傷事件(といってもこの小説が書かれたのは、長崎の事件が起きる前なのですが)になりかねませんが、幸いにも二人の間には新横浜――名古屋という、物理的な距離がありました。

 ドッカーンの代わりに智子が取ったのは、逃避行動。現実に背を向けて、夢の世界へと逃げ込みます。彼女の場合は実際に眠って夢を見るわけですが、逃避という事実に変わりはありません。あわせて幼児化も進行します。こんな風に夢に溺れてしまうのは、現実が彼女にとって全く魅力がないからなんですね。夢を見るより夢中になれることがあれば、そちらへ自然と向かったでしょうから。

 智子の母親は真理の母親よりは娘のことを見ており、心配して精神科へ連れて行ったりします。結果的にあまり役には立ってくれませんでしたが。隕石によって現実が終わらなければ、智子はどこかで現実と折り合いをつけることもできたかもしれません。それこそ、感受性の鋭さを生かして、芸術の道を進むという選択肢もあったのではないでしょうか。


 この作品の中に出てくる特徴的なフレーズに「おふとんをかぶる」というのがあります。由利子は夫の不倫という事実に対し「おふとんをかぶってしまえばいい」と考えている。真理は幼い時に怖い目にあい「おふとんかぶって寝ていたい」と思い、そしてその直後に、それが無駄であることも知ります。智子は圭子が出会った時、実際にふとんにくるまって眠っているところでした。起こされた彼女は「この世界は、ぜえんぶ、あたしが見ている夢なんだよ」と言います。
「ふとんをかぶる」=「現実逃避」なんですね。

 この作品の主人公である圭子も、冒頭では「ふとんにくるまって眠ってしまえば、みんな夢になるかもしれない」と考えます。ですが彼女はふとんをかぶるのではなく、歩いて鎌倉へ向かうことを選択します。歩いて歩いて歩き続けて、四人の女性に出会って様々なことを考え、正気と狂気の狭間を通り抜けて、最終的に圭子は鎌倉へ到達し、ある充足感を得ます。

 真理の章の冒頭で、真理のこのようなモノローグが出てきます。
――もうそろそろ死ぬからって、ふとんかぶってふるえていても、仕方ないんだから、ふとんかぶってふるえていても、誰も助けに来てなんかくれない。

 現実逃避をしていても、何も得るものはない。彼女の名の示すとおり、それが真理なんですね。

****************

以上が、投稿された「みやこ」さんからの文章です。
まずは、投稿していただいたことに、この場をお借りしてお礼申し上げます。

さて、ここからが、サイト管理者による追加です。

さて、みやこさんは、この「ひとめあなたに」という作品の中から、多くのダメダメ家庭の諸相を導き出しておられます。それぞれの項目で、リンクを貼っておきました。

ダメダメ家庭の諸相を導き出すのが、このサイトの本来の趣旨なんですが、このサイトの文章は、芸術家本人なり、芸術作品を考えるに当たっても有効な視点を提示していると、私としては考えております。

そもそも、「自分を何とかして認めさせたい!」と、創作者が抱く切実な思いは、「自分のことは、何も言わなくても、家族などの周囲の人は分かってくれている。」という安心感からは生まれませんよ。
つまり、作品を創作する人は、ダメダメ家庭出身者であり、つまりダメダメ家庭のメンタリティと、創作のメンタリティは表裏一体だったりするわけ。

さて、みやこさんは、この「ひとめあなたに」という作品において、作者の新井素子さんが、口語によって、文章をまとめていることについて、言及なさっておられます。
それについて、議論になったんだとか・・・

では、なぜに、口語なの?
文章を記述するスタイルとしては、何も古式ゆかしい文語でなくても、教科書的な記述スタイルもあるわけでしょ?
ニュース番組でのしゃべり方に近いスタイルもある。
作者の新井さんは、そのような記述スタイルができないの?
そんなことはないでしょう。
新井さんとしては、それなりの意図があるわけです。
じゃあ、その意図って、具体的にはどんなものなの?

あるいは、新井さんに限らず、かなり意図的に口語的なスタイルを使用した文章も、まさに、現実的にあったりしますよね?
・・・というか、この文章をお読みになっておられる方が、まさに今現在読んでいる文章そのものが、顕著にその傾向を有していたりするでしょ?

じゃあ、なぜに、そのようなことをするの?
その質問に対する回答をする責務も能力も、私にはあるでしょう。
だから、その点について、ここで解説したいと思います。

さて、じゃあ、口語による文章記述は、歴史的に見て、新井さんから始まったの?
実は、そうではないんですよ。
口語による文章記述は、実は、伝統的な手法なんですね。

それこそ、プラトンが記述しているソクラテスについての文章なんて、まさに口語を生かした記述スタイルです。
プラトンだって、より文語的というか、よりフォーマルなスタイルで文章を書くことくらいはできるでしょう。

口語は、まさにしゃべりの言葉であり、日常とつながっている。
ソクラテスの中心的な考えは、「無知の知」というものです。
「我々が日常的に知っていることとされていることでも、よくよく考えてみると、実はよくわかっていないんだよ!」
「自分たちが、知らないということ、それ自体を、我々は知らないことが多いんだ!」

ソクラテスの「無知の知」とはそんな考えです。
そのような考えは、20世紀の哲学者のミシェル・フーコー流に言うと「哲学の役割は、『見えているもの』を、『見える』ようにすることだ!」という言葉につながっていくことになる。
まさに2000年近くに渡って、延々と言われている哲学の本流をなす態度といえるわけ。

日常を新たに見る視点なり、発想や問題意識・・・それこそが「知の原点」と言えるわけ。
日常を意識しているんだから、日常的な言葉使いを使用することは、実に効果的になるでしょ?
まあ、当時の新井さんが、そこまで明確に意識していたかは、私としてはわかりません。
しかし、口語と日常の結びつきの中に、人間の普遍的な姿を描写しようとしているわけです。

我々が日常的に見ている人々の姿は、まさに日常的であるがゆえに、目の前を「流れて」いるわけですが、ちょっと視点を変えてみると、多くの問題点が見えてくるもの。
つまり、「流れる」状態を、ちょっと堰き止めてみると、今まで見えてこなかった日常の姿が見えてくるわけ。

この「ひとめあなたに」という作品においては、地球滅亡という極端な設定になっておりますが、流れを止めた際に、日常とは違う様相が見えてきて、普段と違う様相こそが、「流されない」真実に近いことはあったりするもの。
そして、そんな形によって顕在化した日常に潜む問題点は、時代の移ろいを超えて、場所を超えて、人間の普遍につながっていく。
それを洞察することこそが、知の原点でしょ?
原点とは、まさに、流されない地点。

さて、その原点ですが・・・
この「ひとめあなたに」という作品は、まさに原点についての作品と言えるわけ。
主人公の山村圭子の原点は何なのか?
一番重要なものは何なのか?
何があっても「流されない」ものは何なのか?
それを見つけるための旅と言えるわけ。

自分にとって最も重要な存在を求める山村圭子のオデッセイも、
もちろん、作者である新井さんにとっての、創作の中心へのまなざしも、
智の人が自らの出発点を求める旅も、
そしてギリシャ以来より続く、人類の知の旅も、
流されない地点という原点を探す旅といえるわけ。

いのちのための旅というよりも、「生きる」ための旅と言えるもの。
それは、安直に語られ流れることが多い「自分探しの旅」とは対極のものなんですね。

ちなみに、この「ひとめあなたに」という作品は、新井さんにとっての初期の作品とのこと。
創作者は、初期においては、それまでの思いなり問題意識を正直に投入して、作品を作ることになる。
だから、瑞々しい作品ができる。そして、その瑞々しさが、作品の受け手には、心地いい。
しかし、中期となると、そうはいかない。

中期となると、創作する側も、より芸術家意識が顕著になってくるわけ。
特に中期の冒頭において、「芸術家宣言」のような作品を作ることが多い。
これはどんなジャンルでも同じです。

その種の芸術家宣言は、芸術によってメシを食っていくという職業宣言ではなく、人間社会ではなく、神からの霊感に従うという信仰告白であり、殉教者宣言のようなもの。
だからこそ、歴史上の芸術家の受難に対して、共感と連帯と、それに続くものとしての覚悟を表明する作品を作るわけ。

そのような中期の作品群なり、中期の冒頭に現れる芸術家宣言的な作品・・・
それが、この新井さんにはどの作品が該当するのか?
あるいは、存在するのか?それについては、皆さんで考えてみてくださいな。

中期に移行することなく、初期の段階で留まったのが、以前に取り上げたカーペンターズです。彼らは芸術家としての受難を受け入れることはしなかった。常に健全な一般人としての感性を持ち続けた。しかし、じゃあ、彼らが幸福だったかというと、そうとも言えないでしょう。受難を受け入れないといっても、幸福になれるというものではないわけ。

創作する人間にとっては、「私の王国はこの世のものではない。」という覚悟こそが原点だったりするもの。
目の前の日常を見据えながら、日常の向こうにある普遍を見出すこと・・・
そんな芸術家としての意識を自覚した上で、創作していく・・・中期というものは、そのようなものですし、その地点に到達しないと、創作し続けることも難しくなってしまう。
その文体が口語的か文語的かなどは、いわば枝葉末節。
「日常を踏まえながら、それをどうやって超えていくのか?」その問題意識がないと、作品自体の生命も、日常で留まってしまう。

新井さんが直面している難しさは、私としても、色々と、わかりますよ。
初期の作品で、自分自身が言っていること自体を、作った本人自身がわかっていないことも多い。
しかし、だからこそ、原点に立ち返ることが重要になってくるわけです。
 R.10/7/14