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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(トピック編) | |
アップ日 | 10年11月23日 | |
タイトル | 不全な機能の集積としてのボランティア | |
このサイトではボランティアの方々のことを、いささかボロクソに書いています。 この文章をお読みになられておられる方は、ボランティアの方と直接的にやり取りをなさった方は少ないのかもしれませんが、実際にやり取りをされた経験がある方でしたら、私の文章は、的外れではないことは、ご理解いただけるでしょう。 ボランティアの人は、外から見ていると、それなりに立派なことをやっているように見えたりするものですが、実際にやり取りをしてみると、とんでもなく不快な人たちなんですね。不快と言っても、既存の常識の枠を超えて、周囲の人に衝撃を与えるというよりも、いわば安全圏から冷笑的に物事を眺め、現実離れしたご高説をぶつ人が周囲に与える不快感に近いといえるでしょう。 逆に言うと、だからこそ「恵んでやる」立場を求めようとする。 好感度がないからこそ、恵まないと相手になってくれない。 さて、このサイトはダメダメ家庭、正式な日本語となると機能不全家族、英語で言うとdysfunctional family の問題を扱っておりますが、その「dysfunctional」な点をどのように認識していくか?それが実に難しいことであると頻繁に書いております。 まさに、お酒を飲んですっかり出来上がった人は、自分が酔っ払っていることを認めようとはしないもの。それくらいならともかく、ダメダメ家庭の人間は自己逃避であって、自己逃避であるがゆえに、自分は自分自身から逃避するという自己認識ができない。 これはギャグではなく、現実として発生し、そして、実に根源的な問題なんですね。 さて、今回の文章では、その「dysfunctional」という点に注目しながら、ボランティアの人たちの活動なりキャラクターを考えてみたいと思っております。 functionalな視点で事態を見るのではなく、「何がdysfunctionalとなっているのか?」そんなところから色々と見えてくるもの。 機能不全というか、英語でdysfunctionalな点を考えるためには、「もっと適切な方法があるのに、どうしてそれをしないのか?」そんな視点なり問題意識が必要となってくる。 逆に言うと、その状況下におけるdysfunctional を見いだすためには、その状況がよくわかっていないと難しいわけですし、それに、一番適切な方法、つまりfunctionalな方法を見いだす能力も必要となってくる。 その状況に置けるfunctionalな解決法がわからない人は、逆に言うと、現行での対処が、その内実としてdysfunctionalであると認識できないわけです。 ということで、以下に、ボランティアに見られるdysfunctional な要素を考えてみましょう。 まず、ボランティアは自分自身を直視するというfunctionがない。 だから、「人の問題に首を突っ込む」ことになる。 人助けという問題も、人のことを助けたいというfunctionの観点から見るよりも、自分自身の問題に対峙するという「覚悟の不在」というdysfunctionalな観点から見た方が理解しやすいわけです。 そして、ボランティアの人間は、立派なことをやっていると「みなされる」わけですが、逆に言うと、ボランティアの人たちは、説明能力がdysfunctionalとなっているからこそ、そんな立派とされることをやっている・・・そのように考えることができる。 説明能力がdysfunctionalとなっているだけではなく、相手の意向を聞く意欲も能力もdysfunctionalとなっている。だからこそ、相手の側の意向に配慮する必要がない案件を求めることになる。 それこそ、アフリカで餓死寸前の子供に対しては、食料を援助しておけば、対処としては間違いではないでしょ?だから、相手について細かくは考えなくてもいいことになる。 相手について配慮しているのではなく、具体的な配慮ができないゆえに、つまり、相手の事情を考えることがdysfunctionalとなっているがゆえに、そんな状況での援助活動をしているともいえる。 援助する対象が日本人だったら、「今は食料は足りているから、教育分野にもっと援助してよ!」と言ってくる可能性もあるでしょ?そのように言われてしまうと、「じゃあ、どうするのか?」について判断しなければいけない状態になってしまう。 それは、自分で判断することがdysfunctionalな人間にしてみれば、困ったこと。 だから、「これやっておけば、間違いじゃないだろう・・・」と、そのタスクが明確な領域に惹かれるわけですし、相手が自分たちに対して意向を言えないシチュエーションを求めることになる。 それこそ、日本において地震災害で千羽鶴でも贈ろうとしたら、逆に不快感を持ってしまう場合もあるでしょ?しかし、アフリカの子供だったら、食料を贈れば間違いにはならないでしょ?つまり、対象がアフリカの子供だったら、考えることから逃避できることになる。ボランティアの人と、自分で考えることへの恐怖は結びついているわけです。だからこそ、周囲の人から「そんな援助ではなく、別の援助の方が適切じゃないの?」と疑念を呈せられると、逆上するものでしょ? ボランティア活動と逆上の組み合わせは、実に頻繁に見られるものなんですよ。 ボランティアをしている人は、「人の痛み」が理解できる人と、思われているのかもしれませんが、むしろ逆なんですね。「人の気持ち」を理解する能力がdysfunctionalとなっているがゆえに、「型どおり」のことしかできない・・・そのように見た方が現実を理解しやすいわけです。 前にも書いていますが、サポートする相手がその人なりの意向を言い出してきたら、それを判断し選択しなくてはならない。 そんな判断能力がdysfunctionalとなっているので、逆に言うと、サポートする相手が意向を言えない状況を作ることになる。 つまり、「支配・被支配の構図」を作ろうとするわけ。 だからこそ、自分が支配しやすい対象を探し回ることになる。 そして、援助によって、「相手を支配」する。 援助して、相手を支配することそれ自体が目的なので、相手の自立を目指したものではない。援助なり、それによって形成される支配・被支配の構図の状態が目的であって、援助の結果としての相手方の自立には関心がない。 だから、サポートというタスクにおいて、結果を精査し、「最後を締めて総括する」ということがない。 結果を出すことを考えずに、「いざとなったら、トンズラできる。」という腰が入っていない状態で活動をおこなう。 逆に言うと、何がしかの成果を出すという点がdysfunctionalとなっている。 ボランティアは自身が行った人助け行為は熱心に語るものだけど、肝心の、助けた人がどうなったのかは何も語れないものでしょ? ボランティアは、当事者意識がdysfunctionalとなっているので、逆に言うと、被害者意識が強い。だから、被害を語る人が多いところが好きで、「語られた被害に対して食いつく」ことになる。 そして、被害者の嘆きに同調し、被害の元となった加害者を設定し、攻撃することになる。 いわば共通の敵の感覚を持っている。 敵に対するセンシビリティは高いけど、逆に言うと、一緒に協力して何かを達成する味方に対するセンシビリティはdysfunctionalとなっている。 トラブルが起こってから大騒ぎする姿は、同情を示しているように見えるわけですが、別の言い方をすれば、トラブルを予見できる先見性がdysfunctionalということであり、ちょっとしたトラブルの段階で反省して、対処をしていないということ。 というよりも、トラブルが起きるからこそ、その手のボランティアは活動できていると言える。 だから、トラブルを避けるという発想そのものを持っていない。 それを埋め合わせるように、トラブルが起こった際には、敵認定したものに対して過剰に攻撃することになる。 まさに、トラブルが起きるまで、じっくりと寝かせておいて、実際にトラブルとなったら大騒ぎする。 敵認定したものを攻撃するのは正義感からではなく、その人にとっての味方という存在の不在という点から見た方が理解しやすいもの。敵が明確ではない場合には、何も対処ができないわけです。 加害者認定したものへの攻撃を通じて、自分の居場所を作ることになる。 しかし、そんな安っぽい居場所に依存する行為は、逆に言うと、自分が覚悟を持ってやり遂げたいことについてのdysfunctionalであり、子供時代に、もっと根源的な安心感を体験していないということ。 子供時代は「出る杭を打つ」減点法の家庭であり、それゆえに、過度のいい子ちゃん志向を持っている。だから、いい子としての行動をしたがるわけですが、それは自分の現実と向き合うことがdysfunctionalとなっているだけ。 自分に関わるマイナス面とどのように向き合うかについてdysfunctionalとなっているがゆえに、「いい子」に見えるだけ。 当事者意識がなく、減点法の日々だったので、何か自分で取り組むこともなく、話のネタがdysfunctionalとなっている。 だからこそ、人助けによって得られたネタを得意気に話すことになる。 ボランティア活動というネタは立派なネタといえるわけですが、それ以外の話のネタがdysfunctionalとなっているから、ボランティアの話をしていると見た方が現実的なんですよ。 自分では何も達成したものがないボランティアはコンプレックスが強い。 だから、自分よりダメな人間を見ていたい。 そして、ボランティア活動によって、仕入れた「イタイ」ネタを肴にして、そして、共通の敵の話題で大いに盛り上がる。 ボランティアは個として確立することdysfunctionalとなっているので、群れたがる。 群れるための、大義名分としてのボランティア活動が使われることになる。 ボランティアの人たちを賛美するのは、ボランティア仲間だけ。 サポートされた側は、助けてくれたことには感謝の言葉は出すけど、ボランティアがいないところでは「あの人たちも、なんだかなぁ・・・」と言っているもの。 実際にそんなものでしょ? 使命感をもって人助けに取り組んでいるのなら、その人の尊厳に繋がるものと言えるでしょう。しかし、現実的には、自分自身との対話がdysfunctionalになっているので、人助けをしてごまかしているみた方が理解しやすいわけです。 内面を見つめることがdysfunctionalなので、ボランティアは芸術とは無縁となっている。 作品を生み出すことはないし、芸術作品を理解することもないし、理解しようともしない。 「権威ある○○先生の言葉を学ぶ。」とかの物言いをするだけ。 そんな物言いは、カルトの典型でしょ? 権威筋認定のものを学ぶという発想なので、書籍を紹介するような際には、「子供に読ませたい。」なる推薦の文言が登場したりする。しかし、その「子供に読ませたい。」という言葉は、「自分の子供に読ませたい。」という言葉を言えないということ。だって、自分の子供の興味や関心なんて、何も知らないんですからね。だから、一般論しか言えない。 教育関係のボランティアといえるPTAの人って、まさにそんな感じでしょ? 自分の子供に向き合うのが怖いので、他人の子供の問題に逃げることになる。 ヘタをすれば、「自分の子供が配偶者から虐待されていたことは、ワタシは知らなかった。だって、ワタシはPTAの活動で忙しかったんだから。自分の子供のことに構っているヒマなんてないよ。」と平気で言ったりするもの。 その虐待も、それこそ性的な虐待もあったりする。 そんな事件を起こす家庭の母親は、PTAとか、市民運動とか、宗教団体とかの活動を熱心にやっていることが多いでしょ?実例をご存知の方もいらっしゃるのでは? 所属する市民団体の活動内容については聞かれてもいないのに熱心に語るのに、自分の子供については何も語れない人もいたりするでしょ? この手の人は、大義なり倫理を語るものですが、それは、プラグマティックな発想がdysfunctionalとみた方が実態に即している。 それだけ、達成したい目標もないし、問題意識もないんですね。 functionalな視点で見ると、「人を助けたい」という点に注目することになる しかし、dysfunctionalな面に注目すると、「自分でやりたいことがない。」という欠落の面が見えてくる。 そして、現実のボランティアとやり取りをされた方なら、「自分でやりたいことがない。」という欠落の面から見た方が、その手の人の行動を理解しやすいことに合意していただけるのでは? 自分でやりたいことがないが故に、周囲のことが気になり、自意識過剰気味になり、人のことを詮索することになる。 そうして、あら探しをして、犯人探しをして、敵探しとなり、グチのネタ探しをし、結果として自分の居場所を見つけようとする。 逆に言うと、それだけ、その人の出身家庭が、居場所としての機能がdysfunctionalになっていたわけです。 ボランティアの人と実際にやりとりをしてみればわかるでしょうが、こんな連中をはべらせておく人間なり、こんな人間を生み出してしまう家庭・・・そこから多くの示唆が得られることになる。 物事をfunctionalな視点で見るか、dysfunctionalな視点で見るかは、ケースバイケースと言えるでしょうが、ボランティアの人たちなり活動は、dysfunctionalな視点で見た方が理解しやすいわけですし、ある種の見通しというか一貫性も見えてくるものなんですね。 |
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R.11/2/4 |