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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(事件・トラブル編) |
配信日 | 10年8月28日 (11年2月11日 記述を追加) |
タイトル | 大阪ネグレクト事件 |
ちょっと前(10年)に、大阪で、大きな事件がありました。 自分の子供を放置して餓死させてしまった、23歳の母親の事件です。 あの事件は、大きな関心を呼んだようで、まだアチコチで騒いでいるようです。 あの事件については、このサイトをお読みになった方からのお便りの中にも言及されている場合もあります。 あるいは、あの事件を考えるに際し、このサイトの中の記述を参考にされておられる方もいらっしゃるでしょう。 ちなみに、弁護団としては、なんでも、あの母親の精神鑑定をするとかしないとか・・・ しかし、このサイトで勉強?なさっておられる方だったら、あの母親の心理なんて簡単に想定できるでしょ? まさに、普段からの予習復習を欠かさずにやっていれば、急に試験があっても、余裕で対応できるわけです。 ちなみに、このサイトは、メールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」のバックナンバーを収録しております。メールマガジンとしては10年の4月に配信を終了したわけですが、それ以降も、以前に配信した文章の記述の修正をやったり、あるいは、今回の文章のように、テンポラリーに新規の文章をアップしたりしております。 メールマガジンの文章だって、書きたくて書いていたわけではない。書かざるを得なかったから、書いていただけ。それが、4月を持って、「書かざるを得ない」ことから脱却できるわけもなく・・・結局は、チョコチョコと、新規文章を作ったりしております。 実は、その新規に作成している文章の中に、「ゴミ屋敷とネグレクトの関係」に関する文章があります。ちなみに、その文章の制作に取り掛かったのが、本年(10年)の6月ですので、あの事件が報道される前のことです。 ゴミ屋敷とネグレクトの関係についての、文章を制作していたら、ドンピシャな事件が発覚したんだから、この私としては、その心理なんて手に取るように分かりますよ。 本来なら、ゴミ屋敷とネグレクトの関係を記述したその文章を、早急にアップすればいいのでしょうが、実は、その文章は、最初の想定以上に構想が膨らんでしまったんです。内容の深みとか、文芸的な視点も加わって、我ながらいい文章になっていると思っておりますので、いわば記念碑的な使い方をしようと思っているんです。まあ、大切な文章は、大切に扱わないとね。ちなみに、今回の文章がゴミだと申し上げているわけではありませんよ。記念碑的な文章と、時事問題の解説調の文章は扱いが違うと申し上げているだけです。ただ、その「後までとっておく」文章と、今回の文章は記述として重なる面も多くあります。まあ、予習くらいに考えてくださいな。 さて、そのゴミ屋敷ですが、ゴミ屋敷が発生する要因として、「捨てることができない」という現実があるわけです。 このことは誰でもわかること。 ちなみに、ダメダメ家庭を考えるに際し、「肯定と二重否定の区別」をしっかり行う必要があることは、このサイトの中の文章において頻繁に触れております。 捨てることができないのはいいとして、そして、結果的にゴミ屋敷になってしまうのはともかく、じゃあ、「その捨てないものを大事に思っているのか?」 あるいは、「そもそも、その人にとっての大切なものは、どんなものなの?」 そういう問題になるでしょ? 「捨てることができない」というのは、言葉としては、二重否定といえます。 逆に言うと、抑圧的なダメダメ家庭においては、それが、「大事に思っている」あるいは、「残しておきたい」という単純な肯定形にはなっていない。 その違いに注目しておかないと、ゴミ屋敷の心理も理解できないことになる。 ゴミ屋敷を作る人は、「大事に思っている」ものそのものを持っていないし、そんな感覚自体を持っていない。 だから、「大事なもの」や「残しておきたいもの」と「不要なもの」の「区別」を付けられないわけです。 大事なものがないがゆえに、不要なものも存在しなくなる。 逆説的な言い回しになりますが、「本当に残したいもの」が、存在しないがゆえに、全部を捨てられなくなってしまう。 捨てようとすると、「もしかすると、後で使うかもしれない・・・これを失ってしまって、後で困ったら大変だ!」というマイナス面に視点が行ってしまうことになる。 繰り返しますが、大切だから捨てられないのではなく、大切なものと不要なものとの区別が付けられないので、捨てられなくなってしまう。 そんな人は、子供時代において、楽しい思い出などはしていない。 旅行などの「イベント体験」などはしていない。 だから、大切な「写真」とか思い出の品があるわけではない。 大切なものとか、大事なものに対する実体験やセンシビリティを持っていない。 子供時代は、不快な思い出ばかり・・・実質的にはそんな状況になっている。 だからこそ、ちょっとでも家庭について考えると、思考停止になってしまう。いわば、「記憶を遮断する」ような事態になってしまう。 しかし、自分が育った家庭について考えないがゆえに、結局は、何も考えなくてもできてしまう「なじみ」の流儀を踏襲することになる。 考えたくないがゆえに、判断の場から逃避する。 捨てるという行為に心理的な抵抗があるだけでなく、判断することにも多大な心理的な抵抗がある。 そんな面からも、「捨てるという判断」はできませんよ。 だから、どんどんとゴミ屋敷状態が加速することになる。 これは単に「散らかっている」ということではなく、「捨てるもの」と「残すもの」の分別の判断からの逃避であり、そのような判断からの逃避の姿勢は、別の面でも出てきてしまうものなんですね。 当然のこととして、結婚するという状況においても、「どんな相手と」「いつ頃に」結婚しようかという点において、判断から逃避してしまう。 あるいは、「どんな時期に」子供を持とうかという点においても、何も判断しないまま。 な〜んとなく、結婚し、な〜んとなく、妊娠し、な〜んとなく、出産して、また、な〜んとなく、妊娠してしまう。 捨てるという判断ができない人が、子供を作らないという判断ができるわけがないでしょ? だから、避妊するという判断ができない結果として、子供を持つことになる。 まさに、捨てることができないがゆえに、ゴミ屋敷になっているのと同じ。 そして、事態がマズくなったら、どうやって事態に対処しようかという判断から逃避し、「そんなものは見たくない!」と、トンズラを決め込んでしまう。 このような流れは、判断からの逃避という点においては、一貫しているでしょ? この母親も、自分の子供時代を考えることから逃避しているんだから、結局は、何も考えなくてもできてしまう、自分の子供時代と同じ状況に、自分の子供をおいてしまうことになる。 じゃあ、この母親の出身家庭はどんな家庭だったの? このことについては、現段階では少しずつ報道されている段階のようです。 それこそ、実家も、ゴミ屋敷で、親はネグレクトで、そして、「両親は離婚」なさったとのこと。 まさに、絵に描いたような「子は親の鏡」状態。 そんな家庭で育った人間としては、親の問題をしっかりと自覚していれば、まだ対処はあるわけですが、実家の問題が思考停止になっているので、結局はなじみの流儀になってしまう。 そして、それがどんどんと進行してしまう。 ちなみに、犯人の女性は、3人兄弟の長女とのことですが、3人の子供のパターンは、「産んでしまってから考えるパターン」としては、実にありがちのもの。 「とりあえず、出産していったら、結果的に子供が3人になってしまったけど、4人だと多すぎるから、もうこの辺りで打ち止めとするかぁ・・・」そんなパターンの人が、子供3人になったりすることが多いんですね。子供を持つ前に考えるのではなく、持ってからそれなりに考えることになる。そして、その考えも、「な〜んとなく」の消去法となる。 顕著な不都合につながるものを排除するというスタイルの「選択」となるだけで、将来展望を踏まえた上で判断するわけではない。 それだけ、判断の場を恐怖している心理が見えてくるわけです。 そんな家庭に育ってしまったら、実家の問題点を自覚していくしかないわけですが、考えること自体に、心理的にプレッシャーを感じ、まさに自分の問題から目をそらしてくれるものを求め続けることになる。 犯人の女性のホスト遊び云々が扇情的に報道されているようですが、一番肝心な問題から目を背け、どうでもいいものに首を突っ込む姿勢は、たとえば、トルストイ描く「アンナ・カレーニナ」でも典型的に描かれているでしょ? ホストに関心を持つのも、アンナのように建築や絵画に関心を持つのも、審美眼的には違っていても、心理的には同じなんですね。 周囲としては、「アナタ・・・そんなことをやっている場合なの?もっとやらなければならないことがあるでしょ?」とツッコミを入れたくなってしまうものでしょ? 当事者意識がなく、自身での判断から逃避しているんだから、あらゆるトラブルが自分とは別の人のせいになってしまう。 結局は、親譲りの被害者意識に浸りきり、グチばかりになってしまう。 そして、そんな「グチばかりの自分を許容してくれる環境」を求めることになる。 被害者意識に浸っているだけなので、逆に言うと、「自分は被害者なんだから・・・」と、ますます自分では対処しなくなってしまう。 今回の事件は大阪で起きましたが・・・ この母親の実家は四日市だから、名古屋の近くでしょ? あるいは、東京に預けられたこともあったようですから、東京に住むという選択肢もあるでしょ? しかし、大阪に住んでしまう。 それだけ、グチに甘い環境を求めていたわけです。 そもそも、ダメダメ家庭出身者は、故郷を嫌うもの。 そして、親との関わりのあるものを嫌うことになる。 しかし、地理的な距離を取るのはいいとして、思考停止であるがゆえに、心理的には自分の親と近くなってしまう。 さて、このような事件があると、マスコミとか、あるいはインターネットに巣食っている連中が大騒ぎをするようですが・・・ なんでも、その母親を「鬼畜!」と糾弾して喜んでいるそう。 そんな言葉を投げつけて喜んでいられる精神や知能は、ある意味において、おめでたいものと言えますが、逆に言うと、スグに「罵詈雑言を投げつける人」が親になってしまったら、子供はどうなるの? 相手の意向に配慮して、自分の考えを相手に分かりやすく伝えるという会話の精神がないんだから、まあ、そんな親に育てられる子供としては、メチャクチャになってしまいますよ。 それこそ、そんな家庭は、ネグレクト系の虐待ではなく、暴力系の虐待になってしまいますよ。 本来は、その事件の23歳の母親も、事前に誰かに相談できれば改善の可能性もあるわけでしょ? 周囲としても、事件が起こる前に相談をしてもらう配慮をする必要があるのでは? インターネットで自分の正義感を粗暴なスタイルで表明しているのはいいとして、だったら、「この母親と同じように困っている人がいたら、事件を起こす前に、ワタシのところに相談してきてほしい。」と呼びかけるのが本当の善意なり正義感というものでは? そんな呼びかけなしに、主張される正義って、いったい何? 宗教原理主義者が、気に入らない人間を異端と認定して、火あぶりにして喜んでいるようなもの。山を動かすような信仰はあるのかもしれませんが、愛がないでしょ? 相談と言っても、そもそも、ダメダメ家庭出身者は、「相談の仕方がわからない」。 子供時代に親との間で相談をしたことがないんだから、成長後も、どうやって相談をしたらいいのか分かりませんよ。相談の仕方については、どうやって相談すればいいの?それって、論理的に不可能でしょ? 相談をしながら事態を解決していくという発想や習慣がない人が集まってしまうので、地域環境自体としても、「相談相手がいない環境」となってしまう。 だから、ますます周囲にサポートを求められない。 本来なら、結婚する前に、自分が一番よく知っている家庭・・・つまり自分の実家について、自分なりの考えを整理しておく必要があるわけですが、思考から逃避しているので、それもできない。 むしろ、必死になって自分を騙すようなことをすることになる。 それこそ、「子供と一緒で楽しいわ!」「ママになってうれしいわ!」などと、他の人の目に触れるような形で文章にしたりする。そんな文章を読んだマスコミの人が『この当時は、こんなに幸せそうだったのに・・・どうしてこんなことになってしまったのか?どうして転落してしまったのか?』などと疑問を持ったりしているようですが・・・ まあ、マスコミの皆さんは、清清しいほどに、頭がカラッポですねぇ・・・ 本当に子供と向き合っていれば、「子供と一緒でワタシは幸せ!」なんて、まるで北朝鮮の人のようなことを、これ見よがしで書き込んだりはしませんよ。ただでさえ、シングルマザーでハンディが大きいんだから、そんなことをしている場合ではありませんよ。たとえ、シングルマザーでなくても、3歳と1歳の子供がいれば、あっぷあっぷの状態でしょ? インターネット上に、母としての喜びを書き込んでいるヒマはありませんよ。 困っていることがあるのなら、先輩ママに助言を求めることはあるでしょう。 しかし、「ワタシは幸せ!」って、そんな書き込みをわざわざしている時点で、かなり危険なんですね。 それだけ、自分の直近の問題から目をそらそうとしているわけです。 とりあえず、自分の目をそらすことができるためのネタを探しているだけなんですね。 「ワタシはいい母親!」と、周囲に主張するために、子供の気持ちを犠牲にしている。 それこそ、アンナ・カレーニナが猪突に自分の息子に会いに出かけ、その息子さんの精神状態をメチャクチャにしてしまうようなもの。 周囲としても、その段階で、介入する必要があるといえます。 周囲の人間としては、事件が「起こってから」大騒ぎをするのではなく、「起こる前に」事前に注意喚起をする必要があるわけです。 しかし、そのような活動をしようとすると、ボランティアをやっているような正論オバンがやってきて、「そんな色眼鏡で見てはよくない!」とぶっこくもの。 正論は正論でいいとして、それによって、大変な目にあうのは、何も考えないままで結婚し、子供を持ってしまう側であり、そして、そんな人を親として持たざるを得ない子供の方なんですね。 ネグレクトというのは、一番重要で、一番大切な問題からの逃避という点からみると、よく見えてくるもの。まさに「大切なもの」と「それほど重要ではないもの」の区別の問題なんですね。たとえ、傍目から見ると、子供を非常にかわいがっているように見えても、その内実としては、違っているケースも多い。それこそ、実子を実質的にネグレクトしているのに、わざわざもらってきた養女をかわいがるようなケースもあったりする。そんな事例は、それこそ「アンナ・カレーニナ」のようなフィクションの世界だけでなく、実際にあったりするでしょ?あるいは、この犯人の女性の父親のように、自分の子供をネグレクトしているのに、高校の部活動の生徒に対して過剰に関わるのも、心理的にはまったく同じ。 いわば、いざとなったら逃げられるオプショナルな対象に過剰に関わることで、一番切実で、一番重要な対象からの逃避をごまかすわけです。 あるいは、ボランティアをやっている人も、自分の家庭や子供の問題と向き合うのが怖いために、人の問題に首を突っ込んでいるわけでしょ?そんな心理は、トルストイが描くくらいなんだから、大昔からある心理なんですね。 そんな人たちは、「ワタシは、子供たちをかわいがっている」という姿を周囲に見せることで、一番重要な対象をネグレクトしているといえるでしょう。そんな人たちを理解するためには、判断の場からの逃避という観点で見てみると、実に見通しがよくなるものなんですよ。 それこそ、インターネット上において、扇情的な言葉で、今回の母親を非難している人の周囲には、程度問題は別として、現実として困っている母親や子供が実際にいるもの。しかし、そんな身近な問題を放っておいて、これ見よがしの善意を語る・・・そんな姿は、この母親も、この母親の父親にも、その母親を感情的に非難した人にも共通しているものなんですね。 たとえば、この事件では、3歳と1歳の子供がネグレクトの結果でお亡くなりになりましたが、逆に、もし途中で救出されたら、どうなってしまうの? 母親を「指導して」、その母親のもとに送り返すの? それとも、祖父のもとに送るの? どっちも、結果は見えているでしょ? じゃあ、具体的にどうするの? 「何とかして、子供たちを救出できなかったのか?」と、大仰な同情の声を上げて、善人ぶるのは勝手ですが、「もし、救出できたら、どうするのか?」という点について、同情の声を上げた人は、具体論を持っているの? 「そんなことは、施設がやることだろう!オレは知らないぞ!」と言うの? そんな態度こそがネグレクトじゃないの? 事件そのものはともかく、事件の周辺の対応なんて、まさにカミュが「異邦人」で描く「やさしい無関心」そのものでしょ? 無関心は、たとえ「やさしくても」ネグレクトですよ。 というか、「子供をネグレクト状態から救出したらどうするのか?」という点を、社会としてネグレクトしているからこそ、この母親も実家のネグレクトを繰り返してしまったわけでしょ? つまり、この事件も単なる表象にすぎないわけで、その深層の土壌としては、子育てに限らないネグレクトが進行しているわけです。しかし、当事者意識がない人ほど、自分の目の前の問題を素通りして、他人の問題に首を突っ込んで、善意をこれみよがしに語ることになる。 しかし、これみよがしに語られた善意などは、この事件の母親が、「ママになった喜び。」をこれみよがしに語っていることと同じなんですね。 逆に言うと、同類同士だからこそ、同じ土俵でバトルをすることになる。 そんな点に注意すると、この手の事件も見通しがついてくるわけです。 |
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R.11/2/11 |