トップページに戻る | 配信日分類の総目次へ |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | ダメダメ土曜講座(事件・トラブル編) |
配信日 | 10年2月6日 (10年11月6日 記述を追加) |
タイトル | 親をかばう子供 |
前回配信の文章でも書きましたが、児童虐待の現場では、子供は親をかばうもの。 それこそ「お父さんは悪くない!」なんて言葉がスグに登場することになる。 そう言って、自分が暴力を振るわれている虐待の現場である実家に戻ることになる。 あるいは、成人後のドメスティック・ヴァイオレンスにおいて、「被害者」の女性が、「どうして実家に助けを求めないのか?」と周囲の人から聞かれたら「親に迷惑をかけたくないから。」とスグに答えたりするもの。 あるいは、親からヘンテコな名前を付けられてしまった子供は、その名前について、周囲の人から指摘を受けた際には、必死でそのヘンテコな名前を弁護したり、あるいはそんな名前をつけた親を弁護するもの。 家庭がダメダメであるほど、子供の側が親に配慮するわけです。 逆に言うと、子供の側が、そこまで親に配慮している姿から、その家庭のダメダメっぷりがわかるわけ。それだけ子供の側が、親の尻拭いをしているわけです。 いつも書いていますが、被害者意識が強いダメダメ家庭においては、親の側は「親である自分は子育てという迷惑を背負わされた被害者」という認識。だから子供に対して「親に迷惑をかけるな!」「いったい誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ?!」といつも言っている。 そんな感じで、親からいつも言われていたら、たとえその子供がどんなに困っていても、親にサポートを求めることなんてできないでしょ? ヘタにサポートを求めても、「自分のことは、自分でやれ!」「子供同士のトラブルに親はでない!」と門前払い。 子供がトラブル状況になると、むしろ親の側が子供に対し逆切れするわけ。結局は、子供だけで解決する必要がある。 子供が直面している事態が改善するどころか、それまでのトラブルに親からの圧力が加わって「ダブルバインド」になっただけ。 あるいは、親が過剰に登場してしまうパターンもある。 それこそモンスターペアレンツなんてことになってしまう。しかし、あのモンスターペアレンツも、名目としては子供のためと言っていますが、実質的には子供のために行動しているわけではないでしょ?あの手の親の行動の主目的は、子供を成長させたいというよりも、子供の面倒に巻き込まれたくない・・・そんな「見たくない」という心情でしょ? 「見たくない」と思っているので、「根絶」とかの過激なことを主張してしまう。 いわば、自分が周囲とは違っている状況、あるいは、選択が可能な状況そのものを見たくないわけ。 そして、親のそんな過激な行動を見て、子供の側は、ますます親に何も言えなくなるわけ。だって、親が大暴れして、子供の集団の中で肩身が狭くなるのは、結局は自分の側なんですからね。 いわば、ダメダメな親は、子供の問題を、親に対して言わせないようにしているわけ。 何も言わないんだから、親は子供のことを何も知らない。 だから、「ウチはうまく行っている!」と周囲に対して豪語することになる。 そして、何かトラブルがあっても、「あんなにうまく行っていた家庭だったのに、それまで何も問題がなかったのに、トラブルが発生したのは、全部○○のせいだ!」とやっぱり大騒ぎ。 まあ、そんなことをやっている家庭って、多いでしょ? あるいは、いわゆる市民団体って、まさにそんな感じでしょ? ダメダメ家庭の周囲では、親とのやり取りが不快な状況をもたらすという原体験があるので、実家の問題はアンタッチャブルになってしまう。 だからトラブルが発生すると、遠くの地点から検討することになる。 やたら一般論を主張したり、理念的に「べき論」を問答無用に主張するようになるわけ。 かと言って、身近にいる自分の子供の意向は無視・・・と言うか、何も言わせない。 まさに「自分だけ幸せになっていいのか?」「みんなで幸せになろう!」と絶対的なことを主張するようになる。 しかし、そんな状況だと、同類にとっては精神的にラク。 だって、一番考えたくない実家の問題には議論が行かないんだから、安心感があるんですね。ただ「あの○○のせいで、こんなに困ったことに?!ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」そうやって嘆いていればいい。そして、その犯人認定した○○を攻撃すればいいだけ。 エーリッヒ・フロム的にいうと「○○からの自由」だけがあって、「○○をする自由」から逃避している状態。 本来なら、そんな状況では何も改善しないわけですが、逆に言うと、一緒に犯人認定して、敵を攻撃しているだけの状態だと、精神的にラク。 まさにボランティアの連中にとっては、格好の居場所になるわけ。 だから、そんな状況を温存させようとする。 子供が親を必死でかばうと言うことは、それだけ、親の問題がアンタッチャブルということであって、その親が被害者意識が強いということ。 被害者意識が強いということは、逆に言うと当事者意識がない。当事者意識がないから、達成したものがない。 本来なら、その親に達成したものがあるのなら、あるいは、「いいところ」があるのなら、「ボクの親はこんなこともやっている!」「こんなスゴイこともできる!」と周囲に対して説明できるわけでしょ? しかし、達成したものが何もないし、肯定的な能力が何もないんだから、周囲に対して親の成果を説明することもできない。だからなおのこと、親が被りそうな減点面を減らそうとするわけ。 「親に迷惑をかけたくない!」という発想は、まさに減点面への過剰な反応であって、別の言い方をすると二重否定的な発想であり行動。 かと言って、二重否定と肯定は大きく違うもの。 親を必死でかばう行為は、親への迷惑を防止するという二重否定であって、親に対して愛情があるという肯定とは違うわけ。親のいいところを何も言えないからこその、減点面への反応になっているわけです。 周囲のボンクラな大人は、その違いが分からないから、虐待を受けている子供を親の元に返してしまって、結局は、子供が殺されてしまうことになる。あるいはドメスティック・ヴァイオレンスで加害者の側の男性をつるし上げて、その件については一件落着しても、そんな被害者の女性は、また実家から逃げるような形で、別の暴力オトコとくっついてしまう。 そうして、ボランティアの連中の「居場所」が、また出来上がることになる。 逆に言うと、ボランティアの連中は、そんな状況が再現されるように、誘導尋問風のやり取りをしたがるもの。 「悪いのは全部○○のせいよね?」 そうやって、自分たち自身とは遠いところに犯人を設定してしまって、自己逃避や現実逃避してしまう。 ボランティアの連中は、それによって、居場所ができることになる。しかし、子供の側が必死で親をかばう家庭で、うまく行っている家庭ってないでしょ? そして、そんなところほど、ボランティアが寄ってきて、そんな状況を温存させようとするもの。 しかし、そんなボランティアの活動によって、「何も悪くない!」と認定されてしまった人間は、「ワタシは、何も悪くないから」と、何も考えずに、またポコポコと子供を作ったりすることになる。そんな状況で生まれてしまった子供の居場所はどこにあるの? ダメダメな親は何かと恩を着せ「○○をしてやった!」という物言いをするもの。 そして、そんな家庭の子供は、そんな物言いに順応するようになってしまう。その物言いをされると、思考停止になってしまう。 だからこそ、同じように「○○してやった!」と物言いをするボランティアにとっては好都合で利用しやすい。 ボランティアが元気で活動しているところほど、子供の意向がないがしろにされている・・・そんな光景は、どんな場所にもあるものでしょ? 逆に言うと、子供の側が親や周囲の大人に配慮して何も言えない状況だからこそ、ボランティアはノビノビしていられるわけ。 頻繁に書いていますが、ボランティアとかPTAとか市民運動の人が一番嫌うのは、子供の率直な見解。 それこそ「あの人は、立派なことを言っているけど、実際は何もわかっていないじゃないか。」そんなところを突いて来られるのが怖い。まるで「あの王様はハダカだ!」という子供の声に脅える独裁者のようなもの。 そんな独裁者も、「悪いのは全部○○のせいだ!だから、あの○○をやっつけよう!」という大人の声は喜び、スグに反応することになる。 それこそ「何をバカなことを言っているんだ!オマエはあの○○の手先か!」と逆上したり、「そうだ!我々と一緒になって、あの○○と戦っていこう!」と言ったりする。 しかし、「立派そうに見えても、実はわかっていない。」という子供からの指摘に対しては、立派な大人たちはノーリアクションでしょ? だって、その指摘こそが真実なんですからね。 真実だからこそ、反論もできず、結局は無視を決め込むしかない。 無視されてしまうので、子供も周囲の大人に何も言わないようになってしまう。 たとえ、子供の側が、ボランティアに対する不満を持っていても、言わない習慣になっているわけ。 親をかばう子供がいる領域だと、ボランティアに対しても厳しいことを言われない。 だからこそ、そんな状況がますます温存され、事態がますます深刻化してしまうわけ。 (終了) *************************************************** 発信後記 このメールマガジンでは、頻繁にボランティアについて言及しておりますが、ボランティアの人も、まさに「親を必死でかばう子供」の成れの果て。 よく知って状態だから、そんな子供を救えるか?というと、そうは行かない。 だって、その問題点を自覚していないから。 自分の問題を直視することから逃避するために、人助けに逃げ込む。 それも、自分にとって、もっともクリティカルな指摘を受けない類の状況に首を突っ込む。 まずは、子供が自分の意向を周囲に言えるようにすることが、事態の解決のために、一番しなければならないことでしょ? しかし、この手の状況は、まさに大人が子供に意向を言わせないわけ。だからドッカーンとなってしまうわけです。 |
|
R.10/11/6 |