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カテゴリー ダメダメ土曜講座(発想と視点編)
アップ日 11年1月8日 (11年1月24日 記述を追加)
タイトル 掛け値の街としての大阪
以前にメールマガジンにおいて、いわば総集編的に大阪の問題を取り上げております。
大阪は児童虐待などのダメダメ家庭の事件が頻発している。だから、私なりに考えてみたわけです。
もちろん、その文章は、大阪の評価を目的としたものではなく、ダメダメ家庭(=機能不全家庭)の不全な機能を、具体的に、そして各論的に考えるにあたって、大阪というスクリーンに映しただけです。

とは言え、やっぱり、あの文章をお読みになって面白くない思いをされた方もいらっしゃるでしょう。まあ、それは当然のこと。
と言うことで、色々と反響があったりする。

さて、あの文章は、プラトン的に言うと、大阪というスクリーンにダメダメ家庭のイデアを投影した意図を持っているわけですが、じゃあ、どうして、大阪があのような状態になってしまったのか?
そんな経緯についてのご質問がありました。

あの文章は、まさに「現状」に対応しているわけですが、じゃあ、「過去」からの経緯はどうなのか?どのようにして、このような現状になったのか?その点について考えることも意味があることと言えるでしょう。そもそも、このサイトは、経緯からのプロセスを組み立てていくことに関しては、人類の歴史上屈指のものでしょうしね。
だからこそ、大阪の問題も、過去からの経緯の組み立てで説明してもいいのでは?
そのようなお便りもありました。

それは確かに面白そうだ!
と言うことで、私なりに大阪の問題を考え直してみた次第です。
大阪というと、よく言われるのが「食い道楽」の街と言うこと。
この点はそれなりに結構なこと。
しかし、その点から、大阪の現状のダメダメを説明することは、難しそう。
みんながおいしいものを楽しく食べることは、ダメダメとは対極ですよ。
「食い道楽」という面もありますが、大阪については、別の言われ方をされますよね?
大阪は「商いの街」と言われ、実際に、商業が昔から盛んです。
それに、商いというと、近くに「堺」という歴史的な商業都市もある。
大阪という地域と、商業という特性は結びつきやすい。

さて、商いというか、商業はいいとして、大阪の商いには特徴があります。
以前に大阪について触れた際にも言及したしましたが、大阪の商いは、「掛け値」が基本となっている。
商品の値段として、定価が厳格に決まっているというよりも、対面でのやり取りで「もうちょっと勉強しいや!」などと値切って行ったり、あるいは、引っ掛かりそうな相手だったら、「吹っかけたり」することになる。いわば、駆け引きが多くなる。

そのこと自体は、悪いこととは言えないでしょう。
しかし、物事には限度というものがある。
「掛け値」でのやり取りが標準となってしまうと、色々とマズイことになってしまう。
現在の大阪の問題は、そんな「掛け値」でのやり取りのひずみなり問題点が極大化したと見ると、意外にも見通しがよくなるものなんですよ。

そもそも、「掛け値」なんだから、相手を見る必要が出てくる。
そして、相手の立場などに引っ張られることになる。
これが定価での売買だったら、相手には依存しない。
しかし、掛け値での商売は、値段が相手によって変わってくるわけでしょ?

つまり、その商品の価値が、人との関係によって変化してしまうことになる。
立場のある相手に対しては、売る側も「誠意を見せる」必要もあるでしょうし、一見さんに対しては、強気に出ることもできるでしょう。
もちろん、それは商売の勘所なんだから、そのこと自体は問題ない。
しかし、相手を見るという姿勢があまりに強くなってしまうと、その分だけ自分を見失ってしまうことになる。

それこそ、安くしてもらおうと、相手に好意を持ってもらおうとする
定価での売買であれば、相手との関係に好意があろうがなかろうが関係ない。
しかし、掛け値だったら、好意を持ってもらうと有利でしょ?
だから、それなりに愛想よくする必要がある。

それは「人情の街」という面を形作るわけですが、以前より頻繁に書いておりますが、「好意と信頼」は別のもの。
それに、好意によって、あるいは情緒によって、そして相手の立場によって対応が変わってしまうとなると、当然のごとく、そのやり取りは閉鎖性を帯びてしまう。気心が通じている人に対しては、過分に配慮することになる。そして、お互いが配慮しあうことで、ますます閉鎖的になってしまう。
プラス方向での配慮だったらいいとして、プラスがあれば、マイナスも発生する。そのひずみは、やっぱり問題になりますよ。
あるいは、やり取りにあたっても、言語化された明確なルールではなく、「なんとなく」の情緒が優先されるような事態になれば、外部の人間は立ち入れませんよ。

その閉鎖性があるがゆえに、その閉鎖的な言葉を捨てることは死活問題となってしまう。
大阪出身者がいつまでも大阪弁にこだわるのは、閉鎖集団から排除されてしまったら、それが死に通じてしまうという恐怖がすり込まれているからなのでは?

前にも書きましたが、「掛け値」というのは、相手によって、態度を変えるということ。
相手が「立場のある」人間に対しては、いささかヘーコラすることになりますし、立場の弱い人間に対しては居丈高な振る舞いとなってしまうし、ヘタをすれば、相手にしようともしない。
このような態度は、いわゆる差別意識そのもの。
大阪でおなじみの民族差別も、あるいは、出身地差別の問題も、「掛け値」での商いとの間で共通性は高いでしょ?
だって、その手の人たちとは過去のやり取りの積み重ねがあったわけでもないし、今後に長い付き合いがある可能性も低い。それに、まあ、相手の感情もよく判らない。となると、邪険にしてしまいがちになってしまう。
それこそ、「オマエたちなんて、コッチに来るな!」という雰囲気になってしまいますよ。

あるいは、常に、相手を値踏みしているので、逆に、自分の側も値踏みされていると考えている。どうしても、周囲をうかがうような習慣が身についてしまう。
また、「立場がある人間」であれば、相手から愛想よくしてもらえ、そして、対応も値段においても配慮してもらえるわけだから、自分の実体以上に大きく見せようとすることになるのは当然のこと。
だからこそ、何かと言うと、勝ち負けにしてしまい、勝つことで、自分を大きな存在としてアピールしようとする。
だから、やたら「どっちが上か?」と言い出すことになる。
だからこそ、何かと比較することが多くなる。
これが「アッチの店の方が安いぞ!」くらいの商売に限ったものならともかく、そんな習慣があれば、子供の間の比較もやってしまいますよ。
「あの○○ちゃんは出来がいい・・・それにくらべてウチの△△は・・・」
そんな言葉は、「あの店は、この品物が安い。それにくらべて、この店は・・・」という物言いとほとんど同じでしょ?
商売上の駆け引きに留まればいいわけですが、そんな比較が家庭内で日常化してしまうことになる。他と比較されてばかりだったら、子供としても家庭内で気が休まるわけがありませんよ。

あるいは、「立場がある」と認定されて、それなりに対応してもらえればいいわけですが、そのように扱われなくなってしまったら、もうどうしようもない。
いわば関係性で結びついている閉鎖的な集団から排除されてしまったら、やり取りができないわけです。これが定価売買だったら、とにもかくにも定価で売って買うだけ。
関係性が優先されてしまう状況になると、外部の人間との扱いとされれば、買う際には、異常に「吹っかけられて」しまう。あるいは、そもそも商いの場にすら入れない事態も起こったりする。前にも書いた差別状態となる。
だから、排除された側は、そんな既存の集団に対して、被害者意識を募らせ、対抗心を抱くことになる。やたら「アンチ○○」などと言い出すわけです。

「掛け値」でのやり取りは、その場の情緒が優先され、言語化された明確なルールで運営されるわけではない。だから、そんなやり取りの管理運営は、明確なルールによるものではなく、人がやるしかない。
逆に言うと、そのような属人的な管理しか存在しないがゆえに、管理をつかさどる官憲は威張ることになる。
つまり、権威主義的な面が出てきてしまうわけです。
以前にも書いておりますが、権威主義は、「何を言っているのか?」よりも「誰が言っているのか?」が優先されている状態となっている。そんな属人性は、まさに掛け値でのやり取りと共通しています。

このような属人的な管理なり権威主義的な面は、東アジアと共通している。
だからこそ、なじみのメンタリティを求め、その手の国の人がやってきてしまう。

明確なルールで運営されているわけではないので、クレームを受けると弱い。
誰かから指摘を受けてしまうと、「我々はこのようなルールに基づいてこの場を運営している。」と明確に説明できない。だって、運営はその場の裁量なんですからね。だから、クレームを受けると、結局は、何がしかのお金を渡して、その場を取り繕うしかない。クレームを解決するという発想ではなく、クレームを見ないという対処しかできないわけです。
逆に言うと、クレームを言う側にしてみれば、クレームをつけると、何がしかを得られるという成功体験となってしまう。
ということで、その手のクレーム愛好家を呼び込んでしまう。ということで、ますますクレームを持ちかけられることになる。
弱い相手だったらクレームを言われても無視するという方法が取れても、集団でクレームを受けると、対処しなくてならない。だからこそ、クレームをつける側の方法も規模も大きくなり過激なものになってしまう。

情緒優先でやってきたので、クレームをつけられるとやっぱり対処できず、ましては、情緒に配慮する習慣があるので、相手の怒りに対処しようとして、相変わらずの、「お金で処理」の方法しかもち得ない。
好意志向の人間は、被害を先に語れると対処ができないことが多く、考えなくても済む状態を求めて、手短な対処法にすがってしまう。
と言うことで、その種の、クレーム愛好家がますます集まってきてしまう。

融通を利かせるという大義名分のもと、言語化された明確なルールを回避する姿勢は、いい方向に向かうと、「人情に厚い」と言えるわけですが、それは好意志向であって、信頼の方向を向いてはいない。
自分自身なり相手なり、その商品そのものの価値よりも、相手との属人的な関係性が優先されてしまっている。別のところでも書いていますが、ストーカーとかクレーマーは、自身や相手よりも、相手との関係性が優先されてしまっている状態と言えます。だから、自分の命を捨てることや、相手の命を奪うことも躊躇しない。
関係性の肥大化と言う点において、掛け値での商売も、ストーカーやクレーマーと心理的な土壌は共通しているわけです。

相手を見ること自体は価値があることでも、相手を見すぎると、それが自己逃避の方法論になってしまう。
そして、好意という名目で、信頼の問題から逃避してしまう。
その人に一本筋が通っている信念があるからこそ、適宜融通を利かせることにも意味があるわけですが、融通だけで信念がなければ、人としての尊厳とは無縁でしょ?

好意ではなく、信頼を志向していたら、当人自身として一貫性を持つことになるわけですから、閉鎖性にはならない。好意志向が閉鎖性につながりやすいのは、皆様も感覚的に理解できるでしょ?何をやっているのかについて明確に理解できなければ、そんな人たちに対して信頼感を持つことはありませんよ。

自身に信念があれば、自分の信念を相手に対して言葉で説明し、相手の信念を聞くこともできる。会話というものは、相違点を認めた上で、相互理解を達成するもの。それに対し、おしゃべりというのは、相違点がない状態が理想でしょ?
だったら、そもそも自身の信念自体が無い方がいい。

と言うことで、信念もなく、だからこそ、説明の意欲も無く、そして説明の能力も無く、そんな状況の中で、お互いが楽しいおしゃべりを積み重ねていく・・・
一時的にはいいとして、それが積み重なると、やっぱりトラブルになりますよ。

前にも書いていますが、会話というものは、相違点を認めた上で、合意形成をはかっていくものですが、おしゃべりは、相違点がないことが理想といえるでしょ?
この私も大阪の人からお便りをいただくこともありますが、大阪の方は例外なく、最後を締めるパターンにはならないんですね。
「な〜んとなく」の「テンテンテン」で、いつのまにかメールが来なくなるパターンで、オシマイとなってしまう。
そんなやり取りになってしまうので、「相違点を認めた上で、相互理解を達成するという習慣がないのかな?」と思うことも多いんですよ。

自らの信念があれば、それを相手に対して分かりやすく伝えればいいだけ。
人それぞれの考え方があるんだから、ムリに一致させる必要はありませんよ。
しかし、一致しない場合の対応の仕方が、大阪の人は、分からないのかもしれません。
それこそ、定価を提示されて「買わない。」という判断ができず、いつまでも食い下がるか、『今度また来る。』と言い残して、いつのまにかいなくなってしまうのか?
掛け値のやり取りだと、そんな感じになってしまうでしょ?
「オレは○○円でこれを売る。」『△△円だったら買う。』「それはムリだ。」『じゃあ、今回は取引はなしね。』というシンプルなやり取りにはならないことの相似性から見えてくるのでは?
見解の相違が発生すると、やたら過激な対応となる・・・大阪に関係したニュースを見ていると、そんなシーンがあったりするでしょ?
人それぞれの信念をお互いに尊重した上で、やり取りしていくことができない感じでしょ?

臨機応変という美名の元に、信念を喪失してしまっているのでは?
それは、定価ではなく、掛け値を向いていることと心理的につながっていると言えるのでは?

ちなみに、属人性という点において、大阪と東アジアとの間には共通性は高いわけですが、大阪と東アジアでは大きく違っている点があります。
大阪は、プラグマティズムがあるんですね。
プラグマティズムは、「で、結局は、自分はどうしたいのか?」という点に常に立ち戻ることにつながり、自己逃避を緩和できる。
商いの街の持つプラグマティズムこそが、権威主義一辺倒の東アジアと、大阪の間の差を形作っていると言えるでしょう。

ちなみに、私としては、大阪の問題を指摘しているのではありませんよ。
また、現在の大阪の問題のすべてが「掛け値」での商いの特徴から導きだされると申し上げているわけではありません。
「掛け値」という視点、そして、それが持つ属人性という視点を使ってダメダメ家庭の問題を考えているわけです。
融通なり情緒なり楽しいおしゃべりも、その人の信念なり会話の能力があってこそ、価値を持って来る。
明確な言語化されたルールの上で融通を利かせるのなら、いいことと言えるでしょうが、ルールの前に融通がある状態だと、結局は「立場の弱い」そして「過去の実績」の少ない、そして、クレームを言うことができないものにしわ寄せが集約してしまう。それって、現実的には子供でしょ?
大阪で児童虐待の事件が多発するのも当然なんですね。
それこそ、一見の子供が掛け値での商売の現場で相手にされないようなもの。
定価での売買だったら、子供だって、そのお金を出せば相手にしてもらえる。
しかし、掛け値の世界だったら、無視されてしまうわけです。
私としては、この文章において、そんな視点を提示しているだけなんですよ。
 R.11/1/24