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カテゴリー ダメダメ家庭の会話の雰囲気
配信日 09年8月14日 (10年10月9日 記述を追加)
タイトル 逃避としての「べき論」
ダメダメ家庭の人間の物言いには「べき」が多い・・・このことは以前に配信しております。「こうすべきだ!」「ああすべきだ!」と、常にそんな一方通行の物言いになっている。
相手の考えを聞くという会話の精神がなく、問答無用で強圧的なんですね。
別のいい方をすると、相手から合意を取るという肯定的な発想ではなく、「反論は許さない!」という二重否定的なスタイルになっている。
まあ、だから、そんな家庭の子供が、親に対して何も言えずに、ドッカーンとなってしまうわけですが・・・

ダメダメ家庭の人間が言いたいことは、自分の被害だけ。
「ワタシがどんなにかわいそうな被害者なのか、分かってほしい!」それくらい。
だから、反論されては困ってしまう。
そんな人のやり取りは、自分の被害を語って、それでオシマイとするだけ。
典型的に見られたのが、長崎県での小学校での事件での「手記」でしたよね?

自分の被害を語りたいのはいいとして、そして、反論を許さないスタイルで語るのはいいとして、現在の自分自身の状況をどうするの?
本来なら、自分の被害を語って、誰かを非難してオシマイというものではないでしょ?
何がしかの対処をする必要があるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。自分の問題を自分で解決する意欲や発想を持っていない。当事者意識がないというより、自己逃避しているのがダメダメ家庭。
実は、この自己逃避からも、「べき論」が登場したりするものなんですね。

それこそ、家庭内暴力(DV)状況にある女性やその関係者が言ったりする。
「夫は妻にもっと優しくすべきなのだ!夫婦でコミュニケーションが成立するように会話をするべきだ!家庭内暴力を根絶すべきだ!」
まあ、御説ごもっとも・・・
しかし、そんな高邁な「べき論」を聞かされた側は、その人に質問することになる。
「で、アンタ自身は離婚するの?しないの?」

そんな質問に対しては「男性は女性に対し・・・」と、やっぱり一般論。
家庭内暴力を根絶しようという理想は理想でいいとして、じゃあ、そんな人は妻を殴っているアラビアの夫をどうしたいの?妻を蹴飛ばしているインドの夫をどうするつもりなの?そんな見てもいない夫婦の問題を議論するより、自分自身の現状の方が切実な問題じゃないの?

と言うか、自分自身の問題を解決できないような人間が、見てもいない人間の問題を解決できるの?自分の問題を解決できたのなら、その方法を教えればいいだけでしょ?

自分自身から逃避する人間は、一般論に逃げ込んでしまう。
そして、「制度が悪い。」とか、「時代が悪い。」とか言い出し、「変えるべきなのだ!」と御高説。
しかし、『アンタ自身はどうなのよ?』『アンタもこうすればいいじゃないの?』と言われてしまうと、「何でそんなことを言うのよ!」と逆上して、「覚えてなさいよ!」と捨てせりふを投げつけてトンズラ。
そんな光景は実にポピュラーな光景でしょ?

まあ、そんな光景を見せられれば、『まあ、こんな女性なんだから、暴力オトコと結婚するわけだよなぁ・・・』と思うだけでしょ?
「べき」という言葉は、会話の不全の具体例であると同時に、当事者意識の欠如の具体例と言えるわけです。
それだけならともかく、そんな人は、強い被害者意識も持っているもの。
だから、ヘタに関わると、「アイツのせいで上手く行かない!「みんなアイツが悪いんだ!」と犯人認定されるだけ。

「べき」という言葉が頻発するような人間からは、早めに避難する・・・べきだ!・・・なんて申し上げるつもりはありませんヨ。
そんな人がそんなに好きなら、いつまでも一緒にいたら?
ただ、どうなっても私は知りませんよ。
そもそも一緒にいて、話をしても楽しい人じゃないでしょ?
いったい、そんな人の何が好きなの?

しかし、「べき論」を連呼するそんな強圧的な人間も、それなりの需要があったりする。
抑圧的な人間は、マゾヒズム的な傾向を持っています。
何も身体的な拘束だけでなく、知的な面でも、心理的な面でも拘束されることを求めている。そんな人にしてみれば、「べき」という物言いで「拘束」されることがカイカンになっているんですね。

「べき」なんて物言いが頻発するような人は、権威筋認定のご高説を盲目的に繰り返すばかり。ご高説であるがゆえに、疑いを持つ必要がなく、自分で考えなくてもいい。
そんな状態は、「自分はどうしたいのか?」そんなシンプルなことを考えることから逃避しているというか、自分で考える自由を「縛っている」と言えるでしょう。
いわば自己逃避の方法として、倫理に逃げ込んでしまう。あるいは、通りがいい、反論されにくいロジックとして倫理が使われることになる。

抑圧的で自己逃避のダメダメ人間は、判断する場合において、自分との関わりという観点から事態を見るのではなく、むしろ、その点から逃避してしまう。倫理というものは、自分とは無縁に第3者的に存在しているもの。だから、倫理を最初に持ち出すことにより、自分の現状認識から逃避してしまう。倫理的な観点というと、例の「いい、悪い」の問題です。
それこそ、前にあげた家庭内暴力の問題でも、真っ先に「いい、悪い」の倫理的な話になってしまう。そして、それ以外の観点は出て来ない。
しかし、そもそもそんな状態になる女性は、「人を見る目がない」わけでしょ?
「人を見る目がない」ことは、倫理的には問題はありませんよね?だから、その「人を見る目」の問題は何も考えない。ただ、暴力オトコを「アイツのせいで!」と恨んでいるだけ。そうして「ワタシは悪くない!」と言っているだけ。ということで、安心して思考停止状態を獲得できる。しかし、思考停止なんだから、事態が改善するわけもなく・・・
結局はいつものグチが登場してくる。「ああ!どうしてワタシだけこんなことに!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」

女性の側も、確かに倫理的には「悪くない。」と言えますが、プラグマティックな能力としては問題ありでしょ?だから、そんなオトコと一緒になってしまったんでしょ?
本来なら「人を見る目をどうやって向上させていくのか?」という自分自身の問題と向き合う必要があるでしょ?あるいは、「自分は人を見る目がないから、周囲の人でマトモな判断ができる人に適宜相談しよう!」と考えてもいいじゃないの?

事情をちゃんと説明すれば、助けてくれる人もいますよ。だって『アイツは頼りになる。』とか『アイツと一緒になると、将来モメるぞ!』なんて、それなりの洞察力があれば、スグに判ることなんですからね。そんな人に適宜相談すればいいだけ。実に簡単な話ですよ。「彼は将来は億万長者になれるかどうか?」そんな問題ではなく、暴力をふるうかどうかなんて、ちょっと観察すればスグに判りますよ。

しかし、自分自身から逃避して、自分で考えることから逃避しているので、そんな現実的な発想はしない。むしろ、自分で考えないようにしたい。
だから第3者的な体系である倫理に頼ってしまう。
そして「ワタシは悪くない!」と言っているだけになってしまう。

倫理的な主張は、単に自分の現状を認識することから逃避できるというだけではありません。会話からも逃避できるんですね。だって、倫理的な主張に対しては、反論はされないでしょ?だから会話にならないし、だからこそ説明しなくてもいい。
「妻を殴る暴力オトコは悪いヤツ!」そんな言葉に対しては反論はありませんよ。言うとしたら「で、アンタ自身は、どうしたいの?」くらいでしょ?

だからトラブル状態になると、「べき論」を使って、真っ先に倫理的な観点が出てくることになる。そうして自己逃避してしまう。そうなると、同類が集まってきて、「そうよ!そうよ!アナタは悪くないわ!」と大盛り上がり。
自己逃避で自分で考えたくないものだから、そんな人たちは、やっぱり権威主義的。
「エライ○○先生がおっしゃっているんだから・・・こうすべきだ!」と、やっぱり「べき」が登場してくる。

問答無用の「べき論」なので、ますます現状認識が無くなってしまう。自分で認識することを拘束するマゾヒズム的安楽に浸ってしまう。
いわゆる市民運動とかボランティアとかの領域において、そんな光景は実にポピュラーでしょ?
その手の人たちは、よく「ダメなものはダメ!」なる物言いをしますよね?
まあ、たとえば泥棒行為については、「ダメなものはダメ!」と言えるでしょう。たとえその泥棒さんに様々な事情があったとしてもね。
しかし、議論の余地と、説明の余地は違うでしょ?

ダメならダメでそのことを説明してもいいのでは?
『泥棒行為はどうしてダメなのか?』という問題の説明にあたっては、「ダメなものはダメ!」という物言いでは不適でしょ?
『腹が減っているから、泥棒をしたい。』という申請に対しては、「ダメなものはダメ!」という回答も、一応はありでしょう。
しかし、『どうしてダメなのか?』という質問であったら、ちゃんとした説明をする必要があるでしょ?
子供からそんな質問があったら、どのように説明するの?

しかし、物事を自分では考えていないし、説明能力がないダメダメ人間は、説明の余地の問題を、議論の余地なり配慮の余地の問題にすり替えてしまって、問答無用に言い渡すだけ。
早々に倫理の観点を取りだし、説明というシチュエーションから逃避してしまうわけです。

倫理そのものに問題があるなんて、「不道徳」なことを申し上げているわけではありませんよ。現状をしっかり認識することが先じゃないの?と申し上げているだけです。
現状から逃避するための、便法として「倫理」を持ち出すのは、それこそが「不道徳」というもの。あるいは、自分の説明能力の低さを、倫理を持ち出すことでごかますことも不道徳でしょ?「ワタシはこんなに正しいことを言っているんだから、説明がメチャクチャでも構わないわ!」って、それが道徳的な発想なの?

しかし、ダメダメの世界では、真っ先に倫理が出てきて、その時点で思考停止や説明の中断となり、そして何も対処せず、周囲の人も明確な説明が得られず、事態がどんどんと悪くなるばかり。事態が更に悪くなって言う言葉は、やっぱりコレ。
「ワタシは悪くない!」

このメールマガジジンで何回も書いていますが、「悪くない」という言葉は意味不明ですよ。
倫理的に見て瑕疵がないといっても、対策を取らなくてもいいというものではないでしょ?しかし、抑圧的な人は、対策を取りたくないがゆえに、「悪くはない」と言い出す。
倫理を前面に押し出すことにより、心理的な抑圧の問題から目を背けてしまう。

これは上記で触れております家庭内暴力の問題がその典型です。夫の側も、ある意味において倫理のドグマに拘束されていると言えます。
妻に暴力を振るう夫としては『妻の出来が悪い → だから指導する。』となっている。
その夫にしてみれば、当人の暴力的な行為は倫理的な行動となっている。しかし、殴っても解決しませんよ。現状はどうなっているの?結局はどうしたいの?
しかし、そんな夫は「妻が悪い!」と倫理的な主張をするばかり。
もちろん、夫から暴力を振るわれる女性も同じ。グチグチと周囲に文句を言うのはいいとして、じゃあ、離婚するの?そんな判断から逃避して、「夫が悪い!」と倫理的な主張に逃げ込んでいる。

「で、結局、自分自身は、どうしたいの?」
そんな問題を考えることから逃避しているんですね。
いわば、逃避の名分として倫理が持ち出されてしまっている。

夫婦間の暴力だけでなく、自分の子供を虐待している親や、その周囲の人も同じ。周囲の人は「親は子供をかわいがるべきだ!」と倫理的な説教しても、「そんなに子供がイヤなら、養子に出せばいいじゃないの?」と言った現実的なアドヴァイスはしないもの。
そんな現実的なアドヴァイスを受けると、自分で考えなくてはならないでしょ?
抑圧的な人間は、それはイヤ。
だから、『どうして、そんなことを言うのよ?!』と逆上するばかり。そして、「子供は、実の親が育てるべきものだ。」という外部的な倫理観が登場して来るだけ。
自分の子供を虐待している親は「もっと子供のことをかわいがるべきだ!」という説教は黙って聞くものですが、「殴るくらいに子育てがイヤなら、養子に出せばいいじゃないの?」と言うと逆上するものなんですよ。

「親は子供をかわいがるべきだ!」と倫理的に説教する人も、実際に自分の子供を虐待する親も、問答無用で、抑圧的な心理という点においては共通しているわけです。
「で、アンタ自身はどうしたいの?」という点から逃避しているんですね。
逆に言うと、「親は自分の子供をかわいがるべきだ!」と問答無用に説教する人間は、何かのきっかけで、子供を虐待する可能性があるといえます。
というか、そんな「べき論」を使っている段階で、子供との会話がどんなものなのか?見当がつくでしょ?

あるいは、未成年の性交渉も同じでしょ?
よく、いつのまにか妊娠してしまって、その嬰児を殺害するなんて事件が起こったりするでしょ?
そんな事件は、倫理的に議論すると同時に、心理的にも考えないとね
「ダメだ!ダメだ!」と倫理的にお説教すれば事態は改善するの?
倫理的な視点ばかりだからこそ、現実的には思考停止になってしまう。だからこそ、そこから外れた場合には何も考えられない。だから避妊もせず、そのまま妊娠してしまい、結局は、その後も何も対処せず、大きな事件になってしまう。

倫理的な主張を押し付けることによって、現状認識なり当人なりの思考を抑圧してしまう。だからますます現実的に事態が悪くなる。

倫理を前面に押し出すと、現実的な問題がおろそかになってしまうもの。
そうして「どっちが悪いのか?」で倫理的な観点でのバトルの応酬になるだけ。

当人に、達成したいものがないので、あらゆる結論に倫理がからんでくる。
逆に言うと、バトルに負けた方は、倫理的に悪いとされてしまう。
だからこそ「アタナたちは悪くない!」と言ってくれる人にすがってしまう。
第1次大戦後のドイツがまさにその典型でしょ?
戦争の勝ち負けだって、現実的には、戦争の仕方がヘタだったから負けただけ。
しかし、倫理の問題にしてしまうがゆえに、「アナタは悪くない!」という言葉を求めて、ヒトラーの台頭を許すことになる。

そう言えば、以前に日本の民主党の女性議員が、不倫とかでモメましたが・・・
相手方の男性が、過去の情事について語っていたようですが・・・
不倫が悪いとかの倫理的な観点はあるでしょう。なんと言っても「不倫」というくらいなんだから、倫理的ではない。しかし、それ以上に、過去の秘め事をバラすような男性と不倫することも問題でしょ?そもそもそんなオトコのどこがいいの?もっと相手を選んで上手に不倫すればいいのでは?
これはまさに家庭内暴力の問題と同じなんですね。
それは倫理的な問題というより、「人を見る目」の問題でしょ?しかい、抑圧的な人間は、倫理を声高に叫ぶことにより、「自分はどうしたいのか?」考えることを回避してしまう。
プラグマティックな対処ができないことを倫理でごまかすわけです。

倫理的に見て悪くないからといって、「じゃあ、このままでいい!」とは言えないでしょ?
これも以前に触れましたが映画「マイ・フェア・レイディ」がそのテーマの作品です。
ドブ板英語しか話せないイライザは、倫理的には悪くはありませんよ。しかし、「このまま行ったらどうなってしまうのか?」そんな観点から考える必要があるでしょ?

たとえば、ガンになってしまった人は、倫理的に問題があったからガンになったわけではないでしょ?ガンが判った後になって、「ワタシは悪くない!」「どうしてこんなことに?!」と絶叫しても、無意味ですよ。
ガンになったのが判ったのなら、手術をするなり、薬物療法を取るなり、あるいは、覚悟して何もしないなり・・・そんな判断をすればいいだけ。「ガンとどのように向き合うのか?」そういう問題になるでしょ?

あるいは、このメールマガジンで以前に言及した歯並びの問題も同じ。
「歯並びが悪い人間も、人間の価値としては同じなんだと社会で教えるべきだ!」と『善意の人間』は主張したりするもの。
そんな人に対して「じゃあ、自分の子供の歯並びは矯正するの?」と聞いても答えがない。
と言うか、自分の子供の歯並びなんて、そもそも知っていない。
ただ、問答無用で権威筋認定の正論をぶっこくだけ。

家庭内暴力の問題も基本的には同じなんですね。
本来は、「自分がどうしたいのか?」を自分で明確化するのが先でしょ?
しかし、そのことから逃避するために、倫理的な視点を持ちだし、「ワタシは何も悪くない!」と言うだけ。そんな倫理的な主張をすると、同類が寄ってきて「そうよ!そうよ!アナタは何も悪くないわ!」と共鳴する。

「家庭内暴力の根絶」という大義名分は、「自分がどのような相手を選ぶのか?」判断しないための言い訳になっている。いわば「根絶されていないのが悪いんだ!」「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」そんな境地。
暴力的なオトコを探しだし、つるし上げ、そんな暴力的な儀式を挙行することで、判断の場を恐怖する自分たちを納得させるだけ。

暴力的で儀式的な手法で、自分を納得させても、抑圧的な人間は「で、結局は、自分としてはどうしたいの?」がない。
自分で考えたくないものだから、権威主義的な倫理に逃避するばかり。
まさに魯迅の「狂人日記」で記述されているように「年代がないのに、仁義道徳がうねうねと書いてある・・・」なんて事態になってしまう。

そんな人は、絶対平和なんて格好のいいものを主張する。そして、「絶対平和でないことが悪いんだ!」と言いだし、だから、自分では何もしない・・・「悪い時代だなぁ・・・」とか言いながら、何かを恨んでいるだけ。あるいは、気に入らない人間を探し出し、つるし上げて、暴力的な方法で糾弾しているだけ。自分たちの暴力行為の大義名分が、平和の実現というだけ。

恒久平和を掲げる人は、その人の内面はそんなに平和なの?
もしそうなら、その方法を人に教えるのが先でしょ?
こうやったら、精神が平和になる・・・そんなことを語ってもいいのでは?
しかし、そんなことを大真面目に言う人は、現実的にはカルトの人だけ。
問答無用で、ただひたすら従っているだけの境地が好き。希望を抑圧した状態を希望するという逆説の中にいる。まさにマゾヒズム的な快感の中にいる状態。

倫理とは自分自身とは無縁であるがゆえに、自己逃避に効果的となる。というか、自己逃避の安逸を得るためには、自分と無縁な体系に従うことが有効といえる。
それこそ、マルティン・ルターのように、「神の意志は、人間の行動とはまったく無縁であることが重要である。」という言葉になってしまう。

自己逃避による安逸を獲得するためには、自分とはもっとも遠い存在に頼る必要がある。
倫理とは、現状認識から逃避して、自分の希望を抑圧するための道具という面もある。
私は、何も「倫理に対して反抗しよう!」と呼びかけているわけではありませんよ。
まさにギリシャの時代から言われているように、倫理のもっとも基本は、「汝自身を知れ!」ということだと申し上げているだけです。

(終了)
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発信後記

今回のような内容の文章は、頻繁に配信しております。
まあ、お盆休みに合わせて、総集編的な文章にした・・・という面もあります。

このメールマガジンで何回も書いていますが、「べき」という言葉は、ダメダメと直結している言葉。
「べき」なんて使っている段階で、説明でも解説でも説得でもないでしょ?
むしろ、相手を黙らせたいがための言葉でしょ?
対等の関係での会話ではなく、支配・被支配の関係性の構築を目指しているわけ。

「べき」という言葉の背景にあるのは、相手を支配し、そして支配関係を確認したいとするサディズム的心理であって、逆に言うと、拘束され、支配されたがるマゾヒズム的人間にしてみれば、「べき」を使う人間の元に引き寄せられ、べき論によって、認識や思考を拘束されたいと念願するわけ。

エーリッヒ・フロムが言うように、「マゾヒズム的、サディズム的な努力のいずれもが、耐え難い孤独感と無力感とから個人を逃れさせようとするものである。」そのもの。
べきという言葉は、そんな自己逃避を表現した言葉なんですよ。
R.11/1/19