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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神
配信日 08年10月6日
タイトル 生きる意欲
そこそこの年齢になっても働かない人たち・・・いわゆる「ニート」が問題になると、こんな物言いをする人もいますよね?
「人間は、働かないと、生きては行けないじゃないか?」
「ヤツラは、いったい何を考えているんだ?」

働いて、お金を稼がないと、生きていくのは現実的に困難。
これは論理的にも、そして実際的にも、そのとおり。

しかし、そんな当たり前のことは、ニートの人たちもわかっていますよ。
働かないと生きては行けないのはそのとおりとして、じゃあ、そうまでして、生きたいのか?
そうなってくると、実は「当たり前」とは言えない。

人間が「自分は生きたい。」と思うことは、人間として、と言うよりも動物として当たり前のことだと思う人も多いでしょうが、ホントにそうなの?
このメールマガジンで、たびたび参照しております精神分析学のフロイトは、「生の本能」・・・つまりエロスがあるように、「死の本能」タナトスがあることについても言及いたしました。人間には死の安寧を求める本能もある・・・フロイト大先生はそうおっしゃっています。だから無意識的な本能の面から見ても、生きること、生きたいと思うこと、生き続けたいと思うことは、それほど当たり前とは言えないことになる。

現実的には、人間は何も考えなかったら、それこそ本能の赴くまま生きていけるかもしれませんが、まさに「人間は考える葦」なんだから、色々と考えることになる。他の動物のように生存本能だけで生きているわけではない。

「生きる意欲」だって、人間にしてみれば「人間として」生きる意欲という意味なんだから、それは「考える」ことを踏まえた、後天的なものの比重が高いのは当然のこと。
別の言い方をすると、「今まで生きてきて楽しかったから、もっと生きたい。」
そのように考えるのが、一般的な人間の姿といえるでしょう。それまでの体験や判断を踏まえて、新たな「生きる意欲」が湧いてくる・・・そんなものでしょ?この点は、どなたも異存はないでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、上記の「今まで生きてきて楽しかった。」が成立していない。だから、当然のこととして「もっと生きたい。」という感情なり意欲は、自然には湧いて来ない。

それこそ、ダメダメ家庭では家族でレジャーをするわけではない
あるいは、楽しい食事風景があるわけではない。特に楽しい思い出のない家庭・・・それがダメダメ家庭というもの。
親がグチを言い、それを子供が黙って聞く・・・それがダメダメ家庭の日常風景。
グチを黙って聞くどころか、不機嫌な親の気分をより悪くしないように、気を使いまくっているのが、ダメダメ家庭の子供。
そんな日常が、もっと続いてほしいの?
むしろ「もう終わらせたい!」と思うのが「ふ・つ・う」の人間の発想なのでは?

そして、そのグチも、ダメダメ家庭ではクオリティが高い。
以前にも取り上げましたが、「あ〜あ、生きていても何もいいことはない!」「人生は辛いことばかりだ!」というレヴェルのグチも飛び交っている。
「生きていてもいいことはない。」「辛いことばかり。」の日々を、もっと続けたいと思う人は、動物的な「生の本能」はあるかもしれませんが、人間の判断としては、論外でしょ?
あるいは、ダメダメ家庭では、そのようなクオリティの高いグチばかりではなく、「どうせオマエは努力してもロクな人間にならないぞ!さっさとあきらめろ!」「とにもかくにも親に迷惑をかけるな!」との暖かいアドヴァイスも子供にする始末。

そんなグチやアドヴァイスを親から聞かされ続けている子供としては、「生きる意欲」などとは無縁になりますよ。そんな環境だったら「この門に入るもの、希望を捨てよ!」の精神でないと生きてはいけませんよ。
逆説的な物言いをすると、ダメダメ家庭においては「生きる意欲を捨てないと、生きられない」状態となっている。

ニートの問題で、「生きるためには働かなくてはならない。」というお説はごもっともなんですが、ニートになっている人にしてみれば、無意識的には「別にぃ・・・特に生きたいわけではないんだし・・・」「死ぬんだったら、それでいいよ。」となってしまっている。
ダメダメ家庭においては、「生きている」と言っても、現実的には「死んでいない」という二重否定に過ぎない。生きる意欲を肯定的に持っているわけではない。だからこそヘタに肯定的な精神を持ってしまうと、二重否定の二重がとれて、単純な否定形になってしまう。つまり死ぬことに近づくことになる。言われてみれば、当然の論理でしょ?

このメールマガジンでは、「あまりに当たり前のものは、後になって習得する手段がない。」と書いたこともあります。それこそ「一般常識」とか「肉親に対する愛情」とか・・・それは、学校や社会で、「教えるすべ」というか、そもそも「教えるという発想」自体がない。だから後になって習得しようがない。
そんな当たり前のものは、子供時代に、家庭において自然に習得していくものでしょ?
文部科学省による学習指導要領で、「肉親に対する愛情」なり、今回のお題の「生きる意欲」を教えるように規定するの?そもそもどうやって教えるの?「生きる手段」は教えることはできても、「生きる意欲」を教えることは不可能ですよ。

ニートの問題などで、「働く意欲」の問題になってしまっているようですが、もっと根源的に「生きる意欲」の不在の面があるわけです。
そして、「生きる意欲」を持っていない人間は、残念ながら、後になってそれを習得しようがない。子供時代に楽しい体験をしていない人間は、言葉としては「生きる意欲」なり「生きがい」は語れても、実感として、「生きる意欲」は持っていない。
これは現実的にも、あるいは論理的にも、避けようがないことなんですね。

今回のメールマガジンの文章をお読みになっているマトモな方は、「じゃあ、『生きていても何もいいことがない!』と子供の前でグチる人間が、当人自身がグチるのはいいとして、どうして子供なんて作ったの?」と思われるのは当然でしょう。
しかし、このメールマガジンで何度も書きますが、そんな生きる意欲がない人間が、唯一できることは、子作りだけ。まさに「生きる意欲」がなくても「生の本能」というか「性の本能」・・・まさにエロスはあったりする。
そして、そんな人は、結果として出来た子供を、「生の手段」・・・つまり「稼ぎ口」としてしまう。
それこそ、ボクシングの亀田父親なんて、その典型でしょ?
あるいは、自分の娘に売春をさせて、その「あがり」を取り上げる親という事件も、たまにあったりするでしょ?
そのレヴェルまで行ってしまっているのは、レアケースと言えますが、ダメダメ家庭はあんな面もあるわけです。

このメールマガジンでは、一般的なマトモ家庭では当たり前に存在しているもので、自分が育ったダメダメ家庭では存在しないものの場合には、当人がそのことを自覚するしかない・・・そのように書いています。
そして、それを当人が、その欠落しているものを、自分で埋め合わせるしかない・・・そう書いています。

この「生きる意欲」の欠落についても自覚するしかない。
ただ、この「生きる意欲」は、当人がヘタに自分で埋め合わせようとすると、余計にダメダメが進行してしまうもの。

それこそ、それまで「生きがい」「生きる楽しみ」とは無縁だった女性が、子供を持ち、子育てをすることによって、自分の「生きる意欲」につなげたい・・・
こんな発想はポピュラーでしょ?
「子供を持って、母親になれば、このワタシにも充実した日々がやってくる!」
しかし、そうは思い通りに行かないのが現実というもの。

もともと当人自身に「生きる意欲」があるのなら、別の言い方をすると、自分が子供時代に楽しかったのなら、子育てをすることで、新たな喜びとすることも、リーズナブルだし、その人の考えでしょう。
マトモ家庭出身者は、子供時代に楽しい体験もある。だから、自分でもっと色々なことをしたいと思うのは当然のこと。あるいは、自分の子供にも楽しい思いをさせてあげたいと思うことになる。

しかし、当人が「生きる意欲」を持っていないのに、子供を持つことによって、生きる意欲を得ようと考えたりする・・・そんなダメダメ家庭出身者も現実に多く存在しているわけです。
以前にも取り上げましたが、そんな人は、実際に子供を持ったりすると、「子供を持ってはじめて、愛というものを知ったわ!」なんて言葉で周囲に感激を語ることになる。

しかし、それって、別の言い方をすると、「子供の側が、親に対して、愛を与え、教えている。」ということでしょ?あるいは、子供が親に「生きがい」を与え続けることでしょ?そんな環境だったら、子供も息が詰まりますよ。そもそも、そんな女性は、「子供にとって、何が楽しいのか?」そんなことを自分でも分かっていないわけですからね。結局は、家庭の内外でトラブルになって、今度は、子供を犯人認定するようになる。「あれだけ子供に期待していたのに、裏切られたわ!」そんな嘆きになってしまう。その「裏切られた!」という被害感情がどんな行為に結びつくのか?これは、誰でもわかること。
当人に生きる意欲がないのなら、それを自覚して、子供を作るのも慎重になった方がいいのでは?

しかし、自己逃避で抑圧的なダメダメ人間は、そもそも「自分は生きる意欲を持っていない。」と自覚すること自体から逃避する。
そんな人は、安直に、「生きがい」を求め、上記のように「子供にすがったり」、あるいは、自分の子供以外でも、様々な他者にすがるようになってしまう。
それこそストーカーもその典型でしょ?

「オマエにはオレが必要だ!」
「オレにはオマエが必要だ!」
共依存状態になり、その依存関係を自分の生きる意欲としてしまう。
このようなことは、プチ・ストーカー状態と言えるボランティアの連中にも共通していますよね?
自分の生きる意欲を他者に依存している状態になってしまう。

その手のボランティアの連中は、本質的には、自分自身の生きる意欲を持っていないので、他者への関わりにおいても、人間的な温かみなり、逆に、厳しさもない。善意とされる行動が実体としての人間と結びついていない。現実の人間から遊離した抽象的な正義にすがってしまう。まさに、黙示録のヨハネがいうように「冷たくも、熱くもない」の「な〜んとなく」の状態。たまたま熱くなると、クレーマーのようになり、誰かをつるし上げるだけ。

自分の「生きる意欲」を他者に依存している状態は、所詮は、自分自身から目を逸らしているだけ。そんな人は、周囲に合わせて無理に長生きしようとすると、周囲と軋轢を起こし、結局は自暴自棄になり、ドッカーンと大きな犯罪を起こしてしまう。
そんな事件は、実際に多いでしょ?まさに最近でも、色々とありましたよね?

人間は生きる意欲があれば、何とでもなりますよ。
今の日本だったら、働き口なんて、その気になればいっぱいある。
しかし、「生きる意欲」がないのなら、「働く意欲」の問題ではない。
そして、その「生きる意欲」は、当人ではどうしようもないもの。
そんな「生きる意欲」がない人間も、現実的に結構な割合を占めているわけです。
一般の公立の学校だったら、35人のクラスだったら一人くらいは、いや最近では、もっと多くいるでしょう。生きる意欲がないがゆえに、子作りをするのがダメダメ家庭の現実ですからね。そんな家庭の子供は、やっぱり生きる意欲がない人間になってしまう。

自分が生きる意欲を持っていないことを認めるのは、精神的に大変にシビアーですが、より悪くしないためには、そんな自覚が必要になってくるわけです。
そんな人は、自分の目の前の課題に真摯に向き合い、それを一つずつ解決していく・・・そんなパターンしかないわけです。それこそ芸術作品では、そんなメッセージが込められた作品は多いもの。生きる意欲の欠落を自覚した上で、生きるという遠大な視点から離れて、直近の課題に集中する、そして、その過程で死が訪れたら、アッサリ受け入れる・・・そんな発想が有効で必要になってくる。それこそ作曲家のチャイコフスキーにも、そんな言葉がありましたし、文学者のチェーホフにもありましたし、映画作家のロベール・ブレッソンにもそんなセリフがありました。
生きる意欲を埋め合わせることを考えるのではなく、自分の眼前の課題に集中するしかないんですね。

そんな直近の課題に取り組む過程で、小さな充実感を得る。そしてそれを確実に積み重ねる。そして、「もうちょっとの間だけ生きる意欲」につなげる。そんなパターンしかありません。先を見すぎると、逆に、自分自身を見失うだけ。

このメールマガジンでボロクソに書いていますボランティアの連中だって、それが無私の精神にまで到達している人なら、それは立派なこと。ヘンに自分自身の「生きがい」とか「やりがい」なり「信念」を追求すると、そこに「生きる意欲のない自分自身」のキャラクター、別の言い方をすると「自分自身を肯定しているわけではない」面が出てきてしまって、結局は、他者を犯人認定するだけ。目の前の人の笑顔で完結するくらいの発想だと、それはいわば無私の精神と言えるでしょう。しかし、それ以上に自分の善意を追求すると、自分にとって逆効果なんですね。

直近の問題に集中することは、思考停止の結果ではなく、自己認識と判断を元に、自分自身から離れる意味となる。
それには、自分自身は「生きる意欲」がない人間である、と自覚する必要があるわけです。
自分を騙すために「かりそめ」の信念を掲げ、自己逃避するのではなく、自分を厳しく見つめた上での、無私・・・それが唯一の解決なのでは?そんな日々の中で、その人なりの尊厳も得ることができるのでは?

ただ、自己逃避で抑圧的な人間が、そもそも自分を厳しく見つめることも、実に難しい・・・
これが現実ですし、だからこそ、自暴自棄になりドッカーンとなった事件も頻発してしまう。
以前に取り上げたエーリッヒ・フロムの言葉である「破壊性は生きられない生命の爆発である。」そのままになってしまう。
生きる意欲のない人間が、無理に生きようとすると、その無理が嵩じて自暴自棄になってしまう・・・
そんな例は、実にポピュラーでしょ?

当人としては自覚するしかないわけですし、社会としても、「生きる意欲のない人間」についての理解と適切な対処も必要になるわけです。
「生きる意欲」の不在の問題は、子供時代からの積み重ねであって、一時的な失恋とか失業とか疾病によるものではありません。
いわば、「前から自分は生きる意欲を持っていなかった。」ことに、その時点で気がついただけ。自分を騙して生きていたことに気がついたわけです。
そんな人間に「ガンバレ!」「元気を出せ!」「働け!」と励まして、強制的に働かせても、それは「生の手段」に過ぎないわけで、「生の意欲」の問題が解決されたわけではない。その仕事で、ちょっとした充実感を得るのなら、それはラッキーですが、そのような小さな充実感とは逆の結果になったら、その「軋み」が増大し、それが破壊性の増大につながってしまう。
生きる意欲のない人間を、周囲の人たちが、強引に生きさせようとしても、結局は自分自身を騙し、周囲を騙す技術が向上するだけ。そうなると、周囲の人がトラブルに巻き込まれ、結果として周囲の人の側の生命が終わってしまう・・・そんな事例も、頻繁に起こっているでしょ?

あるいはスパルタ系の学校において、「このまま行ったら死んでしまう!」という極限状況に生徒を追い込み、「生きる意欲」を生徒から引き出そうとするやり方もありますよね?昔は「○○○ヨットスクール」なんて組織がそんなことをやっていました。
それはショック療法としては、意味があるでしょうが、「それまで楽しい体験をしていない。」という事実は埋め合わさっていないわけだから、そこで発生した「生きる意欲」が長続きするものではない。持続する「生きる意欲」につながるのは、恐怖体験ではなく、楽しい体験の方であることは、当然のことでしょ?
ショック療法もいいけど、本質的な面がおざなりになっては意味がないといえます。
別の言い方をするとクリティカルな状況を作り出し「死にたくない!」という感情を作り出すのは可能ですが、「死にたくない!」という感情は、所詮は二重否定的な感情。そんな二重否定的な感情が、「生きたい!」という肯定的な感情なり意欲に繋がるわけではないんですね。

「生きる意欲のない人間」は、この現実社会においては、「生の手段」と「生の意欲」との間の乖離による破壊性が常に付きまとっている。だから、最悪の場合には、せめてその破壊性を当人自身に向けるようにするしかない。ただ自己逃避であるがゆえに、その破壊性が、自分を通り越して他者に向かってしまう・・・それがまさに現実なんですね。


ちなみに・・・
この文章は、基本的なドラフトはチョット前に出来上がっておりました、本来はもうちょっと寝かせようと思っていたのですが、先日発生した、大阪の「個室ヴィデオ店」での放火事件を踏まえ、今回配信することにいたしました。

「生きることがイヤになった。」との犯人の言葉ですが・・・
その「生きることがイヤになった。」のは、最近のことなの?
そのことを自覚したのは最近のことなのかもしれませんが、じゃあ、「生きるのが楽しかった」ことはあるの?

これも以前に言及しておりますが、事件前も事件後も、その心理は大きな変化はないもの。
ただ、自分が目を逸らしていた問題から目を逸らせなくなっただけ。
それまで自分を騙していたけど、騙しきれなくなっただけ。

そして、そんな人は、自分を騙すために、子供を作る・・・そんなパターンも現実的に多い。
今回の大阪の事件の犯人がまさにそうでしょうし、その犯人の親も、そのパターンでしょうね。

(終了)
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発信後記

先日の大阪の事件に関連した文章にいたしました。
実に長いし、実に重い文章になってしまっていて申し訳ありません。
ただ、内容的には非常に意味がある文章だと思っております。
私としても渾身の文章ですよ。

ちなみに、極限の状況では、「人生の課題」などの高邁なものから離れ、「直近の課題に集中する」しかないという発想は、極限の苦悩を経た芸術家がよく言っているものです。
直近の課題に集中するためには、逆に言うと、「自分の人生の課題」に直接に向き合ったりすると、とんでもないことになる・・・という自覚が必要だったりするもの。
自分を厳しく見つめているが故に、「自分の人生の課題」と向き合うことから離れる選択をする・・・そのようになります。

往々にして晩年の芸術家がよく言っていたりするもの。
逆に言うと、そんなことを言い出す人は、年齢は別にして、晩年なんですね。
R.11/1/17