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カテゴリー ダメダメ土曜講座(表現と作品 編)
配信日 10年4月10日
タイトル xxxHOLiC
このメールマガジンにおいて、ダメダメ家庭の基本として、当事者意識の欠如と、強い被害者意識を挙げております。それらが様々な境界条件と組み合わさって、ダメダメ家庭の諸相となってくる。

それこそ、「会話の不全」なり、「強い対抗心」なり、「過度の、いい人願望」なりの様々なダメダメの様相になってくる。
そんなダメダメの諸相の中でも、見分けやすいものもあれば、見分けにくいものもある。
たとえば、強い被害者意識なり序列意識は、比較的見つけやすいでしょう。「あの人は、スグに逆上する・・・」「あの人は・・・何でもかんでも上下関係でものを見る・・・」そういうことは、あまり鋭敏でない人でも、気をつけていればスグにわかること。

比較的、見分けるのが困難となると「人に合わせすぎる」キャラクターの問題があります。
抑圧的な人間は、周囲から目立たないように、人に合わせてばかりになるケースが多いわけですが、周囲から目立たないように・・・と、行動しているんだから、見分けるのは難しい。しかし、人に合わせてばかりの親は頼りにならない。だからこそ子供が切羽詰ってしまってトラブルとなる。そして、「あの親御さんは、あんなに丁寧で腰が低い人なのに・・・子供が居丈高で・・・」なんてことになってしまって、子供が責められてしまう。
あるいは、子供の事件の後になって、「あの子は目立たないふつうの子だったのに、どうしてこんな大それたことを?」とのボンクラご用達のコメントにつながっていく。

ただ、「人に合わせすぎる」キャラクターの問題も、説明されれば、「そう言えば、あの人は、単に人に合わせているだけなんだ!自分なりに考えて行動しているわけではないんだ!」とわかることになる。鋭敏な人でないと、「人に合わせすぎる」キャラクターを見分けることはできないでしょうが、そこそこの人であれば、その点について説明されれば理解はできるもの。

実は、その「人に合わせすぎる」問題よりも、もっと理解しにくいのが「不幸への憧れ」の問題です。
ある種の人は、不幸な状況を自ら率先して求めてしまう。幸福を求めて失敗して不幸になるのではなく、不幸な状況を求めて、当人の望みどおりに不幸になってしまう。
そんな「不幸への憧れ」という考え方は、説明されても、理解できない・・・そんな人が多いのは、ある意味において当然でしょう。これは単に感性の鋭敏さだけの問題とはいえない。「不幸への憧れ」という考えは、既存の常識的な発想とはかけ離れている。だから具体例がないと理解できないのは当然でしょう。

ですから、このメールマガジンにおいて、そんな「不幸への憧れ」をテーマとしたり、そんなキャラクターを描写している作品を取り上げたりしております。
それこそバルザックの「谷間のゆり」のアンリエットは、「不幸への憧れ」に執りつかれた存在と言えます。
あるいは、アメリカの詩人のエミリー・ディキンソンの詩の中で「不幸への憧れ」を直接的に表現した作品を取り上げたりしております。
あるいは、スペインの劇作家カルデロンの戯曲の中にある「嘆きを並べるのは、まことに心楽しいものだから、人は求めても嘆けとか・・・」なるセリフに言及したりしております。

「不幸への憧れ」は、「学術的な視点」というよりも、芸術的な視点なんですね。
その人がしたことや、言ったことではなく、「しようとしないこと」や、言おうとしないことに注目すると見えてくるもの。
だから、芸術作品には出てくることもある。しかし、やっぱり多くの一般の人には理解できないでしょうし、それに「不幸への憧れ」を扱った作品自体が少ないもの。

そもそも「不幸への憧れ」を理解できるためには、「不幸への憧れ」に執りつかれた実際の人を間近で見ていないと、実感として理解できないでしょう。言葉として説明されただけでは、「なんじゃ、そりゃ?!」となってしまうもの。
実感として理解できないし、納得もできないのだったら、「不幸への憧れ」をテーマにして作品を作るどころではないし、客観的な作品どころか、ちょっとした文章にまとめることも難しい。だから、そんな「不幸への憧れ」について記述した文章は、作られにくい。

それに、不幸をたくさん見てきたからと言って、それを指摘できるものではない。
あるいは、ダメダメを多く見てきたからといって、それを指摘できるわけではない。
中国や韓国なんて、ダメダメの事例には事欠かない。
しかし、その中にいると、そのダメダメに巻き込まれ、ダメダメを疑問に思わなくなってしまう。
結局は、当人自身がダメダメになってしまう。
そして「あの○○が悪いんだ!あの○○をやっつけろ!」と他者を犯人認定するだけ。
中国や韓国だけでなく、日本などの「市民運動」もそのパターンでしょ?
まずもって、ダメダメな人との心理的な距離感を確定させないと、ダメダメに巻き込まれるだけなんですね。

たとえば、以前に配信した「不幸への憧れ」の文章において触れましたが、「積み木崩し」という本を書いた日本の芸能人さんは、まさに絵に描いたように「不幸への憧れ」を体現した存在でしたが、実際に「不幸への憧れ」に身を焦がす人は、自分の不幸や嘆きの言葉を語るだけで、「不幸への憧れ」それ自体を語るわけではない。だから、その人の「不幸への憧れ」は直接的には見えてこない。
その芸能人さんの身近にいた人、たとえば家族の人は、そんな「不幸への憧れ」に身を焦がす家族の姿を見続けていたわけだから、「不幸への憧れ」は、実感として、それなりには理解できるでしょう。
しかし、「不幸への憧れ」に身を焦がす人の間近にいれば、現実としては、不幸のネタにされてしまうことになり、「不幸への憧れ」を描写し作品として残すどころではない。

実際に、あの「積み木崩し」を書いた人の奥さんは自殺し、娘さんは拒食症でお亡くなりになったでしょ?その方々は、本来は、「不幸への憧れ」を一番理解できるはずの人なんですが、不幸に憧れている人の身近にいたために、その人の不幸に巻き込まれ、結局は、生きることも困難になってしまう。
だから、考察するとか記録に残すとか客観的な作品に残すということはできなくなっている。
「不幸への憧れ」という考えは、そんな人を身近に見ていないと理解できないけど、身近に見ている人は、生存確率が低いと言える。

そして、不幸に憧れている人は、まさに自分の不幸を達成する過程で、周囲の人間を抑圧的にしてしまう。現実逃避的で、自己逃避的な人間にしてしまう。
嘆きばかりを語る人に対しては、何も言えないし、そんな人に何かを言っても「オレが一番かわいそうなんだっ!」と逆切れされるだけ。そんな人が身近にいるんだから、周囲の人は、自分の希望を抑圧してしまいますよ。だからどうしても現実逃避で自己逃避になってしまう。
現実逃避で自己逃避なんだから、目の前の事態を、正確に認識することもできませんよ。
だから、焼けつくように不幸に憧れ、不幸を達成するために最善の選択をし続けている人を、視覚的には見ても、心の目で見ることから逃避してしまう。結局は、その人と一緒に嘆くだけになってしまう。
そうやって、まさに「不幸を憧れている」人の望みどおりに、一緒に嘆きの声を上げることになる。

前にも書きましたが、「不幸への憧れ」を客観的な作品として残すことは、その手の人を身近で見ていて、かつ、その人を醒めた目で見て、そして、現在では物理的に距離を取ることができていて、そして、当人としては今のところは何とか生きている。そんな条件がまずは必要になってくる。
もちろん、一般の人をはるかに超える洞察力が必要だし、それを作品として残すためには、相応の表現力も必要になってくる。
・・・まあ、現実的には、そんな人なんて、ほとんどいない、って・・・イヤ、ホント。
しかし、中には例外的に、今も生きている人もいる・・・まあ、たまにね。
そんな人は、まさに心の中にうごめく「不幸に憧れている」人の姿を、客観的な作品として残そうとすることになる。

ということで、今回は、アニメ作品である「xxxHOLiC」という作品を取り上げましょう。
この作品はCLAMPという女性漫画家集団が原作のようです。このCLAMPについては、以前に母子家庭出身の匂いがすると書いたことがあります。東京タワーが異常に好きらしいんですね。あの手の「」は、いわば父親の象徴のようなもの。

この「xxxHOLiC」という作品は、全24話の第一シリーズがあって、その次に全13話の第2シリーズが続いたようです。
ちなみに、「不幸への憧れ」を直接的に表現したのは、第一シリーズの第17話です。
ほとんど、この私と同じことを言っているし、前に挙げたエミリー・ディキンソンの詩に実に近い。

さて、「不幸への憧れ」を作品として表現するためには、残念ながら、その手の人を実際に「間近で」見ていないとできない・・・そのようなことを前に書いています。
じゃあ、この作者さんは、具体的には、どんな「不幸への憧れ」の姿を見たの?

ということで、まずは第2シリーズの第9話〜第10話に出てくる母子から考えて見ましょう。
少女の霊能者と、そのマネージャーをやっている母親の話です。つまり母と娘の母子家庭です。
今現在が母子家庭なのはいいとして、「じゃあ、どうして母子家庭なの?」
そんな話になりますよね?

この母子は、父親の話は全然しないし、写真もないし、「お墓参り」の話もない。
つまり、死別ではなく、離婚して「シングルマザー」となったのか、そもそも結婚もしていないことが推定できる。
では、その家庭のダメダメの諸相をちょっとピックアップしてみましょう。

名前を呼ばない・・・母親は自分の娘の名前を呼ばない。
そのせいか、娘の「小羽」ちゃんも、自分の母親のことを、「あの人」なる呼称。

娘の霊能力をアップさせるという名目で、食事は精進料理に近いもの。しかし、その制約の中からでもおいしくしようとは考えない。だから、娘がお味噌汁の具について、「しめじ」と「小松菜」について聞かれても、「好き・・・と思う」という答えになってしまう。たとえ卵などの動物性はダメとしても、というか、だからこそ「しめじ」とか「小松菜」くらいは知っていないとヘンでしょ?「しじみ」とかではないんですからね。「料理の知識」が非常に少ない状態。
食事そのものが楽しくなるようにという発想がないので、食器の種類が少ない。まさにエサを食べる・・・そんな感じになっている。

母親は子供に楽しんでほしいとはまったく考えない。だから部屋も子供っぽいものがなく「殺伐」とした状態。
そして子供っぽさを許さず、「そんな子供っぽい言い方はやめなさい!」と一喝。
娘の父親の写真がないのはともかく、娘の小さいの頃の「写真」もなさそう。
母親からそんな扱いを受けているので、娘の表情から「生気がなくなってくる」。ちなみに、ご丁寧に「泣きぼくろ」まである。
母親は何かというと逆上気味の顔をする。
そして物言いも、「アンタが悪いんだ!」というもの。決して「謝罪をすることはない」。
言葉が飛び交っていても、「相手の意向を聞き取ろう」なんて発想は持っていない。ただ自分の被害を主張しているだけ。
だから「上からの物言い」。
それこそ、娘に仕事を持ってきて「ワタシが仕事を取ってきて上げているから」と、恩を着せようとする。

そして、自分の被害を語る。
「いつも人を見透かすような目をして・・・人をバカにして・・・こんな変わった子をもってワタシはなんて不幸なんだ!もう、あきあき・・・ずっと振り回されっぱなし・・・」と嘆く。
しかし、現実的には、振り回されているのは、子供の方でしょ?

そもそも「子育ては親の被害」という確信を持っているので、子供の側が親に対して謝罪と補償をする義務があると思っているわけです。
だから、「アンタに○○以外に何の価値があるって、いうの?」と子供に対していうことになる。
まあ、この娘さんは霊能者だから、その方面で、お金が稼げますが、そんな能力がなければ売春くらいは平気でさせますよ。
しかし、それでも恩を着せようとする。
それこそ「どうして素直にハイといえないの?アナタのためを思って言っているのよ!」と、「相手を支配しよう」とする。
そんなに被害ばかり語っていても、その母親は、自分の娘を手放そうとはしない。
外の世界を見せようとはしないわけ。

まあ、ダメダメ家庭の空気感がテンコ盛と言えます。
購読者さんの中には、「そんなセリフは、ワタシも言われたなぁ・・・」と思われる方もいらっしゃるのでは?あるいは、以前に取り上げたマルグリット・デュラスの「ラ・マン」での描写とかなり近い。

ちなみに、この「xxxHOLiC」という作品は、シリーズ全体では、高校生の男の子が主人公です。
その男の子も、この女の子と同じように、オカルト的というか「あやかし」が見えるという設定です。
その男の子は、一般人が見えないものが見えるもの同士の連帯もあり、その霊能者の女の子をその母親の元から救おうとします。

その男の子は、両親が交通事故でお亡くなりになっているので、現在一人暮らし。
しかし、「料理上手」という設定です。
料理は、まさに「あの人においしいものを食べて喜んでほしい。」という気持ちにつながっているわけですし、そんな心情を両親から受けついでいることを示している。
実際に両親がいなくても、受け継いでいるものはあるわけです。
ちなみにアパートの部屋には両親の写真もある。

その高校生の男の子のサポートで、その霊能者の女の子は助け出され、まあ、一応は、母親も改心することになる。
そして、その女の子は、母親が改心したら、「母さん」という呼称に変わることになる。

こんな母親のような姿を見続けていたら、ある意味において、「不幸への憧れ」を理解できるようになるでしょう。ただ、まさに、「いつも人を見透かすような目をして・・・人をバカにして・・・こんな変わった子を持って、ワタシはなんて不幸なんだ!」なんてことを言われちゃうでしょうけど。というか、たとえば、デュラスだったら実際に言われているでしょうね。

ちなみに、前にも書きましたが、この作品の主人公の高校生は一種オカルト的な「あやかし」が見えるという設定です。
一般人が見えないものが見えるというのは、芸術家が、自分が持っている芸術的な洞察力を象徴する際に、使ったりするもの。
その母子家庭の女の子が霊能者という設定なのは、母子家庭の中で、一般人とは違うものを見ていた女の子を指し示しているわけです。
まあ、本当に幽霊が見えるようなオカルト的な能力がある人もいるでしょう。
しかし、芸術家が自分自身を託す場合も多いんですね。だから幽霊が見えなくても、芸術的な霊感がある人だったら、「ああ!そういうことね!」とスグにわかりますよ。

この「xxxHOLiC」という作品でよく出てくるセリフは、「偶然なんてない。あるのは必然だけ。」というもの。洞察力があれば、それぞれの因果関係が見えたりするもの。洞察力がないがゆえに、因果関係が見えなくて、「それは偶然だ。」で納得してしまう。
しかし、それこそ不幸な境遇だって、ちゃんとその折々の選択を考えてみれば、決して偶然ではなく、必然の積み重ねだったりするもの。

ただ、不幸な境遇は必然の積み重ねですが、そこから脱却するには、偶然も必要になってくる。それこそ、この女の子が、母親から距離を取ることができたのは、一般人には見えないものが見える、自分と同類である男の子の助けがあったからと言えるでしょう。
そんな出会いは、偶然の要素もあるわけです。その出会いを生かすことができるかどうかにおいては、本人の問題も大きいわけですが、出会いそのものはやっぱり偶然も面もあるわけです。
だからこそ、現状をしっかり認識し、自分をしっかり認識して、準備しておく必要があるんですね。

あと、このシリーズを通して、実に頻繁に出てくるセリフは、「四月一日と書いて『わたぬき』。」というもの。
主人公の男の子の苗字が、「四月一日」と書いて『わたぬき』と読む苗字なんですね。
日本人の苗字は色々とありますから、そんな苗字の人も実際にいるでしょう。しかし、そんなヘンな苗字にしたのはどうして?そして、その苗字を強調するのはどうして?

じゃあ、四月一日はどんな日なの?
四月一日は、日本では、年度の変わり目の日。別の言い方をすると、2つの世界の境界線
もちろん、四月一日は有名なエイプリル・フールであって、真と偽、現実と虚構が交差し、混在する時間。
つまり、その苗字は「あやかし」を見るという主人公のキャラ設定に対応しているわけです。
ちなみに、その高校生の男の子のバイト先の上司の女性は、たまに「おいらん」風の衣装を着たりします。「おいらん」は、フランス風にいうと「ドゥミ・モンド(半世界)」・・・やっぱり真実と虚構の交差点というイメージがあるわけです。

2つの世界が交差する状況・・・それがこの作品のテーマの一つとなっています。
実際にごらんになったらスグにわかるでしょう。
たぶん、作者さんは、「四月一日と書いて『わたぬき』。」という言葉を発端にして、その言葉を中心線にして、この作品をまとめあげたんでしょうね。
まるで縁日での綿菓子を作っていくようなもの。
それぞれの名前には、「託す思い」があったりするもの。

ちなみに、その上司の女性の名前は「壱原侑子(いちはら ゆうこ)」という名前です。市原ではなく、壱原という漢字から、たぶん、一番目の場所・・・つまり「場所的な始原」を意味しているのでは?
あと、「侑子」の「侑」の字は、分解すると、「一ノ月の人」となるわけですから、時間的な始原を意味しているんでしょうね。

アニメだろうが、文芸作品だろうが、作品を理解するためには、基本的な教養や洞察力が必要なもの。
異常なレヴェルまで分かり合えるには、それ相応の、お互いの前提条件が必要になる。
まあ、一般の方は、細かいところまでわかる必要はないわけですが、「不幸への憧れ」についてちょっと頭に入れておくには、どこのレンタルショップにもあるようなので、入手性もいいし、便利な作品だと思います。

前にも書きましたように、その「不幸への憧れ」に関連した回は第一シリーズの第17話ですが、「幸福を受け入れることができない心理」として描かれています。幸福になるためには、幸福になるための選択をしなくてはならない。しかし、抑圧的なダメダメ家庭の人間は、幸福になるための代償や代価を払ってでも、幸福を勝ち取ろうとする勇気がない。
まさに「ダラぁ〜」と「ふつう」に流れていけばそれでいいと思っている。
しかし、ただ流れているだけでは、不幸を見ないというだけ。それに「尊厳もない」。

自分自身の尊厳のためには、常に選択の場に身をおく必要があるわけです。
この作品では、2つの世界の混在と、その中での選択の重要性が執拗に語られております。
選択の場においては、心楽しい正義などはないし、
どんな選択をしても、正義が達成されるものではない。
達成されるとしたら、血みどろの尊厳だけ。
芸術家の業績なんて、そんな血みどろの選択の積み重ね。

「あやかし」のようなものが見えなくても、あるいは芸術的な洞察力がなくても、人が生きていれば、選択は常について回るもの。
人は、その選択を覚悟を持ってやっていくしかないし、それによって、尊厳も得ていくものでしょ?
「不幸への憧れ」というのは、幸福になれるチャンスを見ようとしなかったり、あるいは、そのような選択から逃避することで表れてくるもの。
何も選択しないがゆえに、そして、そのような逃避を「ふつう」と肯定しているがゆえに、人はまさに不幸に突進してしまうわけです。

(終了)
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発信後記

ちなみに、登場人物の名前ですが、主人公の「四月一日」という苗字の方は意味がわかるわけですが、名前である「君尋(きみひろ)」の方はちょっと私にはわからないですねぇ・・・

名前というのは、その手のフィクションにおいても、それなりの意味を持っているもの。
もちろん、実在の人間の名前も、色々と示唆的だったりすることは、このメールマガジンで、たまに触れたりしております。
なんでも、名前の漢字の問題で最高裁まで争った親がいたそうですが・・・
そんな行動からも、色々と見えてくるでしょ?
 R.11/1/3